軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十九話 王弟殿下の隣に立つ席を、仕事以外の人も欲しがります

ヴァルブルク公爵令嬢は、思っていたより静かな人だった。

もっと華やかに、もっと人目を集めるように現れるのかと思っていたのに、書記室へ入ってきた彼女は、音もなく空気の温度を一段だけ変えるような立ち方をした。

淡い青の昼衣装。

光を弾く薄金の髪。

けれど、目元の印象は思っていたよりずっと冷静だ。

王宮で噂になる美しさと、公爵家令嬢らしい品と、そして《《場に慣れている人》》の落ち着きが、過不足なく揃っていた。

「急なお邪魔をお許しください」

彼女はまずレオンハルト殿下へ一礼し、それからクラウディア次席儀礼官と私へ視線を移した。

「王妃殿下より、建国祭の夜の舞踏会で、諸侯夫人方の迎え列を少し手伝うよう仰せつかりました」

なるほど、と思う。

ただの見物ではない。

ちゃんと《《使われる理由》》を持って来ている。

それだけで少し救われるような、逆に逃げ場が減るような、奇妙な気持ちになった。

ただ王弟殿下の婚約候補として現れるだけなら、まだ分かりやすかった。

でも、この人はそうではない。

ちゃんと仕事を持ち込んでくる。

「フロレンティア・ヴァルブルクです」

彼女は私へ向き直った。

「エルシェナ・リューネ補佐官のお噂は、母からも王妃宮からも伺っておりますわ」

そう言われると、少しだけ困る。

噂という言葉が、まだ自分には似合わない気がするからだ。

「こちらこそ、お名前は存じ上げております」

私は一礼を返した。

「本日はお力添えいただけるとのこと、助かります」

彼女の目元がほんの少しだけ和らぐ。

意外だった。

もっと値踏みするような視線が来ると思っていたからだ。

「そう言っていただけて安心しました」

フロレンティアは、そう言って薄い紙束を一つ差し出した。

「母が預かっている夫人方の出欠と、舞踏会前のご挨拶順の覚えです。建国祭は毎年、夜の挨拶列だけ少し荒れますので」

私は思わず紙束を受け取り、中を見る。

驚いた。

書き方がかなり丁寧だ。

王妃宮の札ほどではないが、夫人方の好き嫌い、膝の悪い方、酒に弱い方、隣国の使節夫人と相性の悪い方まで、簡潔にまとまっている。

「……助かります」

正直な感想だった。

これは表面だけの社交令嬢では書けない。

フロレンティアが少しだけ笑う。

「よかった。皆さま、わたくしを飾りだと思いがちなので」

その言葉に、私は一瞬だけ返事を失った。

意外すぎたからだ。

飾り。

そう見られる側の人間が、自分でその言葉を使うとは思っていなかった。

「失礼しました」

彼女は小さく首を振る。

「少し言いすぎましたわね」

「いいえ」

私は紙束へ視線を戻しながら答える。

「分かります」

それは、思った以上に本音だった。

書記室の空気は、そこで少しだけ変わった。

マルタ女官は目元を細め、クラウディア次席儀礼官は何も言わずに次の席札をこちらへ押しやる。

レオンハルト殿下だけが、相変わらず静かな顔でこちらを見ていた。

私は紙束と建国祭の夜会席図を並べた。

ヴァルブルク公爵令嬢をどこへ置くか。

これは、見た目よりずっと厄介な札だ。

王宮の人間の半分は、たぶん彼女をレオンハルト殿下の隣へ置きたがるだろう。

家格、容姿、話題性、そして噂。

どれもそちらの席へ向かう理由になる。

でも、いまこの場で必要なのは《《似合う席》》ではなく、《《一番よく働く席》》だった。

「フロレンティア様」

私が顔を上げると、彼女はすぐに応じた。

「何でしょう」

「舞踏会の初手で、王妃宮寄りの夫人方を北列から流していただけますか」

マルタ女官がすぐにこちらを見る。

予想していた置き方とは違ったのだろう。

たぶん皆、フロレンティアを《《王弟殿下の側席候補》》と見ていたはずだ。

「わたくしが、ですか」

フロレンティア自身も少しだけ驚いたようだった。

「ええ」

私は頷く。

「殿下のお隣は、たしかに目立ちます。ですが、そこは座っていれば済みます」

一拍置く。

「でも北列の第一迎えは違います。最初の十分で、王妃宮寄りの夫人方の流れを整えなければ、そのあと全部が詰まる」

彼女の目が、ほんの少しだけ真剣になる。

「つまり」

「フロレンティア様を《《座らせる》》より、《《動かす》》ほうが建国祭には向いていると思います」

書記室が少し静かになった。

自分で言いながら、これはなかなか勇気の要る配置だと思う。

でも、他にない。

彼女の持っている社交力と知名度を生かすなら、そこしかないのだ。

フロレンティアはすぐには答えなかった。

私の顔と席図を見比べ、それからレオンハルト殿下へ視線を移す。

彼は何も言わない。

ただ、こちらの判断を待っている顔をしている。

ようやくフロレンティアが、小さく息を吐いた。

「なるほど」

ゆっくり頷く。

「殿下のお隣より、そちらのほうが働けるということですわね」

「はい」

私は答える。

「そして、きっとそちらのほうがフロレンティア様にもお似合いです」

その一言に、彼女はごく短く笑った。

嘲りではない。

むしろ、少しだけ気が楽になったような笑いだった。

「面白い方ですね」

そう言って、彼女は席図の北列を覗き込む。

「皆がわたくしを殿下の隣に座らせたがるのに、あなたは一度もそこへ置こうとしない」

「必要なところへ置いているだけです」

私がそう言うと、フロレンティアはまた笑った。

今度は、さっきより少しだけ柔らかく。

「ええ。たぶん、そのほうがずっと正しいのでしょうね」

クラウディア次席儀礼官がそこで初めて口を開いた。

「異論がないなら、そう組みます」

「ございませんわ」

フロレンティアは即答した。

その答え方にも、妙な意地がない。

だから余計に手強いのだと思った。

悪意のある相手なら切り分けは簡単だ。

でも、こういう善意と実力を持った人は、見ているこちらを静かに揺らす。

しばらくして、フロレンティアは北列の導線確認と夫人名簿の補注を終え、予定より早く手を離した。

去り際、彼女は書記室の扉の前で一度だけ振り返る。

「エルシェナ補佐官」

「はい」

「一つだけ、余計なことを申し上げても?」

私は少しだけ身構えた。

でも彼女の顔には、敵意らしいものは見えない。

「どうぞ」

フロレンティアはごく軽く微笑んだ。

「殿下のお隣の席は、思っているよりずっと面倒ですわ」

私は答えられなかった。

その言葉が、あまりにも核心に近かったからだ。

彼女は私の沈黙を責めず、そのまま続ける。

「だから皆、欲しがるのでしょうけれど」

それだけ言って、彼女は去った。

扉が閉じる。

書記室に残ったのは、紙と札の匂いと、妙に落ち着かない沈黙だった。

「……悪くない配置だった」

クラウディア次席儀礼官が言う。

「はい」

私は手元の札を整えながら答える。

「フロレンティア様を殿下の隣へ置くより、北列の先導に置いたほうが流れます」

「そういう意味ではなく」

彼女はそう言って、少しだけ私の顔を見た。

「あなたが、私情を混ぜなかったことよ」

私は一瞬だけ言葉に詰まる。

私情。

混ぜなかった、のだろうか。

少なくとも表には出していない。

でも、胸の内側ではさっきから妙にざわついていた。

「仕事ですから」

ようやくそれだけ返すと、クラウディア次席儀礼官は頷いた。

「ええ。だからこそ良かったの」

そのまま彼女は別の紙束へ戻る。

マルタ女官も、何も言わずに札の写しを始めた。

誰もからかわない。

誰も余計なことを言わない。

その沈黙が、今は少しだけありがたかった。

でも、ありがたいのに、落ち着かない。

私は自分の机へ戻り、建国祭の工程札を見下ろした。

昨日までなら、札の並びを見るだけで頭が澄んだのに、今日はどうしてもあの言葉が残る。

《《殿下のお隣の席》》。

私はそこが欲しいのだろうか。

いや、たぶん違う。

欲しいのは席ではない。

代わりの利く肩書きでも、噂にふさわしい位置でもない。

最初から私自身を見てほしいのだと、前に確かに口にした。

なら、ヴァルブルク公爵令嬢が現れたくらいで揺れる必要はないはずなのに。

「手が止まっている」

低い声が落ちた。

顔を上げると、レオンハルト殿下がすぐ横に立っていた。

いつの間に、と思う間もないほど自然に。

「珍しいな」

「……少しだけ」

私は正直に言った。

ごまかしても、この人にはたぶん分かる。

「何に」

問いは短い。

でも急かさない。

私は少しだけ迷った。

ここで綺麗に嘘をつくこともできる。

建国祭の工程が重いとか、フロレンティアの名簿が想定外に詳しかったとか。

どれも事実ではある。

でも、それだけではないことも知っていた。

「フロレンティア様が」

そこまで言って、言葉を選ぶ。

「思っていたより、ずっと仕事のできる方でした」

「そうだな」

殿下は即座に頷いた。

否定も、妙な慰めもない。

ただ事実として受け取る。

「そして」

私はさらに小さく続ける。

「とても、王宮らしい方です」

今度は少しだけ間があった。

でも、逃げたくなるほど長い沈黙ではない。

「なるほど」

そう言って、殿下は私の机の端に置かれた黒札を一枚指で押さえた。

「それで、あなたは何が不安になった」

まっすぐだった。

まっすぐすぎて、私は視線を少しだけ落とす。

でも、ここでまた曖昧にしたら、たぶん前と同じになる。

見えないところだけで誰かが全部を抱える形に戻ってしまう。

「……私は」

ゆっくり息を吸う。

「仕事では通用すると言っていただけました」

「言った」

「でも、仕事の外ではどうなのかと、少しだけ思ってしまいました」

口にしてから、頬が少し熱くなる。

情けないと思う。

でも、本音だった。

「王宮の人たちは、ああいう方を自然に殿下の隣へ置きたがるのでしょう?」

私は続ける。

「家格も、立ち居振る舞いも、噂の上でも、きっとすべてが自然だから」

殿下はしばらく黙っていた。

その沈黙に耐えられなくなる前に、彼が静かに言う。

「あなたは、席の話をしているのではないな」

「はい」

「知っている」

たったそれだけで、少しだけ胸が軽くなる。

全部を説明しなくても、この人はもうそこを読み違えないのだ。

「なら、仕事を進めよう」

私は一瞬、言葉を失った。

もっと何か言われると思っていたからだ。

でも殿下は続ける。

「今ここで私が何を言っても、建国祭の段取りと混ざる」

灰色の目が、静かにこちらを見る。

「だから、今は仕事を進める。そのほうが、あなたにも私にも誤魔化しが少ない」

その言葉が、不思議とありがたかった。

逃げられたわけではない。

後回しにされたのでもない。

ただ、《《今はそこを混ぜるべきではない》》と判断されただけだ。

それは、この人らしい誠実さだった。

「……承知しました」

私がそう答えると、殿下は短く頷く。

「建国祭が終わったら、続きを話そう」

その一言だけで十分だった。

私はようやく手元の札へ意識を戻せる。

黒札。

赤札。

白札。

見えない仕事を見える形にするための札たち。

私が今いるのは、やはりここなのだと思う。

そして、ここでちゃんと働ける自分を、この人は仕事の外でも見ているのだと、少しだけ信じてもいい気がした。

建国祭まで、あと九日。

面倒な札は増えた。

でも、逃げたいとは思わなかった。