作品タイトル不明
第76話 胡麻木綿人参茶
養蜂の一連がようやく落ち着きを見せていた。
甘い香りを湛えた蜂蜜は、手間を惜しまぬ者たちの手によって丁寧に陶器製の小瓶へと移し替えられている。
陽の光を受けて琥珀色に透けるそれは、ただの甘味ではない。この季節における確かな成果であり、労苦の結晶でもある。
だからこそ、受け取った者たちは皆、その小さな小瓶をまるで宝物のように扱い、口にするにも少しずつ、惜しむように掌に傾けていた。
甘味は貴重であり、次にいつ手に入るかも分からぬ以上、軽々しく消費するものではない――そんな共通の理解が、言葉にせずとも場に満ちていた。
だが、その均衡を崩す存在が一人、当然のように紛れ込んでいる。
「もうない」
二日目の朝、貴丸は何の躊躇もなくそう言い放った。
手にしていたはずの小瓶すらもう無いようで、後悔という概念を知らぬ子供らしい態度だった。
「早すぎだろ!」希丸が眉を寄せるが、貴丸はどこ吹く風で肩をすくめた。
「美味かったからな。残す理由がないジャマイカ」
「理由しかないけど……」
淡々とした返しにも、貴丸は意に介さない。それどころか、視線はすでに次の獲物へと向いている。
「で、お前のは?」
「……嫌な予感しかしないから言わない」
希丸が小瓶を背に隠す仕草を見せると、今度は敦丸へと顔を向ける。
その動きに迷いはなく、狙いを変える獣のような自然さがあった。
「敦丸」
「来ると思ったよ…」
短く応じた敦丸は、しかしため息をひとつ落とすだけで、すぐに観念したように小瓶を差し出す。
その様子には呆れと、わずかな諦めが混じっている。
「少しだけだよ」
「うん、それで十分だ。さすが我が張飛!」
そう言いながらも、貴丸の手は遠慮という言葉を知らぬ動きで瓶を豪快に傾け、結局のところ“少し”の基準が誰のものでもないことを示してしまう。
甘味が舌に広がるたびに、その表情はわずかに緩み、満足げに目を細める――それは確かに無邪気であり、同時に、どうしようもなく厄介でもあった。
節制、自重、計画性――それらは人が生きるうえでの知恵であり、秩序を保つための術である。
だが貴丸にとって、それらは耳に入れる価値すらない退屈な言葉に過ぎない。
欲しいと思ったものはその場で手に入れ、あるなら使い切る。未来のために今を抑えるという発想自体が、彼のなかには存在しない。
そしてその結果として、今日もまた同じ光景が繰り返される。
小瓶を守ろうとする者と、それを当然のように狙う者。この世(貴丸の周囲六尺六寸:約二メートル)には弱者と強者しか存在しないのだ。
そのやり取りはもはや日常の一部となりつつあり、誰もが(敦丸と希丸)薄々と悟り始めていた。
――この甘味よりも厄介なのは、間違いなく貴丸その人である、と。
そして、大和田館の一室には、外の陽気とは裏腹に、どこか乾いた緊張が漂っていた。
机の上には記録帳がいくつも広げられ、墨の匂いとともに、数字と観察の集大成が積み重なっている。
ここ数日で収穫された成果と、これからの見通し――それらを擦り合わせるための、いわば館の内政を左右する場であった。
本来であれば、この手の農作物の話し合いは、今回の観察者のお佳が中心となり、実右衛門や助九郎と詰めていくのが常である。
元伯が持ち込んだ異国の農作物、その生育と管理を現場で担ってきたのもまた彼女であり、誰よりも土と向き合ってきた者の重みがそこにはあった。
だが近頃は様子が少し違う。金の匂いに敏い琴と八田屋が当然の顔で席を並べ、胡麻や木綿といった作物を“作るもの”ではなく“流すもの”として捉え始めているのだ。
「収穫量と保存、それに売り先まで見ておかねば意味がありませんからね」
琴が淡々と言えば、八田屋も頷く。
「ええ、良い物でも流れが悪ければ値は付きません。逆に、多少落ちても扱い方で変わることもございます」
そこへ、慶久、元伯、空然、銀四郎といった面々まで加わり、いつもの相談はいつしか“会議”と呼ぶにふさわしい様相を帯びていた。
もっとも、その中心にいるべき人物は、どうにも不在感を拭えない。
本来ならば座の正面にいるはずの貴丸は、部屋の隅でごろりと横になり、抱き枕――“すずちゃん”を抱えて指先でその毛並み? を弄んでいた。
ここへ至るまでの経緯は単純で、本人はこの場に来る気など一切なかったのだが、「重要な談合なんだぞ」と助九郎と敦丸、希丸に半ば引きずられるようにして連行された。
さらに逃げようとしたところをすずちゃんごと捕獲された、というだけの話である。
「話だけは聞いておきなさい。あなたは嫡男なのですからね」
そう釘を刺した琴の声音は穏やかであったが、逃げ道を許さぬ硬さを含んでいた。
貴丸は露骨に顔をしかめたものの、結局は抵抗を諦め、こうして部屋の隅に転がっている。
琴は何か言いかけ、そこで一度言葉を飲み込み、大きく息を吐いた。
「……まぁ、いるだけよしとしましょうか…」
半ば自分に言い聞かせるようにそう呟き、琴は帳面へと視線を戻す。
その横でお佳は、貴丸にだけは相変わらず冷えた視線を向けていたが、助九郎や敦丸、希丸には柔らかな笑みで応じており、その落差が場の空気にわずかな温度差を生んでいる。
やがて会議(談合ね)は静かに始まり、各々が記録帳を繰りながら、淡々と報告が積み重ねられていく。
「まず、胡麻でございますが――今年の分はすでに収穫を終えております。初年度にしては上々、粒も詰まっており、質も悪くございません」
実右衛門が口火を切ると、自然と視線が集まった。
「それは良いですね。来年はどうなさいますか」
琴が頷き、間を置かずに先を促す。
「はい、種を農家に配り、育て方を教えたうえで、作付けを広げるつもりです。数を増やせば、商いの流れにも効きますので」
実右衛門の答えに、八田屋が小さく笑みを浮かべる。
「ええ、その段階に入れるなら、こちらでも準備ができます」
話は淀みなく進み、やがて木綿へと移る。
「木綿は、収穫までもう少し時間がかかります。正直に申し上げれば――館の庭で育てたものの方が、明らかに良いです」
その一言で、場にわずかなざわめきが走る。通常の畑よりも条件の良くないはずの場所で育てたものの方が質が高いという事実は、これまでの常識を根本から揺るがすものだった。
「つまり、水はけの良い、むしろ作物に向かぬ土地の方が適している可能性がある、ということか」
慶久が低く問うと、実右衛門は迷いなく頷く。
「そのように見ております」
だが、問題はそこでは終わらない。八田屋が言葉を引き取り、現実を淡々と置く。
「ただし――唐木綿と比べれば、話になりません。畿内のものと比べても、まだまだ劣りますな」
視線が集まる中、八田屋は指を折るように続ける。
「伝え聞きではありますが、肥やしに田草を使うこと、背丈を伸ばしすぎぬこと、そして虫をこまめに取ること――このあたりが肝のようです」
「背が高くなると質が落ちる、ですか」
助九郎が呟くと、八田屋は頷いた。
「ええ、見た目に惑わされてはいけない、ということですな」
実右衛門はその言葉を噛みしめるように、静かに頭を下げる。
「来年は、それを試してみます」
話題はさらに移り、朝鮮人参へと及ぶ。
「こちらは……未だ芽が出ておりません」
「一年見ても動きなしか」
慶久が腕を組むと、実右衛門が穏やかに応じた。
「念のため、あと一年は様子を見ましょう。土が合っていない可能性もありますからな」
最後に茶の木が挙げられる。
「高さは五寸(十五センチ)ほど、葉は十枚前後といったところです」
「やはり、館の方が良いのか」
慶久の呟きに、実右衛門が頷いた。
「はい、明らかに生育が違います」
報告が一巡し、帳面の上に積み上げられた事実が、ゆっくりと形を成していく。その中心には、「どこで、どう育てるか」という問いが、確かな重みをもって横たわっていた。
その間、貴丸はといえば、話の流れなどどこ吹く風で、すずちゃんの腹を撫でながら欠伸を噛み殺している。時折こちらに向けられる視線にも気づいてはいるが、あえて応じる気はないらしい。
だが、それでもこの場にいる。
会議の声は淡々と積み重なり、帳面の上で作物の未来が形を取り始めていく。
その流れの外側で、貴丸は相変わらず、すずちゃんを抱き寄せ、その柔らかな腹に頬を押し当てながら、半ば聞き流すように話を追っていた。
理解していないわけではない。ただ、必要と感じるまで口を挟む気がないだけである。
やがて一通りの報告が落ち着いた頃、ふいに貴丸が顔を上げた。
「今後を考えるなら、水車が欲しいなぁ」
場の空気がわずかに揺れる。突飛というほどではないが、この流れの中で出る言葉としては、少しばかり先走った言葉だった。
八田屋がすぐに反応した。
「是非とも欲しいところではございますな。ただ、あれを作るとなれば――五十貫(五百万円以上)ほどは見ておく必要がありましょう。それに、この領には手の知れた職人がおりません。外から呼ばねばなりませぬ」
金と人、その両方が要るという現実が静かにその場に突きつけられた。
誰もが頷きかけたその時、銀四郎が何か言いかけ、しかし途中で言葉を切った。
貴丸が横目でそれを拾う。
「なに、銀ちゃん?」
「……いや、前にもお話しましたが、箱根の知り合いに声はかけてありまする。来るかもしれんませんが、確約は……」
曖昧な可能性。それでも“ない”よりは遥かにましである。
貴丸は一瞬だけ思案し、それから別の角度から問いを投げた。
「この領に石臼はいくつあるの?」
実右衛門がすぐに答える。
「十あるかどうか、というところですな。そのうち四つは大和田館に、二つはわしの家にございます」
「少ないなぁ」
短く呟き、貴丸はすずちゃんの背を撫でながら視線を落とした。水車は先の話になる。だが、それまで何もしないという選択肢はない。
「じゃあ、水車はそのうちとして――先に楽に沢山処理できるようにするか…」
顔を上げる。
「この地に木工と石工はいるんだよね? なら、足踏みの石臼を作ればいいんだ」
その言葉に、八田屋がわずかに目を細めた。
「……大領地では、似たようなものがあると聞いたことがございますな。足で踏むだけで粉が挽ける、妙な仕掛けがあると…」
「それだよ。敏さん、紙と筆持ってきてちょ」
貴丸はあっさりと言い、敏の方へ顎をしゃくる。
「はい、すぐに」
ほどなくして差し出された紙の上に、貴丸の手が迷いなく走る。さらさらと線が重なり、木組みと石の配置が、見る間に形を成していく。顔も上げずに言葉を続ける。
「原理は単純だよ。てこの応用ね。長い横木を渡して、片側を踏めば反対が上がる仕掛けにする。支点は頑丈な枕木で固定、力点は人が踏む板、作用点には石を付けた杵の先端を持ってくる。踏めば持ち上がり、離せば落ちる。それだけだよ」
筆先が止まらない。
「杵は二間、三間弱(四、五メートル)は欲しいかあ。しなりに強くて折れにくい木ね。支柱と軸は上下を滑らかにするためのものだから、擦れる部分は硬い木にして油を染み込ませる。足場は踏み込みやすく広めに取る」
そこで一度だけ手が止まり、少しだけ考える仕草を見せる。
「面倒なのは杵先の石だな。ただ縛るだけじゃ、打ったときに外れるだろうな……石工に頼んで根元に凹みを入れさせて、杵に差し込む形にする。臼は地面を掘って据える。大きな石を平に置いて、ぶれないようにする。で良いかな」
言い終えると、最後に数点書き込みを加え、そのまま筆を置いた。
「……あとはよろしく」
まるで用は済んだとでも言うように、再びごろんと横になり、すずちゃんを引き寄せる。
残された面々は、しばし言葉を失った。紙の上には、曖昧さのない構造がきっちりと描かれている。
それが意味するところを理解するまでに、ほんのわずかな時間が必要だった。
やがて慶久が、静かに口を開く。
「貴丸よ。なぜそのような知識を知っておるのだ?」
問いは素朴でありながら、核心を突いている。
貴丸は一瞬だけ考え、それから肩をすくめた。
「……なんとなく?」
その答えに、琴が即座に眉を寄せる。
「なんとなくで、これほどの絵図が描けるわけがないでしょう。あなたは本当に賢いのか、それとも”うつけ”なのか……判断に困ります……」
深く息を吐き、額を押さえる。その仕草には呆れと、しかし完全には否定しきれぬ何かが滲んでいた。
沈黙を破ったのは八田屋であった。
「いえ、これだけ具体的であれば作れますな。いや――作らせましょう。これが形になれば、今までの何倍も早く、量も増やせますでしょう」
その言葉に、場の空気が一気に現実へと引き戻される。利が見えた瞬間、迷いは消える。
そして琴の目が、わずかに光を帯びた。
それは計算の光であり、同時に、この場に転がっている少年の価値を改めて測り直す光でもあった。
――が、その当人はといえば、ニヤニヤと締まりのない顔で、懲りもせず指先で鼻をほじり、するりと希丸の着物へ擦りつけている。
「……貴丸…貴方という人は…」
評価は、音もなく地に落ちた。