軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十二話 私がいなくても回る形を作るのは、消えるためではありません

ルドヴィク典礼監補が古い私用覚えを持ってきたのは、翌朝いちばんだった。

薄汚れた革表紙の帳面が三冊。

紙の端は擦り切れ、角には古い蝋の跡が残っている。

表の記録には残らなかった建国祭の癖が、たぶん全部そこに詰まっていた。

「読めますか」

彼は不機嫌そうにそう言った。

差し出し方まで不機嫌だったけれど、渡したという事実のほうが大きい。

昨日までの彼なら、きっとこれは出さなかっただろう。

「読めます」

私は帳面を受け取った。

表紙を開く。

字は癖が強い。

でも、慣れている種類の癖だった。

《《顕彰式三巡目、勲章盆は右へ逃がす》》。

《《歓迎宴で通訳二名必要。片方は必ず蒼の間残留》》。

《《舞踏会花台、北列だけ遅らせると全体は崩れない》》。

そういう、一人で埋めてきた人間しか持たない覚え方だ。

「……すごい」

思わず声が漏れた。

悪意ではなく、本当にそう思ったのだ。

これだけ現場を見ていなければ書けない。

逆に言えば、これだけを一人の頭へ抱え込んでいたのなら、そりゃ建国祭はいつまで経っても《《その人がいないと困る祭り》》のままだろう。

ルドヴィク典礼監補は鼻を鳴らした。

「いまさら驚くようなものではありません」

「驚きます」

私ははっきり言った。

「これだけのことを、今まで一人で持っていたのですから」

彼は何も言わなかった。

けれど、わずかに肩の力が抜けたように見えた。

たぶんこの人も、誰かに《《残すべき仕事だった》》と言われるのは初めてなのだろう。

私はすぐに机へ戻り、帳面の中身を工程札へ移し始めた。

昨日までの黒札へ、さらに細い補助線が入る。

顕彰式の三巡目。

歓迎宴の通訳交代。

舞踏会直前の花台ずらし。

どれも、小さい。

でも、小さいからこそ知らなければ埋められない。

「これで、白の間はほぼ若手に回せます」

私は工程板の前で言った。

「ロッテとエミル、それに王妃宮から借りたミナで回ります」

マルタ女官がすぐに頷く。

「蒼の間は?」

「私が見るのはそこです」

私は青札の列へ指を置く。

「通訳の抜けと贈答の順が重なるので、ここだけはまだ私がいたほうが早い」

クラウディア次席儀礼官が、工程表全体を見渡した。

「つまり、顕彰式は完全に渡すのね」

「はい」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。

完全に渡す。

つい少し前までの私なら、それを不安としか感じなかっただろう。

でも今は違う。

違うはずだと、頭では分かっている。

「最終通しをやります」

クラウディア次席儀礼官が言う。

「白の間はロッテ組へ完全委任。エルシェナ補佐官は蒼の間と大広間の接続だけを見る」

ロッテの顔が、さっと強張った。

だが逃げなかった。

エミルも、紙束を抱え直すだけで何も言わない。

たぶん二人とも、自分たちが今どれだけ重大なことを任されようとしているか分かっているのだろう。

だからこそ、私は余計に変なことを言いたくなかった。

大丈夫とか、失敗してもいいとか。

そんな慰めではなく、役目として渡したい。

「白の間は任せます」

私はロッテへ言った。

「黒札はもう全部渡してあります。迷ったら、まず手順どおりに。手順で拾えないなら、そのときだけ声をください」

ロッテが唇を引き結び、まっすぐ頷く。

「……はい」

いい返事だった。

少し震えているけれど、逃げてはいない。

最終通しが始まる。

今日は私は白の間へ行かない。

それが最初から決まっていた。

だから、白の間で何が起きても、すぐに駆けつけない。

蒼の間と大広間の境だけを見る。

それが、今日の私の役目だ。

最初の一巡は、白の間側の音だけが少し遠く聞こえた。

ロッテの声。

エミルの返答。

盆が動く音。

廊下へ流れてくる靴音の数。

耳を澄ませば分かる。

でも、わざわざ見に行かない。

黒札が走ってこない限り、私は動かない。

蒼の間では、大使歓迎の入場順が一度だけもたついた。

通訳の位置が半歩ずれたせいだ。

私は青札を一枚切り替え、ミナへ渡す。

ミナがすぐに一礼し、動線を戻す。

大広間では花台の位置が遅れたが、これも昨日作った灰札で吸収できた。

悪くない。

少なくとも、私が全部を走り回らなくても流れは繋がっている。

そのとき、白の間側から小さくざわめきが起きた。

反射で振り向きそうになって、私はこらえた。

駄目だ。

自分で決めたではないか。

今日はあちらを委ねると。

「来ませんね」

すぐ横で、マルタ女官が低く言った。

「え?」

「黒札」

彼女は白の間の方向を顎で示す。

「止まったなら、もう走ってきていてもいい頃です」

私はそこで、ようやく息を吸った。

たしかにそうだ。

止まっていないのだ。

ざわめいたように聞こえただけで、流れそのものは切れていない。

少しして、エミルが廊下の角を走り抜ける。

蒼の間への引き継ぎ札を運び、そのまま予定どおり戻っていく。

その顔に、前みたいな焦りはない。

白の間は、本当に回っているらしい。

最終通しが終わったのは、日が傾き始めるころだった。

白の間の人員が、札を抱えたままこちらへ戻ってくる。

ロッテは少し頬を上気させていたが、泣きそうな顔はしていない。

むしろ、やり切った人の顔だった。

「どうだった」

私が訊くと、ロッテは一拍だけ息を整えてから答えた。

「……三巡目で、年配の勲功夫人が《《この順では若い家が先に見える》》とおっしゃいました」

私は頷く。

それは昨日、ルドヴィク典礼監補の覚えにあった箇所だ。

「黒札十四を使いました」

彼女は続ける。

「《《ご夫人は、北列で最初に勲章盆をご覧になる位置でございます》》と」

「それで?」

「ご納得いただけました」

そこで、ようやくロッテが少し笑う。

うまくいったのだ。

私がいなくても、黒札と札の順番と彼女自身の声で。

「よかった」

私は本心でそう言った。

本当に、よかったのだ。

訓練が成功したことも。

ロッテがやり切ったことも。

白の間が私なしで立ったことも。

でも同時に、胸の奥に小さな違和感があった。

それが何なのか、自分でもすぐには言葉にできない。

誇らしい。

嬉しい。

それなのに、少しだけ寂しい。

おそらく、そんな種類のものだった。

通しのあとの片づけで、私はほとんど言葉を発しなかった。

札を戻し、工程表へ今日の修正を書き込む。

白の間の三巡目は黒札十四で安定。

蒼の間通訳交代は半刻前倒し。

大広間花台は北列だけ別車で先行。

やるべきことはちゃんとある。

なのに、頭の中のどこかだけが少し空いている気がする。

「エルシェナ」

低い声が、肩の少し後ろで止まった。

振り向くと、レオンハルト殿下がいた。

いつものように静かな顔だ。

でも目だけは、私が何に引っかかっているか、だいたい読んでいる顔だった。

「どうした」

「何がでしょう」

反射でそう返してから、駄目だと思う。

この人に、そういうごまかしはあまり通じない。

「白の間が回ってよかった」

彼は言う。

「だが、あなたは少しも嬉しそうに見えない」

私は、しばらく何も言えなかった。

図星だったからだ。

嬉しくないわけではない。

嬉しい。

でも、それだけではない。

「……もし」

ようやく声が出る。

「私がいなくても回るのなら」

その先を、少しだけ飲み込む。

でも、ここで止めたら意味がない気がした。

「私は何のために必要なのでしょう」

レオンハルト殿下はすぐには答えなかった。

ただ、私の机の端へ置かれた工程板を見てから、静かに言う。

「それは、消えるのと同じか」

「少しだけ、そう思ってしまいました」

私は正直に認める。

「今まで私は、足りないところを埋めることで役目を持っていたので。もし埋めなくても回るなら、私はまた《《いなくてもいい人》》になるのではないかと」

口にしてしまえば、子どもじみた不安だと思う。

でも、いまの私はそれを隠したくなかった。

少なくとも、この人の前では。

「違う」

返事はすぐだった。

短くて、迷いがない。

「一人で埋めていた頃のあなたは、倒れたら終わる札だった」

私は顔を上げる。

その言い方は少し痛い。

でも、その痛さがあるからこそ本気だと分かる。

「今は違う」

彼は工程板の入場列と片づけ列を指でなぞる。

「あなたは札を置く側にいる」

一拍。

「人を動かし、どこを止めず、どこで切り替えるかを決める側だ。自分が一つの列を走るのとは、必要の種類が違う」

必要の種類が違う。

その言葉が、胸の奥へすっと落ちる。

足りないところを埋めるしかなかった頃と、いまの自分では、たしかに必要のされ方が違うのかもしれない。

「では」

私は小さく問う。

「私がいなくても白の間が回ることは、私の価値を減らすわけではないのですね」

「そうだ」

彼は即答した。

「むしろ逆だ。あなた一人がいなくても流れが残るなら、それは《《あなたが仕組みを残した》》ということだ」

そこで、私はようやく息を吐けた気がした。

そうか。

私が消えるのではない。

私の仕事が、私だけの手を離れても残るだけなのだ。

「それに」

レオンハルト殿下は続ける。

「白の間が回ったからといって、あなたが不要になるわけではない」

「なぜですか」

「どこを渡し、どこを自分で持つかを決める人は、まだ要る」

その一言が、ひどくまっすぐだった。

全部を自分でやる人ではなく。

全部を手放して消える人でもなく。

《《どこを自分が握り、どこを人へ渡すかを決める人》》。

それが今の私なのだと、初めて少しだけ形になった気がする。

「……ありがとうございます」

私がそう言うと、彼はほんの少しだけ目を細めた。

「礼を言うほどのことではない」

「でも、助かりました」

その言葉に嘘はなかった。

もし今これを一人で抱えていたら、私はきっとまた昔の癖で、《《全部を自分でやらなければ意味がない》》ほうへ戻ってしまっただろう。

それを止めてもらえた。

それだけで十分だ。

少し離れたところで、ロッテが黒札の箱を閉じる。

エミルは今日の修正を控えへ写している。

マルタ女官とクラウディア次席儀礼官は、もう次の列の打ち合わせに入っていた。

白の間は、たしかに私がいなくても回った。

でも、回ったからこそ、私はようやく次の場所を見られるのかもしれない。

私は工程板を持ち上げ、今日の修正札を差し替えた。

明日になれば、また別の止まり方が見えるだろう。

それでいい。

一人で全部を抱えなくても、立つ形を作る。

それが今の私の役目なのだ。

そして、その役目はたぶん、消えることとは違う。