作品タイトル不明
第77話 空然と縁側で
数日後の朝、貴丸がようやく床を抜け出した頃には、館の者たちはすでに朝餉を終え、それぞれの務めへと散っていた。
遅れて起きた本人はそんなことを気にも留めず、いそいそと厨へ顔を出す。
敏が置いてくれた“ごちゃ握り”を掴み、ぼそぼそと頬張りながら、いつもの縁側へと足を向ける。
陽の差すそこには、すでに空然が腰を下ろしていた。
手には蜂蜜の小瓶があり、細い棒で掬っては、ゆっくりと舐めている。気配に気づいた空然が顔を上げ、穏やかに一礼した。
「おはようございます、貴丸殿。相変わらずでございますな」
「おそようございます」
意味の分からぬ挨拶を返しながら、貴丸はそのまま隣に腰を下ろしたかと思えば、間もなくごろんと横になる。
空然はわずかに眉を上げ、苦笑を漏らした。
「起きたばかりで、もうお休みですか」
「人は重力と睡眠の誘惑には勝てぬのですよ」
真顔で言い放たれ、空然は小さく肩をすくめる。
「相変わらず、何とも得体の知れぬ言葉をお吐きになる……。しかし、貴丸殿は気儘でよろしいな」
その言葉に、貴丸はむしろ苦い顔をした。
「いえいえ、ちっとも気儘じゃないよ。本当は一日中、いや年中、寝床で”すずちゃん”と”いちゃこら”していたいのに、周りの目があるから起きないといけないんだから」
「いちゃこら……」
空然はその言葉の意味を胸の内で反芻しつつも、あえて問わなかった。ただ、目の前の様子を見れば、確かに本人なりの何かしらの制約の中にいるのだろうとは思える。
それでも首を振る。
「いや、それでも私から見れば、貴丸殿は随分と気儘でございます。これまで見てきた中でも、一番に近い」
「そう? でも、くうちゃん(空然の貴丸オリジナル呼び名)も気儘じゃないの。養蜂、楽しかったでしょ」
貴丸の言葉に、空然の目がわずかに輝いた。
「ええ、あれは実に面白うございました。自らの手で蜂を育て、蜜を取り、それを口にする――あのようなことは初めてでございます」
そう言って、小瓶を愛おしげに見つめる。その仕草を横目に、貴丸がぽつりと落とした。
「自らを 由(よし) とする。それが自由だよ」
「……自らを由とする、ですか」
空然は静かに繰り返す。貴丸は寝転んだまま、天井でも眺めるように続けた。
「自分の興味のあることで飯が食える。それも自由だし、くうちゃんだって、もとは別の所からここまで来たんでしょ。それも自由だよ。自分で選んで動く、それが自由。でもさ――自由って、ちゃんと責任もついてくる」
そこで一度言葉を切り、にやりと笑う。
「見てよ、俺。毎日ごろごろしてるから評判悪いでしょ。もう悪評だらけ。それが自由の代償。でも別に気にしてないけどね」
「……周囲が何を申しても、でございますか」
「うん。何言われても、飯の量が減るわけじゃないしね」
その一言に、空然が吹き出す。
「しかし貴丸殿、琴殿に代償として“今日は罰です”と食事を抜かれることもあるではありませんか」
「あれが一番きついんだよなぁ……」
苦々しく呟く貴丸に、空然は声を上げて笑った。
先ほどより陽は少し高くなり、縁側に差し込む光もやや強さを増していた。蜂蜜の甘い香りがかすかに残る中、空然はふと手を止め、貴丸へと視線を向ける。
「貴丸殿、先の富岡の城取り――あれは実に驚きました。まさに言行一致と申しますか、仰せの通りに事が運びましたな。古今東西、あのような取り方は聞いたことがございません。たった一日で城を……私には想像もつきませぬ」
率直な賛辞であったが、貴丸はどこか居心地悪そうに口の端を歪めた。
「城は取ったけどさ……ついでに嫁まで取るとは思わなかったよ」
その一言に、空然も思わず笑みを漏らす。
「それはまた、思わぬ戦果でございますな」
「ほんとだよ」
軽く肩をすくめてから、貴丸は少しだけ身を起こし、空然へと視線を向けた。
「くうちゃんは、そのうちまた旅に出るんでしょ。だからさ――あの城取りのこと、あんまり言いふらさないでね」
「ほう?」
空然がわずかに首を傾げる。
「本来、武士というものは己の力を広く知らしめ、名を上げるものではございませんか。子々孫々まで誇るべきものと聞き及びますが」
その問いに、貴丸は心底面倒くさそうな顔をした。
「えー……でもそれ、目立つじゃん。目立つと面倒ごと増えるし、ゴロゴロする時間が減るから嫌なんだよね」
あまりにも率直すぎる答えに、空然は声を上げて笑った。
ひとしきり笑った後、ふとその表情が静まる。
「……私も、元は果たすべき役目がございました。しかし、それが重くて。理由をつけ、元伯殿に従ってこの地へ参ったのです。いわば、自らの運命から逃れるようにして」
静かに落とされた言葉には、わずかな陰が差していた。
「それに比べ、貴丸殿は逃げずに受け止めておられる。見事なことです」
だが、その評価に、貴丸は即座に首を振る。
「いやいや、全然そんな立派なもんじゃないよ。むしろ逆。責任取りたくないから、こうやって不精してるだけだし」
そう言ってから、ふと思い出したように続ける。
「あ、そういえば――ある異国にね、こんな言葉があるんだ。“逃げるは恥だが役に立つ”って」
空然が小さく目を細める。
「逃げるは……恥だが、役に立つ」
「そう。逃げるのって、一見かっこ悪いけどさ、状況によってはちゃんと意味がある。自分を守るためだったり、もっと良い道を選ぶためだったりね。だから――」
貴丸はごろんと寝転び直しながら、天井へ向けて言葉を投げた。
「くうちゃんは間違ってないよ」
そのまま少し間を置き、穏やかな声で付け加える。
「人ってさ、時々その場から離れて、自分を見直す必要があるんだよ。そういうの、大事だから」
空然は何も言わず、その言葉を静かに胸の内で反芻する。やがて小さく息を吐き、どこか軽くなったような面持ちで、再び蜂蜜の瓶へと視線を落とした。
だが、その手は、ほんのわずかに止まっている。
逃げてもよい――そう言われたことで、確かに胸の重みは薄れた。だが同時に、「では、自分は何から逃げているのか」という問いが、かえってはっきりと形を持って浮かび上がる。
甘い蜜を舐めても、その感触はどこか上の空だった。
視線だけを横へ流す。
縁側に寝転ぶ貴丸は、相変わらず気の抜けた顔で空を眺めている。何も背負っていないように見えて、その実、すべてを見通した上で放っている――そんな重みが言葉の奥に残っていた。
(……この者は)
答えは出ない。だが、心のどこかが静かにざわついている。
軽くなったはずの胸の奥に、消えぬ火種のようなものが残ったまま。
それが何かを形にするには、まだ少し時間が要る――そう、無意識のうちに理解していた。
しばし、風の音だけが縁側を過ぎる。
……再び蜂蜜の瓶へと視線を落とした。甘いはずのそれが、なぜか妙に遠くに感じる。
そして、ふと空然の表情が変わる。先ほどまでの柔らかな空気がわずかに引き締まり、その視線の奥に、別の重みが宿る。
「……この戦乱の世、いかにすれば終わるのでしょうな」
唐突でありながら、どこか抑えた響きを帯びた問いであった。貴丸はすぐには答えず、ほんのわずかに間を置いてから口を開く。
「天下布武、かな。“武を天下に 布(し) く”――要するに、強い力でまとめるしかない。まずはね」
「天下布武……」
空然が低く繰り返すのを横目に、貴丸は寝転んだまま続けた。
「今の“天下”って、結局は畿内の話でしょ。将軍も朝廷もぐらついてるし、それじゃあ世も乱れるよ。でも、争いを止めるなら、武家の理で押さえるしかない。誰がやるかは別としてね。それを畿内だけじゃなくて、この日の本全部に広げないと、戦は止まらないと思う」
そこで一度言葉を切り、視線を天井へと流す。
「極端な話、武家じゃなくてもいい。力があれば神社の神官でも、農民でも時宗の放浪の僧でもね。でも今のところ、その枠組みでしか収まりがつかない」
空然は静かに頷き、その言葉の重みを確かめるように問いを重ねた。
「では、この東国を一つにまとめれば、この地は治まると?」
「一時的にはね。でも長く続けるなら、仕組みが要る。争わなくて済む形を作らないと、どうせまた崩れる」
「……その仕組みは」
問われ、貴丸はわずかに黙り込む。視線は宙にありながら、その奥では別の景色が過っていた。いくつもの時代、いくつもの統治の形――整えられたものもあれば、崩れたものもある。それらが重なり合い、やがて静かに消えていく。
そして、肩の力を抜くように言った。
「誰かがまとめた後なら、やりようはいくらでもあると思うよ」
あまりにあっさりとしたその答えに、空然はふっと笑みを浮かべた
「では、もし私がこの東国を治めることがあれば、貴丸殿に宰相を頼みましょうか」
「それには条件がある」
貴丸は即座に言った。
「一日八刻(十六時間)は寝る。飯は朝昼晩、それと昼八つ(午後3時前後)に甘いもの。これを毎日だな」
しばしの沈黙の後、空然が大きく笑う。
「それは安い。天下の宰相が、その程度で雇えるとは」
「でしょ」
「では、いつかお迎えいたしましょう」
そう言って、空然は笑い、貴丸もまた笑った。
縁側に差し込む陽の中で、そのやり取りだけが、どこか戦乱とは無縁の穏やかさを保っていた。
この日が、後に貴丸の人生において決定的な転換点となることを、この時の貴丸も、そして空然も、知る由もなかった。
縁側に落ちる陽はあくまで穏やかだった。
交わされた言葉もまた軽やかであった。
しかし、その静けさの奥で、確かに何かが、ゆっくりと形を変え始めていた。