作品タイトル不明
第十二話 披露式典は、祝福より順番のほうが壊れやすい
王女殿下の婚約披露式典まで、あと九日。
王家儀礼局の朝は、紙の音から始まる。
名簿をめくる音。
札を差し替える音。
書記官が乾いた紙へ注釈を書き込む音。
華やかな儀式の準備だというのに、聞こえてくるのはそんな地味な音ばかりだ。
でも私は、その音が好きだった。
祝福の場ほど、順番と段取りでできていることを知っているからだ。
机の上には、王女殿下の婚約披露式典の全体図を広げていた。
中央に王女殿下と婚約相手の公子。
その右に王妃殿下、左に国王陛下。
婚約相手側家門の近親席。
神殿側。
外務卿。
東方使節。
王妃宮付き女官。
紙の上では小さな札にすぎない。
けれどその札の一つ一つが、王宮の空気を変える。
「ここを少しずらします」
私は婚約相手側の叔母君の札を半歩だけ動かした。
「王女殿下の退席導線とぶつかるので、今のままだと裾を踏まれる可能性があります」
マルタ女官が、私の手元を覗き込みながら頷いた。
「侍女の並びも変わるわね」
「はい。王女殿下付きは二列目を一人減らして、代わりに右側の控えへ」
クラウディア次席儀礼官は、昨日より少しだけ質問が早くなっていた。
疑うためというより、確認するための問い方になっている。
それが少し嬉しい。
「神殿側は?」
「祝詞の順を下げない形で整えます。昨日の返書で、立会印は予定どおりと確認が取れました」
私は神殿側の札を開式の起点へ置いた。
「神殿の祝詞を先に立て、その後に両家の系譜確認を置きます。そうすれば、婚約相手側の家門紹介も、神殿を飾りにした形には見えません」
「婚約相手側は不満を持たないかしら」
クラウディア次席儀礼官が問う。
「家門紹介ではなく、誓約に必要な系譜確認として扱えば、むしろ格は保てます」
私は中央の札を少しだけ寄せた。
「誇示ではなく、確認です。言葉を変えるだけで、意味が変わります」
「言葉を変えるだけで?」
エミル書記官が首を傾げる。
「ええ」
私は頷いた。
「儀礼では、言葉が席の高さと同じくらい重いことがあります」
エミルは少し考え、それから真面目に紙へ書き込んだ。
最近は、彼がこちらの言葉をただ写すのではなく、自分なりに噛み砕こうとしているのが分かる。
それも、少し嬉しい変化だった。
午前の半ば、王女殿下が書記室へ顔を出された。
正式な視察ではない。
けれど、婚約披露式典の主役本人が自分の式次第を見に来るのは悪いことではない。
むしろ、何も知らないまま当日を迎えられるほうが怖い。
「叔父様」
王女殿下は、レオンハルト殿下を見るなりそう呼んだ。
「わたくしの歩く道が、また少し短くなったと聞いたわ」
「短くなったのではない。転びにくくなった」
レオンハルト殿下は短く返した。
王女殿下は少し不満そうに頬を膨らませたけれど、すぐに私の机の上の図面へ目を向ける。
「あなたが考えたの?」
「はい」
私は一礼した。
「王女殿下は、緊張なさると少しだけ歩幅が早くなります。段差前に半拍の間を置けば、袖持ちの女官も合わせやすくなります」
「そんなことまで見ているの?」
王女殿下がぱちりと瞬いた。
「見えてしまうのです」
正直に答えると、王女殿下は声に出して笑った。
その笑い方は、王妃殿下よりずっと若くて軽い。
でも、嫌な軽さではなかった。
「それで、婚約相手の公子はどこに立つの?」
「こちらです」
私は中央卓の左寄りに置いた札を指した。
「ただし、王女殿下へ迎えられる形にはしません。公子も半歩だけ中央へ進み、殿下と並んで神殿側へ礼を取ります」
「どうして?」
「婚約披露式典は、祝福の場に見えて、その実は《《序列の確認》》の場でもあります」
私は席次図の端を指した。
「王女殿下のお立場が高いのは、皆が知っています。ですから、殿下ご自身の席を高く見せるより、周囲の方々が《《正しい位置にいる》》ほうが全体は美しく見えます」
王女殿下は、しばらくそれを考えるように黙った。
それから、ふっと小さく笑う。
「難しいのね」
「はい」
「でも、面白いわ」
その一言に、私は少しだけ安心する。
主役本人が《《ただ座るだけの儀式》》だと思っていないなら、こちらもやりやすい。
「レオンハルト叔父様」
王女殿下が振り返る。
「この方、好き」
レオンハルト殿下の表情はいつも通りほとんど動かなかった。
けれど、ほんの少しだけ目元がやわらいだように見えた。
「そうか」
返事は短い。
でも、その短さに妙な満足が混じっているのを、私はたぶん聞き違えていない。
王女殿下は席次図をもう一度見回したあと、急に私へ言った。
「あなた、まだその机へ遠慮しているわね」
私は思わず言葉を失った。
図星だったからだ。
王家儀礼局の補佐官席を得て、鍵まで受け取り、こうして仕事もしている。
それでも心のどこかで、まだ《《本当にここへ座っていていいのか》》と思っている。
「遠慮、というほどでは」
「遠慮よ」
王女殿下はあっさり言った。
「でも、レオンハルト叔父様が机を用意した相手へ遠慮し続けるのは、ちょっともったいないわ」
私は一瞬だけレオンハルト殿下を見る。
殿下は何も言わなかった。
けれど、否定もしなかった。
「……努力します」
ようやくそう答えると、王女殿下は満足そうに頷いた。
「ええ。そうして」
王女殿下が去ったあと、書記室の空気は少しだけ柔らかくなった。
けれど、仕事はすぐ現実へ戻る。
披露式典はまだ九日後。
そして九日というのは、王宮では短い。
昼を過ぎた頃、婚約披露式典の仮案はほぼ形になっていた。
席次。
導線。
贈答順。
控えの間の動き。
楽団の切り替え。
王女殿下が緊張して歩幅を乱しても、誰にも気づかれないよう支える流れまで。
やることは多い。
でも、ちゃんと組めば成立する。
こういう瞬間が、私は好きだ。
「こちらを清書へ回します」
エミルが仮案を抱えて立ち上がる。
その横で、王妃宮の装飾確認室から戻ってきた招待状束が、封緘箱のまま机へ置かれた。
王家の招待状は、ただ宛名を書けば終わりではない。
封の飾り紐。
家紋札。
王妃宮の薄金印。
それらを確認するため、一度だけ王妃宮側の補修机へ回すことがある。
もちろん、持ち出し票はつく。
封印札もつく。
戻し印もつく。
だからこそ、戻ってきた束は、最初に外側の封印から見る。
中身を信じる前に、箱が同じ顔で戻ってきたかを確かめる。
それが王家儀礼局の決まりだった。
私は封印札へ指をかけ、そこでわずかに眉をひそめた。
紐の結び方が、少し違う。
結び目の位置が浅い。
同じ人間が結び直したものではない。
「どうした」
レオンハルト殿下が問う。
「……この束だけ、触った人が違います」
私は紐を指先で持ち上げた。
「封を切られたわけではありません。ですが、一度開けて結び直した跡があります」
クラウディア次席儀礼官がすぐにこちらへ来て、束を覗き込む。
彼女の顔から、さっきまでの柔らかさが消えた。
「中を」
短い指示で十分だった。
私は招待状束を開く。
最初の数通は問題ない。
けれど、その下に差しかかったところで手が止まった。
宛名の家名が、二つだけ入れ替わっている。
しかも、その入れ替え先が最悪だった。
婚約相手側へ近づけてはいけない家と、逆に最優先で近づけるべき家が、そっくり差し替わっている。
「……差し替えられています」
私がそう告げた瞬間、書記室の空気がまた冷えた。
園遊会のときと同じだ。
誰かはまだ、こちらを崩そうとしている。