軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第79話 お約束? でもやりすぎは危険

朝の膳は、まだ湯気を立てていた。

汁の香りと炊きたての雑穀米の甘みが部屋に満ち、誰もが箸を取って食べ始めた、その瞬間だった。

すう、と――障子が、ひとりでに開く。

同時に、白い煙が廊へと溢れ込んできた。濃く、やや湿った煙で、鼻を刺すような匂いがする。次の瞬間、その煙の向こうから、げほ、げほ、と明らかに咳き込む声が響いた。

「……げほっ、げほっ……っ、げほっ!」

修平だった。半ば涙目になりながら、手にした籠を振り、無理やり煙を送り込んでいる。

どう見ても演出というよりは、嫌々やらされている仕事で、煙は優雅さよりもむしろ現実的な不快さを伴っていた。

その背後から、のそり、と影が現れる。ぽく……ぽく……ぽく……

間の抜けたような、軽い太鼓の音が続く。見ると、希丸が真顔で太鼓を叩いているが、妙に間延びした調子で、緊張感とは程遠い。

一方で敦丸は 螺貝(ほらがい) を口に当てていたが、

「……すぅ……っ……、フスゥー……」

音は出ない。ただ息を吸って、吐いているだけで、沈黙が続いている。部屋の空気が、妙な形で止まった。

やがて煙の中から現れたのは、マントのように着こなした陣羽織を羽織り、白く塗られた顔。

ウコンで無理に黄金色に見えなくもない色で染めた髪の毛は逆立ち、血の気を失った石のような肌に、目元は黒く鋭く裂け、頬は薄墨が塗られ、口元には不敵な紅が吊り上がる。

顎へと垂れる朱が、光を鈍く弾いた。誰もが動けない。ただ呆然と、その姿を見ている。

その中で、ひとりだけ。「はっ……ははははははっ!!」

元伯が腹を抱えて笑い出した。抑えようとする気配すらなく、ただただ面白いものを見たと言わんばかりに。

だが当の本人は気にした様子もなく、ゆっくりと一歩、部屋へ踏み入る。

「フハハハハ! ……よくぞ辿り着いたな。霧の彼方より来たりし者どもよ、耳を貸すがよい」

ぽく……ぽく……間の抜けた太鼓が続く。螺貝は、やはり鳴らない。

「我は冥府を司る者、閻魔大王・貴丸也」

修平が背後でまだ咳き込んでいる。

「数えきれぬ刻を越え、命の軽重を見定めてきた。人の理など、我が掌に転がる塵に等しい。御年、十万十歳。人世の理など、我の掌の上で転がす数珠のひと粒に過ぎん!」

煙がやや晴れ、顔の陰影が際立つ。だがその荘厳さを、ぽくぽくという音が容赦なく削いでいく。

貴丸はそこで、わずかに間を置いた。視線だけが、場にいる者たちを一巡する。

「――さて」声の調子が、ほんの僅かに変わる。

「このたび我に下されたるは、北の相馬の地へ赴けとの沙汰。されど――」

そこで、口元の笑みが深くなる。

「我とて、好んで足を運びたい地ばかりではない」

ぽく……ぽく……と、太鼓が妙に間を外す。

「ゆえにこれは、ささやかなる抵抗にして、戯れの一興。退屈なる朝餉に、冥府の風をひとすじ吹き入れてやろうというものよ」

後ろで修平がまた咳き込み、煙がぶわりと揺れる。

「恐れるもよし、笑うもよし。いずれにせよ――」

わずかに顎を上げる。

「ただでは済まさぬ」

ぽく……ぽく……間の抜けた音が、やけに長く響いた。

「いま、この日の本は濁りきっている。欲にまみれ、因果を忘れ、己が影すら見失った。ゆえに――ここで断ち切ってくれよう!」

敦丸がもう一度螺貝を試みるが、やはり音は出ず、微妙な沈黙だけが積み重なる。

「八万四千の迷いは、すべて業火に 焚(く) べる。残るは灰か、あるいは真のみ。この地はやがて、逃れ得ぬ理のもとに沈むであろう」

元伯の笑いは止まらない。肩を震わせながら、涙まで浮かべている。

「逃げ場はない。祈りもまた、時を違えれば届かぬ。夜はすでに満ちている――その先に何を見るかは、お前たち次第だ」

貴丸は、ゆっくりと視線を巡らせた。

「……では、聞くがよい。我の十八番。冥府供養の館」

ぽく……ぽく……

♪ 深山の闇を縫い、乳白色の霧が音もなく這い寄る。

そこは、地図にも、人の記憶にも残らぬ隠れ里。

異形の翁に背負われ、物言わぬ童が運ばれてゆく。

辿り着くは、朽ち果てた館。

中では、生ける者がその体温を奪われ、

じわじわと、白き脂に覆われてゆく。

声は届かず、指一本動かせぬ。

ただ、刻々と迫る終わりの時を、瞳だけで見つめるのみ。

震えることさえ許されぬまま、陽の昇る朝は永遠に奪われた。

今宵もまた、ひとつの魂が供物として捧げられる。

手足は封じられ、叫びは喉の奥で凍りつく。

慈悲なき夜の、惨酷なる幕開け。

冥府の主は、その無惨な姿を眺めてあざ笑い、

慈しみの仏たちは、ただ静かに涙をこぼす。

「返せ、元の場所へ」と、魂の叫びが木霊するが、

(――(台詞)お前が戻るべき場所など、もはやどこにもないのだ。フハハハハッ!)

土に還らぬまま、形だけを留める者たち。

微かな希望さえ絶たれ、二度と訪れぬ明日を夢見て眠りに落ちる。

南無、南無、南無、南無――誰に届くとも知れぬ祈りが、ただ霧に溶けた♪

ぽく……ぽく……歌い終えても、太鼓だけが続く。

沈黙。やがて、誰かの箸が小さく音を立てて落ちた。

その横で、元伯だけが、まだ笑っていた。

障子から流れ込んだ煙はすでに薄れ、白塗りの顔も、黒く裂ける目元も、朱の筋も、現実の光の中ではどこか居心地悪く浮いている。

ぽく、ぽく、と続いていた太鼓も止み、螺貝はついに一度も鳴らぬまま、ただの貝に戻っていた。

誰もが箸を持つ手を止めたまま、言葉を失っている。

ただ一人、元伯だけが腹を抱えていた。

「はっ、はははははっ……! いや待て、いまのは……っ、ははっ、だめだ、腹が……!」

笑いは抑えようとするほどに膨らみ、涙すら滲ませている。

その横で空然は、青ざめた顔のまま両手を合わせていたが、やがてそれだけでは足りぬと悟ったのか、膝を折ってその場に座し、低く息を整える。

「……いけませぬ……いけませぬぞ……これは……これは……軽んじてよいものでは……」

その声は震えていた。次の瞬間、空然は懐から数珠を取り出し、強く握りしめる。

「懺悔、懺悔……願わくば、この場の穢れをお鎮め給え……」

唱えは次第に形を成し、断片的だった言葉が節を帯びる。

単なる念仏ではなく、明らかに“場を鎮めるための祈り”へと変わっていった。声は低く、しかし確かに響き、朝餉の間の空気を押し留めるように広がっていく。

混沌とした時間が、別の意味で張り詰めていく中――

凛、と。空気を裂くように、琴のガタリという音がひとつ聞こえた。

我に返ったように、皆の視線が一斉にそちらへ向いた。

「たぁぁー! かぁぁー! まぁぁー! るぅぅーー!」

張り詰めた声だった。琴は立ち上がり、怒りと混乱を隠そうともせず、まっすぐに貴丸を睨みつける。

「これは何なのですか! 何の意味があるのですか! 前は相馬に行きたくないのだと、まだそう思えました! ですが、これは――これは一体、私達は何を見せられたのですか!」

一歩、踏み出す。言葉は止まらない。

「その閻魔大王とやらの名乗りも、今の唄も! 人の魂を供物と称し、仏の御名を引き合いに出して――そのようなことを、軽々しく口にしてよいと思っているのですか!? 私たちを呪い殺そうとしているのですか!? まったく訳がわかりません! い、いったい、き――――っ!」

息が詰まり、声が裏返る。そのまま力が抜け、崩れ落ちる。

だが倒れきる前に、すぐ傍にいた慶久が静かに腕を伸ばし、受け止めた。音もなく支えられた体は、そのまま横に寝かされ、事なきを得る。

再び、沈黙。ただし今度の沈黙は先ほどの困惑とは違う。

空然の読経だけが、低く、重く、絶え間なく流れている。その声が、場を現実へ引き戻そうとしているかのようだった。

誰もが貴丸を見る。しかしその視線には、先ほどの滑稽さも薄れ、代わりに明確な警戒と戸惑いが混じっていた。

なぜ閻魔の装いで、なぜあのような唄を詠んだのか――理解できぬまま、それでも“触れてはならぬもの”を見たという感覚だけが残る。

空然はついに深く頭を垂れ、声を強める。

「……願わくば……願わくば……この不敬をお赦し給え……この場にある穢れを、どうか……どうか……」

その祈りは、もはや個人の懺悔ではない。明らかに“場全体を背負うもの”へと変わっていた。

この時代において、地獄の主を名乗り、仏の涙を語り、供物として魂を扱う――それは戯れとして看過される範囲を越えている。

寺社勢力の耳に入れば、ただの奇行では済まぬ。

信仰を穢す者として糾弾され、場合によっては破門、あるいはそれ以上の騒ぎへと発展することすらあり得た。

やがて、慶久が顔を上げた。琴を支えたまま、貴丸を真っ直ぐに見据える。

その目には、冗談の色は一切ない。

「……おい、貴丸」

静かな声だったが、場の空気を締めるには十分だった。

「これは、本当にだめだ」

間を置かず、言い切る。

「万が一、他家の仏教徒に見られたら――ただでは済まん。一揆を招くか、寺から破門を受ける。軽い話ではない。信仰に関わることだ」

さらに一歩、言葉を重ねる。

「これは“面白いかどうか”の話ではない。触れてはならぬ領分だ。未来永劫、これは禁止だ」

断言だった。

元伯の笑いも、その一言でぴたりと止まる。空然の読経だけが、なおも細く長く続いている。

貴丸はしばらく黙っていた。白塗りのまま、ただ立ち尽くしている。

やがて、わずかに肩を落とし、普段の軽い返事とは違う声音で、短く答えた。

「……はい」それだけだった。

ふっと力が抜けるように視線を落とし、しゅん、と小さくなる。

その姿は、先ほどまで冥府を語っていた者とは思えぬほど、年相応のものに戻っていた。

空然の読経は、しばらく止まらなかった。

朝餉の間に満ちていた香りはすでに冷え、代わりに重い静けさだけが残る。

その日、空然は夕刻まで祈りを続け、夜半に至るまで場の穢れを鎮めるための読経を絶やさなかったという。

そしてその日以降、あの“閻魔大王”が再び降臨することは、ついになかったと言う。