作品タイトル不明
第十三話 差し替えられた招待状は、ただの誤記ではありませんでした
書記室の空気が、また一段冷えた。
机の上に広げた招待状束のうち、二通だけが明らかにおかしい。
宛名そのものは整っている。
字も崩れていない。
けれど、だからこそ分かる。
これはうっかりではない。
わざわざ《《正しく見えるように》》作られた差し替えだ。
「誰も触らないでください」
私がそう言うと、マルタ女官もクラウディア次席儀礼官もすぐに手を引いた。
エミルだけが一瞬固まったが、すぐに息を呑んで一歩下がる。
「そこまでか」
レオンハルト殿下が低く問う。
「はい」
私は差し替えられた二通を、束の上にそっと並べた。
「ただの誤記なら、名前か肩書きのどちらかですみます。でもこれは違います。封の結び直しも、紙の折りも、差し替えられた順番も、全部が《《意図》》を持っています」
クラウディア次席儀礼官が、招待状の束へ視線を落とした。
「説明を」
短い言葉だった。
けれど、その一言に試す響きはなかった。
仕事の話を聞く声だった。
「まず、封の紐です」
私は差し替えられた二通の縁を指先で示した。
「他の招待状は、王家書記室の清書係が同じ手順で閉じています。結び目の位置が深く、右へ少しだけ寄るのが癖です」
一枚持ち上げる。
「でもこの二通は違う。結び目が浅く、中央寄りです。慣れた清書係ではなく、あとから触った者の結び方です」
マルタ女官が、すぐに眉を寄せた。
「装飾確認室へ回した束ね」
「ええ」
私は頷く。
「それに、裏面の右下だけ紙が少し柔らかい。湿し布の上へ一度置かれた跡です」
「王妃宮の補修机には、いつも湿し布があるわ」
マルタ女官の声が低くなる。
「はい」
私は言った。
「少なくとも、この二通は一度、書記室の机ではない場所に置かれています」
クラウディア次席儀礼官が今度は封印札を見た。
その目が、さらに冷えた。
「書記室の人間か?」
マルタ女官が問う。
「断定はまだ早いです」
私は首を振る。
「でも、出入りを追えば絞れます。まずはこの束がいつ、どこで開かれたか」
レオンハルト殿下はそれを聞くなり、廊下へ控えていた近衛へ短く命じた。
「出入り控えを」
「はっ」
「それから、清書中の招待状束をすべて止めろ」
近衛が一瞬だけ目を上げる。
「すべて、でございますか」
「すべてだ」
レオンハルト殿下の声は低かった。
「王女殿下の婚約披露式典に関わる招待状、席次案、親族名簿。二名確認が終わるまで、一通も外へ出すな」
「承知しました」
近衛が駆けていく。
その動きで、書記室の空気が変わった。
これは、うっかりの誤記ではない。
王宮の仕事を止めてでも確認すべき異常なのだと、全員が理解したからだ。
そのあいだ、私は差し替えられていない招待状束も確認した。
外見は似ている。
けれど、束の中央へ二通だけ紛れ込ませてあるのがむしろ不自然だった。
端ならまだ見逃される。
中央へ差すのは、《《こちらが全部を開いて確認しない》》と踏んでいたからだろう。
随分と忙しい部署だと思われているらしい。
残念ながら、私は全部開いて見る側の人間だ。
「出入り控え、戻りました」
近衛が薄冊を三冊持って戻ってきた。
クラウディア次席儀礼官が一冊を取り、マルタ女官がもう一冊を開く。
私は三冊目を受け取った。
「昨日午後、招待状束が書記室を出た記録は一度だけです」
近衛が言った。
「王妃宮の装飾確認のため、薄金の札束と共に運ばれています」
「私の指示だわ」
マルタ女官が、低く言った。
「知っています」
私はすぐに答えた。
「でも、あなたが戻した束ではありません」
ページを覗き込む。
出入り記録の最後に、小さな補記があった。
外取次にて、差し入れの茶を預かる。
書記局の者なら、そんな書き方はしない。
外から入った人間を、名前ではなく用件で記したということだ。
「この追記」
私は指先でその一行を押さえる。
「誰が書いたのですか」
近衛がすぐに答える。
「昨日の取次担当は若い女官でした。名はルビナと」
「呼びなさい」
クラウディア次席儀礼官が、私より先に言った。
声は冷静だった。
けれど、その冷静さの下に怒りがあるのが分かった。
ほどなくして連れてこられた若い女官は、本当にまだ若かった。
顔色が悪く、両手を胸の前で固く握っている。
悪意があるというより、叱られる前の顔だ。
「昨日、招待状束が王妃宮の装飾確認室へ出たときのことを聞きます」
クラウディア次席儀礼官が切り出した。
「差し入れの茶を持ってきたのは誰?」
「……リネット様付きの侍女、でした」
部屋の空気がぴたりと止まった。
私も一瞬だけ息を止める。
「どうして、そんな人間を装飾確認室の取次へ通したの」
クラウディア次席儀礼官の声は冷たかった。
けれど怒鳴らない。
だから余計に怖い。
「エルシェナ様のご実家からだと……それに、リネット様が《《お姉様なら大丈夫》》とおっしゃっていたので、外取次でお茶を預かるくらいならと……」
ルビナ女官の声は震えていた。
私は静かに息を吐く。
「その侍女は、招待状束に触れたの」
「ほんの少しだけです」
ルビナ女官は、今にも泣きそうな顔で言った。
「北部公爵夫人の甥君が本当に来るのか、その席がどこなのかだけ確かめたいと。すぐ返すと仰ったので、私が目を離したのはほんの少しで……」
「ほんの少しで、王女殿下の婚約披露式典の招待状は差し替えられる」
クラウディア次席儀礼官が言った。
淡々とした声だった。
「その覚えは持っておきなさい」
ルビナ女官の顔から血の気が引いた。
「ルビナ女官」
レオンハルト殿下が低く言う。
「本日付で取次任を外す。聴取が終わるまで王妃宮控室で待機。職務上の処分は、記録を精査したのちに下す」
「は、はい……」
「泣く前に、事実を書け」
その一言は厳しかった。
でも、必要だった。
泣いて済む話ではない。
少なくとも王家の招待状は、誰かの涙で元に戻るものではない。
「近衛」
レオンハルト殿下が続ける。
「リネット嬢付きの侍女を探せ。王宮内にいれば近衛詰所で聴取。すでに退出していれば、リューネ家へ正式な出頭命令を出す」
「はっ」
「リューネ家へも通達を」
殿下の声は、少しも揺れなかった。
「王女殿下の婚約披露式典に関する招待状差し替え、および未確定席次情報の不正取得について、王弟宮と王家儀礼局の連名で正式抗議を入れる」
「承知しました」
近衛が一礼して退く。
書記室に、重たい沈黙が残った。
私は差し替えられた二通を見下ろした。
紙は軽い。
けれど、その軽さで王宮の空気は十分に壊れる。
「この二通は証拠封緘へ」
クラウディア次席儀礼官が言った。
「写しを一部、王妃宮へ。一部、近衛詰所へ。一部、儀礼局の妨害控えへ入れます」
「はい」
私は頷いた。
「招待状束は、今後二名確認で扱います。王妃宮の装飾確認へ出す場合も、持ち出しと戻しの両方に書記官と女官の署名を」
「加えて、外取次での差し入れ受け取りを禁止」
マルタ女官が言った。
「王家行事の清書中は、茶も菓子も不要です」
「よい」
レオンハルト殿下が短く言う。
「今決めろ。あとででは遅い」
その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
こういうところだと思う。
この人は、口で怒るより先に仕組みを切る。
だから王宮がまだ王宮でいられるのだ。
エミル書記官が、震える手で臨時取扱を書き始めた。
王家儀礼局 臨時取扱
招待状束は、清書前と封緘後に二名で確認する。
王妃宮装飾確認へ回す場合、持ち出し者と戻し受領者を別名で記す。
外取次での差し入れ、手紙、私物の受け取りを一時停止する。
未確定席次に関する問い合わせは、すべて次席儀礼官の許可制とする。
家族名義、侍女名義、旧婚約関係を理由とした取次は、王家行事の例外にならない。
書かれていく文字を見ながら、私は静かに息を吐いた。
これで、少なくとも同じ隙は塞がれる。
完璧な組織などない。
けれど、穴が見えた瞬間に塞げる組織なら、まだ信用できる。
「それから」
レオンハルト殿下は私を見る。
「あなたは一人で家へ行かない」
「……はい」
「これは家族の話ではない」
はっきりと言われて、私は一瞬だけ息を止めた。
その通りだった。
今の私なら、たぶんまた自分で家へ行こうとしていた。
証拠を持ち、妹へ話し、両親へ線を引く。
でもそれでは、また《《私が家の中で処理する話》》になってしまう。
「午後、リューネ家を王宮外応接室へ呼ぶ」
レオンハルト殿下は言った。
「あなたは当事者として同席する。だが、通告するのは王家儀礼局だ」
「承知しました」
私は差し替えられた二通を、証拠用の封筒へ移した。
もう二度と、同じ束へは戻さない。
これは証拠だ。
そして、私が次に何を切るべきかを示す印でもあった。
「悪意というのは親切ですね」
クラウディア次席儀礼官が、昨日より冷たい目で言った。
「どこを切れば困るか、向こうが自分で教えてくれる」
「ええ」
私は頷く。
「今度は、ちゃんと公の線で切ります」
書記室の誰も、それに異を唱えなかった。
止める必要もないと、分かっているのだろう。
私だって分かっている。
ここから先は、家族の言い訳ではなく、王家の仕事を守る話になるのだと。