軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第28話 相馬中村城へ渋々と

朝の空気はまだ冷たく、請戸を離れる道には薄く霧が残っていた。

湿り気を帯びた土の匂いと、遠くで鳴く鳥の声が、静かな朝の広がりを形づくっている。

その中を、数騎の馬がゆるやかに進んでいた。

先頭の一騎――慶久の背に、貴丸は半ばぶら下がるようにしがみついている。

揺れに身を任せるその姿には、出立の気概など欠片もなく、むしろ全身で「来たくなかった」という意思を表していた。

「……やっぱり腹が痛い気がする。戻りましょう」

ぼそりと漏らす。

「気のせいだ」

即答だった。振り返ることすらしない。

「足も痛い」

「知らん」

「腰が」

「馬から落ちるぞ」

「頭も」

「聞こえぬ」

「肛門が」

「それは痔だ、我慢しろ」

「心が」

「私と琴のほうがもっと痛いわ」

最後はヤケになり、唐突に「まんじゅうが怖い」と続けたところで、貴丸は自分でも無意味だと悟ったのか、ぐったりと力を抜いた。

結局、ありとあらゆる理由を並べ立てたが、ひとつとして通らなかったのである。

あれは数日前のことだった。

何の前触れもなく、相馬 弾正大弼(だんじょうだいひつ) 盛胤様から使者が来た。

内容は簡潔である。

「此度富岡勢撃退并日向館焼討之儀、誠に比類無之手柄に候。

慶久并嫡男両人之忠節、深く感じ入候。

仍而、直に其功を賞し、褒美可被下存候。

各々息災に候はば、面々見参候へ。

嫡男相伴、相馬中村之城へ可有参上候、期して待入候。

相馬弾正大弼 謹言」

文面こそ穏やかであったが、その実、拒む余地などない。

被官の身である以上、それは 命(めい) に等しいのだ。

ゆえに、行かざるをえなかった。

思い返せば、一昨日の時点で貴丸の勝負は決していた。

あらゆる仮病を使い尽くし、最後は箪笥の角に足の小指をぶつけて「これは無理だ」と主張したが、それすらも一蹴された(…当たり前)。

その夜のうちに、貴丸の中で何かが決壊した。

――ならば、正攻法が通じぬならば。

翌朝。朝餉前の広間を、突然、敦丸と希丸が障子を閉めて部屋を暗くした。

そして、館の広間に現れた貴丸の姿は、もはや常識の範疇を逸脱していた。

裸のままで褌を頭に被り、その左右に蝋燭を立てる。眉間の中央にはなぜか「肉」の一字。

腹には墨と母の紅で描かれた歪な顔が貼りつき、股間はお猪口で覆われ細い紐で厳重に固定されている。

無駄に整いすぎた異様な装いが、逆に狂気の完成度を引き上げていた。

そして、何の前触れもなく――動いた。

「相馬には行きたくない〜」

踏み込みは鋭く、床を鳴らした反動で軽やかに跳ねる。

膝を使って一定のリズムを刻み、その流れをそのまま腕へと乗せる。

胸の前で交差した両腕は、次の瞬間、弾けるように左右へ開かれた。

その手には蝋燭。炎が揺れ、その光を振り回す。右へ払えば弧を描き、左へ流せばすぐに交差する。

無駄のない連続した動きで、火の軌跡が幾重にも重なり、奇妙な光の残像を生んでいた。

「これぞ――オタ芸!」目を見開き、血走らせ、恍惚とした声を張り上げる。

次の瞬間、動きはさらに加速した。

身体を捻りながら半歩ずつ位置を変え、腕は止まらず振られ続ける。

時に頭上で交差し、時に低く払われ、炎が上下左右に散る。動き自体は単純だが、その速さと勢いで、見ている側の目を無理やり引きずり回す。

「はっ! ほっ! それっそれ、それぇ! 相馬には〜行きたくない〜!」

掛け声まで妙に整っているのが、なおさら腹立たしい。

やがて、両腕を前で交差させたまま手首だけで炎を回し、小さな光の輪を作ると、それを勢いよく左右に開く。

身体を反らせ、天を仰ぎ、なぜか満足げに叫んだ。

「見よ――相馬を回避する光の舞!」

そして――

誰に向けた言葉かも分からぬ。

だが本人は完全に入り込んでいる。これぞ無我の境地か。

最後は、両手の蝋燭を胸の前で揃え、静止。

一瞬の沈黙。

――次の瞬間、膝から崩れ落ちるようにしてフィニッシュした。

荒い息の中、満足げに顔を上げる。

それも、四半刻(三十分)の間も。

誰も止めなかった。いや、止められなかったというべきか。

最初にそれを見て、吹き出したのは元伯だった。腹を抱え、声を上げて笑う。

その横で空然も肩を震わせ、やがてはあの銀四郎までもが顔を背け、必死に堪えきれずに涙を滲ませていた。

ただ二人――慶久と琴だけは、まったく笑っていなかった。

「……」

言葉もない。ただ、表情だけがすべてを物語っていた。

やがて踊り終え、息を切らしながら期待の眼差しを向ける貴丸に、慶久は一言だけ告げた。

「無理だ。絶対に連れて行く。それだけ動ければ十分だ」

それで終わりだった。

琴は静かに目を伏せ、ぽつりと呟いた。

「……育て方を、完全に、まるっきり、はじめから終わりまで、間違えました……私はこの世になんと…恐ろしいものを…生み出してしまったのでしょうか………」

敦丸はここまでやるとは思っていなかったらしく、呆然とし、何が起きたのか理解しきれないままだった。

一方で希丸は、途中から明らかに目を輝かせており、「次は自分も混ざれるのではないか」と言いたげな顔で、うずうずと体を揺らしていた。

そして、配膳の手伝いのために、その一部始終を見ていたお佳は――

翌日からも、変わらず丁寧に挨拶はしてくる。言葉遣いも所作も崩れず、食事の折には静かに歩み寄り、お茶を差し出す手つきにも一切の乱れはない。

だが――貴丸に向けられる視線だけが、明らかに違っていた。

茶碗を渡すその一瞬、貴丸の指先がかすかに触れた途端、わずかに眉が寄り、露骨ではないが確かに嫌悪の色が浮かぶ。

そして、貴丸を見る目だけが『汚物を見るよう』で、氷のように冷たくなっていた。

その記憶を引きずったまま、いま、貴丸は馬上にいる。

すべての抵抗は無に帰し、ただ揺られているだけの存在となった。

「……世の中、不条理だな……やっぱり、お茶が一番恐い…」

ぽつりと呟く。

だが、誰もそれには答えなかった。

朝餉を終えたのち、厨の隅で、お佳が何度も手を洗っていた。

水を替え、指先をこすり合わせ、また洗う。その様子を、侍女頭の敏は首をかしげたまま、しばらく黙って見つめていた。

そして、現実に戻る。馬は変わらぬ歩調で進み、やがて相馬中村城へと続く道は、静かに彼らを呑み込んでいく。

陽が傾き始める頃、一行は海からの湿り気を含んだ風に迎えられながら、 江垂(えたり) の地へと辿り着いた。

長く続いた街道はここでわずかに開け、低い丘と田畑の向こうに、質実な構えの館が姿を見せる。

貴丸が住まう請戸から、相馬中村城(現福島県相馬市中村)までは八里〜十里(三十五〜四十キロ)はあるだろうか。だから道中は、必然途中で一泊することになる。

相馬までの道のりは長い。そこでここ桑折殿の領(現南相馬市鹿島区周辺)に泊まることにしたのだ。

田中城は派手さはないが、無駄のない造りと周囲の整えられた地形が、この地を預かる者の気質をよく表していた。

門前で馬を止めると、従者が一歩進み出る。

「相馬家・盛胤様の命により相馬中村へ参る、請戸の大和田玄蕃之丞慶久にござる。城主・桑折殿へ御挨拶申し上げたい」

取り次ぎを受けた門番の表情がわずかに引き締まり、すぐに内へと走る。

その動きに迷いはなく、日頃からの規律の厳しさがうかがえた。

やがて門が開かれ、丁重な案内のもと、一行は館の内へと通される。

ほどなくして広間に通されると、そこに現れたのがこの地を治める男――桑折治部少輔忠家であった。

四十を越えたばかりと思しき壮年、潮風と日差しに鍛えられた肌は浅黒く、無駄のない体躯に落ち着いた直垂を纏っている。

顎に整えられた髭と鋭い眼差しは、北の守りを預かる者としての威を感じさせるが、その奥には人を見極める静かな温度があった。

「おお、大和田殿。ようこそ参られた」

声は低く、よく通る。慶久が礼を返し、旅の無事と此度の趣旨を簡潔に伝える。

「盛胤様の御意により、中村城へ向かう途上にございます」

忠家は一度深く頷いた。

「うむ、話は聞いておる。それは大義。今宵は江垂館にてお休みになるがよかろう。されど、夕餉はこちらで用意させていただく」

言葉は端的で無駄がない。だが、その一つ一つに、客を軽んじぬ気遣いが確かに含まれていた。

視線がふと、慶久の背後へと移る。

そこにいるのは、噂に名を聞く『あの』嫡男――貴丸。

しかし当の本人は、背筋こそ伸ばして座しているものの、目はどこか遠く、完全に気配を殺している。

声をかけられれば、「はい」あるいは、「いいえ」それだけを、無難に返すだけだ。

それ以上は何も語らない。

忠家は一瞬だけ眉をわずかに動かした。

(……これが、あの)

飢饉の前より米の作付を抑え、雑穀へと切り替えさせた――その進言によって、領内の被害を抑えたと聞く。

先日は子供だけで敵の領内を襲撃し、城と米倉を焼き討ちにしたという。

北の地にあっては、耳に残らぬはずのない噂であった。

だが同時に、日がな一日縁側に寝転び、鼻くそを丸めては「これが砂金であればよいのに」などと嘯く不精者――そのような話もまた、同じように流れてくる。

才覚か、ただの阿呆か。

その真偽を、この目で見定めようと思っていたのだが。

いま目の前にいるのは、ただ静かに座し、問われれば簡潔に応じるだけの――どこにでもいるような子供であった。

「貴丸殿、道中お疲れであろう」

そう声をかけても、「はい」とだけ返る。

それ以上、広がらない。

忠家は小さく息を吐き、わずかに苦笑を浮かべた。目尻に刻まれた皺が、その表情を柔らげる。

(噂とは、得てしてこのようなものか)

やがて用意された夕餉は、海に近い地らしく、魚介を中心としたものであった。

干物、焼き物、塩漬け――いずれも手堅く、滋味に富む。

だがその構成は請戸のそれと大きく変わるものではなく、豪奢というよりは実直なものである。

慶久は礼を尽くし、忠家は過不足なく応じる。

話は富岡の事を中心に、領内の治水や近隣の動向へと移り、実務の言葉が静かに交わされていく。

その合間にも、貴丸はただ座し、問われれば短く答え、それ以上は何も示さない。

完全な置物であった。

それでも礼を失することはない。その奇妙な均衡に、忠家は内心でさらに一度だけ首を傾げたが、やがてそれ以上を詮索することはしなかった。

食後、辞去の折。

慶久は「つまらぬものですが」と言い添え、持参した幾種かの漬物を差し出す。

忠家はそれを受け取り、深く頷いた。

「心遣い、痛み入る」

形式は整い、無駄はない。

その夜は予定通り江垂館に宿を取り、翌朝――まだ空気に夜の冷えが残る刻に、一行は再び馬に乗った。

朝靄の中、館を後にする背を、この地の相馬、南の守りの主は静かに見送っていた。