軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第36話 請戸に帰る途中の桑折館01

相馬中村城を辞したのち、一行は帰路につき、そのまま往路と同じく、桑折殿の領――請戸の北、海風のやわらかく届くあたりへと足を踏み入れることとなった。

春の陽は高く、淡い光が道をなぞる。遠くに広がる畑には新芽が顔を出し、耕された土の色がところどころ濃く残っていた。

人の営みが息づく土地であるはずなのに――慶久の胸の内には、先の城中でのやり取りが重く沈んだままで、その穏やかさがどこか現実味を欠いている。

供の者たちも言葉を慎み、誰もがそれぞれに、あの場で決まったことの重みを噛みしめていた。

やがて、桑折の田中城が遠目に見え、その手前の居館へと導かれる。

板塀の向こうに構えられた屋敷は落ち着き払い、庭先の植え込みは丁寧に刈り揃えられていた。

門をくぐれば土間は掃き清められ、隅々にまで行き届いた気配が、主の気質をそのまま映している。

そのまま奥へと通される――その刹那。

「慶久殿! よくおいでくださった!」

弾けるような声が、空気を切り裂いた。

奥からばたばたと足音が近づき、次の瞬間には桑折治部少輔忠家が姿を現す。

普段の沈着さは影を潜め、目を輝かせ、ほとんど駆けるようにして慶久の前へ出るや、

「――あの漬物はなんなのだ!」

と、身を乗り出した。間合いも何もあったものではない。掴みかからんばかりの勢いである。

「あまりの美味しさに、一日で全て食べてしまったのだ! 家族でも取り合いになってのう! あれを、定期的に売ってはくれぬか!」

言葉は早く、息も荒い。まるで戦の報告でもしているかのような熱量だった。

慶久は一瞬、わずかに身を引く。

(ああ……あの糠漬けのことか。確かに、あれは癖になる)

戦場で刃を交える時とは異なる、逃げ場のない圧に、ほんのわずかに押されながら。

「は、はあ……それでは、うちが懇意にしている商人と相談いたしましょう」

そう控えめに応じると、桑折の顔がぱっと明るくなる。

「おお、それはありがたい! うちの奥も子らも感激してのう! 家臣どもも評判を聞きつけて、食べたがっておる!」

その言葉が終わるか終わらぬかのうちに――

館の奥から、衣擦れの音が静かに重なった。

すっと、空気が変わる。

現れたのは、周囲よりも上等な装いに身を包んだ桑折の妻女――懸田殿であった。

侍女を従え、音を立てぬ足取りで進み出るその姿には、外に出ぬ者特有の静かな品と、揺るがぬ芯が同居している。

慶久の前に至ると、深く、無駄のない一礼。

「貴方様が大和田玄蕃之丞慶久様でございますね。桑折が妻にございます」

声は柔らかい。だが、その奥には確かな熱が宿っていた。

顔を上げたその目に、はっきりとした光が宿る。

「あのお漬物――まことに見事でございました」

そしてしばしの沈黙。その沈黙すら、言葉の一部のように扱われる。

「まず、鼻をくすぐるあの独特の香り。ツンとくる酸味の奥に、炊き立ての米を思わせる柔らかな甘みが潜み……そこに、かすかな果実の気配」

視線はわずかに遠くへ向けられ、記憶をなぞるように、しかし一語も迷わず言葉が重ねられていく。

「嗅いだだけで、口の奥にじわりと唾が満ちるような……あの香りに抗える日の本の者など、そうはおりますまい」

さらに続く。

「温かな飯とともに口に含めば、甘みと塩気が溶け合い、お茶で流し込むその刹那――」

わずかに息を含む。

「……ああ、まるで耳の奥で、迦陵頻伽が妙なる声で囀っているかのよう。ひと口ごとに、凍てついた腑が春の陽にほどけてゆく心地にございます。これほどまでに、心身を震わせる“生の響き”を宿した食べ物が、この世にありましょうか」

語りは流麗でありながら、空虚ではない。舌で、鼻で、身体で刻まれた実感が、そのまま言葉となっていた。

その横で、慶久がわずかに身を寄せ、小声で囁く。

「……がりょうびんが、とは何だ?」

貴丸は一瞬だけ目を泳がせ、それから適当な顔で答えた。

「ええと……確か、極楽にいる鳥で……脂が乗ってて旨そうなやつ、だったような?」

「ほう」

慶久はわずかに頷き、

「それは食うてみたいものだな。てっきり、人の頭に鳥の身で、美しい声で仏の教えを謳うものかと思うておったが」

「……まぁ、似たようなもんで?」

小声のやり取りは、すぐに途切れる。

その間にも、懸田殿の視線は外れない。

まっすぐに慶久を射抜く、静かな圧。

「あれを毎日……いえ、せめて十日に一度でも構いませぬ。この地へ届けてはいただけませんか。銭は、相応にお支払いいたしますゆえ」

言葉は丁寧で、それでいて堅苦しすぎず、自然なまとまりがある。

だが、その実――これは願いではない。

既に半ば、決まっている話を、確認しているに過ぎぬ響きであった。

場の空気が、静かに、しかし確かに張り詰める。

慶久が言葉を返そうと、ほんのわずかに息を吸い込んだ、その刹那――横合いで、きらりと何かが光ったように見えた。

「はい」

音もなく差し込むように、一歩前へと出たのは貴丸である。

「大和田が嫡男、貴丸にございます。その漬物の取り扱いにつきましては、私が窓口を務めておりますゆえ、ご説明申し上げます」

先ほどまでの気の抜けた気配は、もはやどこにも残っていない。声音はよく通り、間の取り方も正確で、何よりその眼差しが異様であった。

わずかに細められた瞳には光が宿り、まるで獲物を見定めた獣のように、相手の反応すら見透かしているかのように冴え渡っている。

「まず、あの漬物は“請戸漬け”と申します。食べ頃は四日から五日ほどにございます。その後は時を置くごとに酸味が立ち、味わいはより深く移ろってまいりますが、お好み次第では一月ほどは十分にお楽しみいただけます。どの段階を良しとされるかは、まず一度お試しいただくのがよろしいかと存じます」

わずかに間を置き、言葉の余韻を置いてから、さらに続ける。

「また、古くより足気にも効くとされ、腑の内の澱みを流し、暑気を払う働きがあるとも申します。夏場の野良仕事や行軍の折、疲れを溜めぬための一品としても、重宝されることでしょう」

息継ぎの気配すら見せず、言葉は淀みなく連なっていく。相手の理解と興味を確かめる間すら計算に織り込んだような、隙のない運びであった。

「さて――銭の件にございますが。請戸よりこちらまでおよそ五里、人足で丸一日。ひとりで運べる量はおよそ五貫となります。そこに野菜代、塩、そして我が家専売の仕込みを加味し、売値は五貫で三百文。なお、そちらにて人足をご手配いただくことも可能にございますが、当方で運ぶ場合は、人足代として別途八十文を頂戴いたします」

言い終え、ほんの一拍だけ間を置く。

そして――

にこり、と笑った。

整いすぎた笑みであった。あまりにも無駄がなく、あまりにも完成されている。

その瞬間、場にいた全員が言葉を失った。

桑折も、その隣に立つ懸田殿も、ぽかんと口を開けたまま、ただ貴丸を見ている。あまりに自然に、あまりに流麗に、話が運ばれてしまったがゆえに、思考が追いつかないのだ。

その静止した空気を、慶久が苦笑交じりに破った。

「……ということにございます。いかがでございましょうか」

その一言で、ようやく場が現実へと引き戻される。

懸田殿が、はっと息を整えた。

「……では、五貫分、お願い致します。十日に一度、届けていただきたく」

決断は迷いなく、あまりにも早かった。まるで最初からそう定まっていたかのような調子である。

貴丸は一歩進み、声を張る。

「毎度ありがとうございます。今後とも、末永いお付き合いをお願い申し上げます」

深く頭を下げ、ゆっくりと顔を上げたときには、先ほどと寸分違わぬ営業の笑みがそこにあった。

その豹変ぶりに、桑折は思わず目を見開く。

(……先日の、あのぼんやりとした子は……いったい何であったのだ)

脳裏に、先ほどのやり取りが順に浮かび上がる。

距離の測定。運搬の制約。原価と利。相手の欲する頻度。

そのすべてを、この短い間に把握し、整え、相手にとって最も納得しやすい形で差し出してみせた。しかも、慶久に一言の確認も取らず、すべてを己の裁量で完結させている。

まだ十歳。

だが、その働きは、到底その年齢のものではない。

見かけによらぬ――などという生易しい言葉では収まらぬ。

(……これは……もしや)

桑折の胸の内に、ひとつの確信に近い感触が、静かに芽吹いた。

――本物、かもしれぬ。

一方で。

慶久は、その隣でただ苦笑するほかなかった。

(……また、か)

止める間もなく話はまとまり、気づけば形になっている。

頭が痛い。だが――否定もできぬ。

否定できぬからこそ、なおさら厄介である。

春の柔らかな光が庭先に差し込む中、場の空気は、いつの間にか貴丸の手の内に収まっていた。