軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 三国志問答

そして、しばらく沈黙した場の中で、 若僧(にゃくそう) はようやく気づいた。

(……この童の話……ただの軽口ではないぞ)

先ほどのやり取りは、単なる浅い知識の知ったかぶりでは到底成り立たぬ。

劉備達主従の桃園の誓い、その原句を――しかも一部を崩しながらも意味を保ち、なおかつ自分本位に捻じ曲げて語ってみせた。

あれは、聞きかじりでできる真似ではない。

(あれは…… 誦(そらん) じたのだ。それも、咄嗟に――)

元の文の骨格を外さず、要を押さえたまま、あの場で即興のように組み替えた。

しかも、その内容は自らを中心に据えるという歪んだ誓いへと冗談のようにしてすり替えていた。

(ふざけているようで……芯は外していない)

劉備・関羽・張飛の関係性、その上下の情と義を理解していなければ、あの改変は成立しない。さらに――(“此間楽、不思蜀”を、よどみなく……)

劉禅の逸話にまで話を繋げ、その意味合いを皮肉として使う。

司馬昭の問いかけ、その裏にある侮り、そして晋建国へと至る流れまで、一本の線として頭に入っていなければ、ああも自然には出てこない。

ただ覚えているだけではない。それを理解し、意味を噛み砕き、使う場を選んでいるのだ。

先程までの目前の童は、地面に気だるげに腰を落とし、半ば寝転ぶような姿勢のまま、指先で地面をいじっていた。

釣り糸すらまともに見ていなかった、不精者そのものの姿だった。

だが――

(……釣り合っていない)

外に見えるものと、内に潜むものが、あまりにも噛み合っていない。

若僧は、わずかに息を呑む。

(……この童は、何だ、何なのだ)

ふざけた言葉の裏に、筋の通った思考がある。

怠惰な振る舞いの奥に、冷えた視点がある。

理解しようとすればするほど、形が掴めぬ。

その違和感だけが、静かに、しかし確かに胸の奥へと沈み込んでいった。

横で一部始終を眺めていた片腕の老人が、ふと目を細めた。

先ほどまでの豪放な笑いとは違う、どこか値踏みするような光が、その奥に宿る。

「ほう……」

低く、含みを持たせた声で呟き、ゆっくりと一歩前に出る。踏み出した足は静かなのに、不思議とその場の空気だけがわずかに沈む。

その途中で、ふと先ほどのやり取りを思い返したのか、老人は口の端をわずかに歪めた。

「……“ 蜥蜴(とかげ) の尻尾切り”か」

低く呟くその声には、先ほどまでの豪放な響きとは違う、どこか噛み締めるような含みがあった。

「蜥蜴は危うくなれば、自ら尾を断ち切ってでも逃れ、命を永らえる……か」

わずかに顎を引き、遠くを見るように目を細める。

「そうか……初めて聞くが、なるほどな。確かに面白い例えだ」

唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。

「己の一部を捨ててでも本体を守る――言い得て妙だな」

その声音には、単なる感想以上の、どこか戦乱を知る者だけが持つ実感が滲んでいた。

独り言のようでありながら、その言葉は確かに貴丸へと向けられている。

そして改めて、視線を定める。

「小僧、名は何というのだ?」

問う声は穏やかだったが、ただの興味ではない、確かめるような重みがあった。

貴丸は、その気配を真正面から受けながら、わずかに顎を上げる。怯む様子はない。

むしろ、当然のように右手をすっと差し出した。

「名前を聞く教え賃は――まぁ、二十文だな」

軽い。あまりにも軽い言い方だった。

敦丸が息を呑み、希丸がぽかんと口を開ける。

「ただで聞こうなんて、虫が良すぎるんじゃないのか?」

畳みかけるように続ける。まるで相手が銭を出すことを疑ってすらいない調子だった。

老人は、一瞬だけ目を瞬かせた。予想外――だが、次の瞬間には腹の底から笑いが込み上げる。

「がはははっ! よかろう!」

懐から銭の束を取り出し、ためらいもなく放るように差し出す。

「百文やる! これでどうだ!」

乾いた音を立てて、紐で束ねられた銭が貴丸の前に差し出される。

貴丸は、それをちらりと見ただけで、肩をすくめた。

「貴丸だ」

あっさりと名だけを告げる。

老人の眉が、わずかに動く。

「ほう……で、姓は?」

その問いに、貴丸は一拍置いた。ほんのわずかに口元がまた歪む。

「百文だと足りないな」

さらりと言い切る。

「あと四百文」

空気が、ぴたりと止まる。

背後で波が砕ける音だけが、妙に大きく聞こえた。

老人は、しばし黙ったまま貴丸を見つめた。

そして――

「はっ……はは……がっはっはっは!」

喉の奥で笑いが弾ける。

「よし儂の負けじゃ!」

今度はさらに大きく笑い、再び懐へ手を入れる。銭の束をいくつも取り出し、合わせて差し出した。

「ほれ、これでどうだ、小僧!」

合計五百文。ずしりとした重みが、確かにそこにある。

背後の浪人が、思わず声を荒げた。

「元伯様! それでは我らの持ち金が――」

焦りを隠しきれない声音。

だが、老人――元伯は片手で軽く制した。

「よいのだ」

何でもないことのように言い放つ。

「今日はこの童の家に泊まればよいであろう?」

その一言に、場の空気がまた変わる。

貴丸は、差し出された銭を見下ろしながら、わずかに目を細めた。

(五百文……)頭の中で、瞬時に勘定が走る。

(米一升(※握り飯約30個)が十文として……五十升分か)

口には出さないが、計算は早い。

(まぁ、悪くない)

小さく息を吐き、ようやく手を伸ばした。銭の束を受け取ると、その重みを確かめるように軽く揺らす。

「いいだろう」

そのまま顔を上げる。

「俺は大和田貴丸だ」

名乗りは、先ほどよりもわずかに重みを帯びていた。

顎をわずかに上げ、相手を見据える。

「今日は特別に泊めてやる。ただし――明日には出て行けよ?」

言い方はぞんざいだが、どこか線を引くような響きがあった。

元伯は、その名を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「……やはりな」

小さく、確かめるように呟く。

そして次の瞬間には、また豪快に笑い出した。

「がははははっ!」

潮風に乗って、その笑い声が広がる。浜に打ち寄せる波の音を押しのけるほどに大きく、いつまでも響き続けた。