作品タイトル不明
第1話 戦国不精
縁側は昼の光をやわらかく受け止め、乾いた板の温もりが背にじんわりと伝わっていた。
潮の匂いを含んだ風が庭を抜け、軒先の風鈴代わりに吊るされた貝殻をかすかに鳴らす。
そばでは請戸川の流れが低く響き、さらにその向こう、太平洋の波が絶え間なく寄せては返しているのがいつものように見える。
その上で、貴丸は何をするでもなく、またいつものように仰向けに寝転び、空を見ていた。
青は高く、雲は薄く流れている。その何でもない景色の奥に、ふと沈んでいた知識が浮かび上がった。
この時代は寒冷期――小氷河期。
つまり、この東北で米にこだわるのは普通に非効率だ。寒い、作期は短い、天候も安定しない。どう考えてもリスクが高すぎる。
けれど同時に、この土地は単なる寒村でもない。海に面し、親潮と黒潮がぶつかる潮目に近い。魚が集まり、漁場としてはかなり恵まれている。
ヒラメ、カレイ、アイナメ、スズキ、タイ、カニ。浜には、ホッキ貝が出て、ウニも取れるし、時期になればシラスも取れる。何年かに一度は、沖にマッコウクジラの影が現れることすらある。
そして海沿いの影響か、冬でも雪はそれほど積もらない。冬の時期に一〜二回程度、 踝(くるぶし) 程度まで積もり、すぐに溶けてしまう。
「……なら、米にこだわる理由なんてないだろうに」
ぽつりと呟く。だが思考はそこで終わらない。
問題は夏だ。やませが吹く。北東からの冷たく湿った風が入り込み、気温は上がらず、霧が出る。日照も足りない。だから作物は育ちにくい。
つまり米は、完全に一か八かの博打なのだ。
それでも相馬の殿様には年貢を納めなければならない。
被官という立場上、逃げられないのだ。だが、別に米である必要はないはずだ。銭に換えられるなら、それで支払えばいい。
実際のところ、米なんて日常的に食べるものじゃない。
祝い事でもなければ口に入らない。ほとんどは上に納めるか、商人に売る。残りを雑穀と混ぜて、粥にする。それが現実だ。
領主の家族である自分達ですらそうなのだから、農民は尚更だ。自分で作った米でも腹いっぱい食えるわけじゃない。
むしろ現実はもっと厳しい。毎年のように餓死者が出る。生まれても育てられず、川や海に流される子もいる。
そこまでして作る価値が、本当にあるのか。
極端な話、見栄のために米を作らされているだけじゃないか。
貴丸は、そう結論づけた。
なら、最初からやめればいい。
「稗と粟で腹を満たして、麦でカロリーを確保して、蕎麦で回す……これでいいじゃん。ついでに醤油を作りたいから大豆の輪作は必須だな」
寝返りを打ち、指先で板をとんと叩く。思考はもう止まらない。
稗と粟は寒さに強く、痩せた土地でも育つ。蕎麦は成長が早く、短期間で収穫できる。麦は保存が利き、粉にもできる上に、秋に播いて春に収穫できる。
この土地は風通しもよく、平野も広く、水はけのいい場所もある。条件は悪くない。
なら組み合わせればいい。
秋に麦を播く。初夏に収穫。そのあとに蕎麦を入れて秋に回収。空いたところに稗を回す。
麦、蕎麦、稗――順に回す。
輪作で土地を守りつつ、二毛作で収量を稼ぐ。米に頼るより、むしろ安定する可能性がある。
「……いけるな、これ」
小さく息を吐き、空を見上げる。雲はさっきより少しだけ流れていた。
「米などに縛られる必要なんか、ないじゃんか」
静かに再度そう漏らし、再び目を細める。
構想は、すでに形になっている。あとは動くだけだ。だけなのだが、その一歩は、まだどこにも踏み出されてはいなかった。
潮を含んだ風が縁側を抜け、板張りの床に寝転ぶ貴丸の髪をわずかに揺らした。
陽はすでに傾きはじめ、軒の影がじわじわと伸びている。
庭先では干された海藻がかすかに軋み、海と土の匂いが混じり合って、どこか生ぬるい空気を形作っていた。
貴丸は仰向けのまま、片腕を枕にして目を細める。
視界の端には塩の俵が積まれ、その向こうに請戸川が海へと続いている。
この領では塩が作れる。川は港へと繋がり、季節になれば鮭が遡上する。
海藻は干せば保存が利き、そのまま他所へ流せる。山へ入れば山菜や木の実があり、飢えをしのぐ手立てはいくらでもある。
記憶が正しければ、少し行った奥の山には陶石か粘土も眠っているはずだ。後の世に焼き物が成立するほどなのだから、材料が無いはずがない。
それに加えて鉱山だ。規模は知れぬが、何かしら掘れる地はあるはずだった。この地は古くから鉱物資源が豊富だったと聞いたことがある。
つまり――この土地は。
「普通に、当たりだよな」
ぽつりと現代の言葉で呟き、目を細める。最初から詰んでいるどころか、むしろ手札は揃っているのだ。
だが同時に、別の現実も頭を過ぎる。
この東北では、銭が足りない。流通も弱い。ゆえに米がそのまま“銭の代わり”として扱われている。年貢も、取引も、価値の基準も、結局は米に結びつく。米本位制なのだ。
それは理解している。理屈としては、正しいのだ。
だが、と貴丸は思う。
「だからって、わざわざ不安定なもん作る必要があるか?」
静かに呟き、指先で板をとんと叩く。
この土地での米は、どう考えても安定しない。冷害、やませ、短い作期――どれを取っても博打だ。にもかかわらず、それを“通貨”として扱うがゆえに、無理に作り続けている。
言ってしまえば、米なんて贅沢品なのだ。
「海産物、塩、乾物、下手すりゃ鉱物……換金できるもんは他にいくらでもあるからな」
思考が静かに繋がっていく。
銭そのものが足りないなら、物を流せばいい。価値のあるものを外へ出し、代わりに銭を引き込む。あるいはそのまま物で納めてもいい。
米に縛られる理由は、本来どこにもない。
「米さえ切り捨てれば、選択肢は一気に増えるな」
口元がわずかに歪む。
さらに都合のいい材料がある。弟の敦丸だ。理由はよく分からないが妙に従順で、頼めば大抵のことはやる。加えて一族にも年頃の人間がそれなりにいるのだ。
ならば――
自分は動かず、指示だけ出せばいい。
仕組みだけ作れば、あとは勝手に回る。
「……戦国武将ならぬ”戦国不精”、普通に成立するかもな」
喉の奥で小さく笑う。上意下達が通る時代だ。最初に枠組みさえ整えれば、人は動く。自分は結果だけ受け取ればいい。
それが一番、楽だ。
「食う、寝る、遊ぶ……そしてまた寝る。これにて万事よろしゅうござるな」
だが、その思考は不意に途切れた。
「とはいえ――」
身体を起こす気にはならず、そのままさらに深く板へ身を沈める。木の温もりがじんわりと背に広がる。
「今から動くのは、なんか…面倒なんだよな…」
風がすっと抜ける。川の音が遠くで鳴り、干された海藻がかすかに揺れる。屋敷の中からは、器の触れ合う乾いた音が小さく響いた。
構想は出来ている。やるべきことも見えている。
あとは動くだけだ。
そこまで考えて、貴丸はゆっくりと目を閉じた。
「……明日でも、まぁ、いいか」
結局、その日も何も変わらなかった。
侍女が運んできた握り飯を、その場で受け取り、片手のまま口へ運ぶ。塩気の効いた雑穀の味が広がるが、それを味わうでもなく、ただ噛んで飲み込む。
厠に一度立ったきり、あとは朝から夕まで、ただ縁側に転がったまま。
陽は沈み、影は消え、空の色がゆっくりと移ろっていく。
それでも貴丸は動かない。
戦国不精を目指す男の第一歩は、今日もまた頭の中だけで見事に進み、現実では一歩も踏み出されぬまま、静かに日が暮れていった。