軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第27話 朝餉

朝――と呼ぶには、館の中はすでにしっかりと目覚めていた。

中庭にはやわらかな朝日が差し込み、まだ冷えを残した空気の中に、炊きたての米と焼かれた魚の香りがゆるやかに混じっている。

障子越しの光は白く澄み、畳の上に長く影を落としていた。

広間には、すでに膳が整えられている。雑穀を混ぜた飯は湯気を立て、干物はほどよく脂をにじませ、猪肉の塩漬けは香ばしく焼き上げられている。

さらに 菜良多(さらだ) といくつもの漬物が添えられ、素朴ながらも手の行き届いた朝餉であった。

その膳を囲むのは、慶久と琴、そして元伯を中心に、敦丸、希丸、空然と、すっかりと銀四郎の名が馴染んだ風間の面々である。

朝の光がそれぞれの前に置かれた椀や皿を淡く照らし、まだ温もりを残した湯気がゆるやかに立ちのぼっている。

少し離れたところでは、乳母の 直(なお) が静かに腰を下ろし、その脇には直の娘の幼い 栞(しおり) が座っている。

そして、直の腕の中では、さらに幼い貴丸の妹の 緋野(ひの) が、何も知らぬまま安らかな寝息を立てている。

小さな胸が規則正しく上下するたび、その存在だけで場の空気がわずかに柔らぐようであった。

この直と娘の栞は、譜代の家臣である海東藤右衛門の家から、乳母としてこの館へと上がってきた女である。

丈夫な体つきをしており、女にしては背も高く、肩や腕もしっかりとした造作をしている。

その立ち姿には、日々の労を厭わぬ者特有の安定があり、幼子を預けるに足る信頼が自然と滲んでいた。

もっとも、そうした逞しさとは別に、顔立ちは驚くほど整っている。

大きくはっきりとした目に、素朴ながらもよく通る鼻筋――この時代の美の基準がいかなるものかはさておき、少なくとも貴丸の目には「美人」としか映らない。

そして、その直の傍らには、まだ幼い娘――小さな栞が、母の衣の裾を掴むようにして寄り添っている。

こちらはまだ言葉も覚えきらぬ年頃で、時折きょろきょろと周囲を見回しては、何かを理解したような顔をしてまた母の陰に隠れる。

その仕草がいかにも幼く、どこか場違いなほど無垢であった。

こうして、乳母とその子までもが同じ屋根の下で暮らすこの館の在りようは、武家としての形を保ちながらも、どこか家族に近い温度を帯びている。

朝の空気の中で、幼子の寝息と、小さな足音と、器の触れ合うかすかな音が重なり合い、館の一日が静かに始まっていこうとしていた。

ただ一人――本来そこにいるべき者が、まだ姿を見せていない。

「……貴丸は、まだか」

慶久が静かに言うと、琴がわずかに苦笑を含んで応じる。

「いつものことでございます」

その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、廊下の向こうから、のそりと重い足取りが近づいてきた。

「おそよう」

間延びした声とともに、貴丸が姿を現す。髪は半ば乱れ――いや、乱れているというより、“奇妙に完成”されていた。

両の側頭は見事なまでにぺたりと張り付き、中央だけが逆立っている。

正面から見れば、額から後頭部へ一本、まっすぐに道が通っているような形で、まるで前世の言葉でいう“ハードなモヒカン”を、寝相だけで再現したかのような有様であった。

それを最初に見たのは慶久である。

次の瞬間、口に含んでいた汁を――盛大に吹き出した。

「ぶっ――!」

正面にいた敦丸がまともにそれを浴びて顔をしかめる。

「父上、ひどいではありませんか!」

だが慶久はそれどころではない。肩を震わせ、声を押し殺そうとするも、視線は貴丸の頭に釘付けのままだ。

何事かと一同の視線がいったん慶久へ集まる。

だが、その視線を追えば――行き着く先は、否応なく貴丸であった。

そして、「ぶふっ!」「がっ!」「な――っ!」「ごぼっ!」

誰からともなく、口に含んでいた雑穀やおかずや汁が、一斉に噴き出した。

瞬く間に、食卓は惨状と化す。

飛び散る汁と雑穀米、転がる器、咳き込む声と、押し殺しきれぬ笑いが入り混じり――その様はもはや、阿鼻叫喚の地獄絵図としか言いようがなかった。

その混乱の最中、空然が不意に身を折る。

どうやら雑穀が喉に詰まったらしく、「コヒュー、コヒュー」と妙な音を立てながら、胸をどんどんと叩いている。

それに気づいた侍女頭の敏が、はっと顔色を変え、すぐさま白湯を差し出した。

「こちらを、早くお飲みください」

空然はそれを受け取り、苦しげに飲み下す。数度、荒く息を継ぎ、ようやく喉の詰まりが取れたのか、肩を落として咳き込んだ。

一方、ひとしきり笑いと混乱を吐き出しきった慶久が、ようやく息を整える。目尻に滲んだ涙を乱暴に拭いながら、改めて貴丸を見据えた。

「……た、貴丸」

言いかけて、また一瞬吹き出しそうになるのを堪える。

「なんという頭なのだ。これからは身嗜みを整えてからここに来い」

とりあえずの叱責であったが、その声には、まだ笑いが残っていた。

当の貴丸は、なおも事情が飲み込めぬまま、ただ首を傾げている。

そのまま何事もなかったように席に滑り込み、用意されていた膳に手を伸ばす。

「おそだきます」(※遅い時間の『いただきます』の略らしい)

誰に向けたとも分からぬ一言を落とし、すぐに飯を頬張る。

その様子に、一瞬呆気にとられたが、敦丸は視線を送るが何も言わず、希丸は気にした様子もなく食事を続けている。

元伯だけが、その姿を見て低く笑った。

「相変わらずよのう」

その声音には、呆れよりもむしろ愉快さが勝っている。

貴丸は気にする様子もなく、口にしたものを飲み込むと、ふと思い出したように口を開いた。

「親父様、修平には養蜂をやらせようと思ってる。それと、お佳にはこの前の種――あれを育てさせるつもりだ」

唐突である。だが、その場にいる者の何人かは、すでにその“唐突さ”に慣れていた。

「お佳の方は、一日の半刻もあればいい。ただ、観察したことを記録させたい。字の練習も兼ねてな」

飯を食べながら、何気なく言う。その軽さとは裏腹に、言葉の芯はぶれていない。

慶久は箸を置き、わずかに間を取ってから応じた。

「修平のことは、前もって言え。……まあ、うまくいくなら悪くはない。蜂蜜が安定して取れるならこの地を豊かにするからな」

一度言葉を切り、視線をまっすぐ貴丸へ向け………ようとして、貴丸から視線をずらした。あの頭が視界に入るのはまずい。

「ただし、修平にも学ばせておる。午前は学びの時間とせよ」

貴丸は、噛みかけの飯を飲み込みながら、気の抜けた声で返した。

「へーい」

あまりにも軽い返事である。だが慶久はそれ以上は言わず、再び箸を取った。

その横で、希丸はすでに二杯目の飯に手を伸ばしている。

もはやこの場にいることが当然のような顔である。

山側の地にある津島(現在の双葉郡浪江町津島付近)の小野田の実家からは、大和田館まで歩いて一刻ほどとはいえ、気づけば館に泊まり込む日が増え、そのまま居着いた。

縁戚という形はあれど、いまではほとんど家の子と変わらない。

敦丸は姿勢を正し、静かに食べ進めている。その落ち着きは、貴丸とは対照的であった。

空然は、その一連のやり取りを静かに眺めていた。

武家の食卓でありながら、どこか農の匂いを残す素直さと、子らの自由さが同居している。その不思議な均衡に、僧としての関心が自然と向いた。

銀四郎は無言のまま控えている。だがその視線は常に周囲を捉え、わずかな変化も見逃さぬように張り巡らされていた。(貴丸の頭付近を除く)

やがて、元伯がゆっくりと口を開いた。

「ほう……養蜂とな」

低く、愉快そうな声であった。

「もうやりおるのか」

そう言って、ちらりと貴丸を見ようとしたが、視界には入れなかった。試すような色と、どこか期待めいた響きが混じっている。

当の貴丸はといえば、そんな気配など意にも介さず、干物の骨を器用に外しながら、次に何を口に運ぶかだけを考えているような顔をしていた。

だが、ふと手を止める。

何かに気づいたように顔を上げ、そのまま何の前置きもなく口を開く。

「親父様、金をくれ。養蜂の先行投資だ」

あまりにも唐突な一言に、膳の上の空気がわずかに止まった。

慶久が眉をひそめ、首を傾げる。

「……先行投資? とは、なんだ?」

問われて、貴丸は「あぁ」と小さく頷き、少しだけ考える素振りを見せる。

「そうだな……最初に種銭を撒いて、あとで回収する、ってことだな。収穫を得るために、まずは手元の貴重な種を土に埋めて、それを増やして刈り取る――そんな感じだ」

そこで一度言葉を切り、肩をすくめる。

「明日の百のために、今日の五十を捨てる、と思ってくれていい」

慶久はしばし黙し、やがて「ふむ」と低く唸る。その表情に、ようやく腑に落ちた色が差した。

その様子を見ていた母が、貴丸を…見ずに静かに問いを差し挟む。

「……どのくらい 費(つい) えが、かかるのですか」

貴丸は迷いなく答えた。

「一貫文もあれば足りるかな?」

その瞬間、母の琴の表情が強張る。

「一貫文ですか……? それは、大人一人が一年食べる米に等しい額なのですよ」

驚きと戸惑いを隠さぬ声だった。

だが貴丸は、まるでその重みを軽く受け流すように、平然と続ける。

「母上、その養蜂が成功すれば、毎日あの甘い蜂蜜が食えるようになるのですぞ?」

少しだけ口元を緩める。

「それに、甘味を取ったあとの蜜蝋も使える。あれは、肌の潤いを保って、しっとり柔らかくする効果があると聞きます。怪我や火傷に塗れば、悪化を防ぎ、腫れを引かせ、傷の治りも早くなるらしい」

淡々と並べられる利に、琴の目がわずかに変わる。

父もまた、腕を組んだまま、考え込むように沈黙した。

その沈黙を、貴丸が崩す。

ふっと、わずかに口の端を吊り上げた。

「この領に、莫大な銭が流れ込む(……かもしれない)」

一拍置いて、ズバシ! と指を差して宣言する。

「それが一貫文でできる(……かもしれない)さぁ! 貴方なら、どうする!?」

保証はしないということをあえて言わない――黒い誘いであった。

慶久はしばし貴丸を見つめ……ようとしたが、視線は外し、それからゆっくりと琴へ視線を送る。

琴はわずかに逡巡し、やがて小さく頷いた。

その合図を受けて、慶久もまた頷く。

「……うむ。ならば、その銭、出すとしよう」

決まった。

そのやり取りを見ていた空然が、静かに身を乗り出す。

「……私も、ただ世話になるばかりでは心苦しい。興味もあります。その養蜂、手伝わせていただけませんか」

穏やかながら、はっきりとした申し出だった。

慶久がうなずく。

「よかろう」

朝の光は静かに差し込み、膳の上の湯気はゆるやかに消えていく。

その中で――ひとりの無精者が何気なく投げた一言が、またひとつ、この地の未来に小さな波を生み始めていた。

ただし。

この食事と会話のあいだ、誰ひとりとして、貴丸の顔を正面から見ようとはしなかった。

視線が合えば最後………

笑いを堪えきれる者は――この場には、いなかったからである。