軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

『衛兵トビーと父の遺志』 - 8

辺境の町での騒動から、数週間が過ぎた。

初夏の風が、若葉の匂いを運んでくる。東門に、一人の衛兵が帰ってきた。

その足取りは、旅立つ前とは比べ物にならないほど力強い。纏う空気には、恐怖を乗り越えた者だけが持つ、静かな覚悟が宿っていた。

「ただいま戻りました。門番さん」

トビーはヨハンの前で立ち止まると、晴れやかな顔で言った。

「おかえり。……良い顔つきになったな」

「はい」と、トビーは一度、まっすぐにヨハンを見つめ、そして少しだけはにかむように続けた。「……あなたの言葉通りでした。『誰かを守るために掲げた盾が、自分自身を守る』……その意味が、少しだけ分かった気がします」

その言葉に、その深い瞳をわずかに細めた。

「……父上の、盾か」

「はい。父は英雄でした。俺がずっと軽蔑していた父は……ただ、仲間と、俺の未来を守るために盾を掲げた……たった一人の英雄でした」

彼は、自分の胸を、拳で、とん、と軽く叩いた。

「俺は、父の誇りを、この手で取り戻したい。ですが、それだけじゃありません」

トビーは、真剣な眼差しでヨハンを見据えた。

「あの町で戦った魔物たちは、ただの群れではありませんでした。ヘクトル卿の手紙にあった通り、何者かの明確な意志に操られていた。父が戦った二十年前と同じ、良くない何かが始まっています。俺は、このことを、他の町や村にも伝えて回らなければならないんです。誰かが、警鐘を鳴らさないと」

「……今度は俺が、誰かのための盾になるんです」

ヨハンは、満足そうに、深く頷いた。

「そうか。……ならば、もう何も言うまい。お前の道は、定まったようだからな」

「はい、いってきます。ヨハンさんも、お元気で」

ヨハンは、去ってゆくその背中に、これまでで最も温かい祈りを込めた。

「いってらっしゃい、トビー。お前の盾が、父の誇りとなることを祈っている」

新たな旅へと踏み出していったトビーの背中が、雑踏の中へと消えていく。

その、確かな足取りを見届けた直後、ヨハンの脳裏に、ひときわ力強い声が響いた。

《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが52に上がりました》

《獲得済みの能力『見送った者の携える道具が、ほんの少しだけ劣化しにくくなる』が【強化】され、能力名が『見送った者が守るために掲げるものが、その意志の輝きに応じて穢れにくくなる』へと変化しました》

《旅人の魂の変革を観測。獲得した能力が、世界の『理』の一つ、【継承の理】へと【昇華】しました》

ヨハンが、その言葉の重みを静かに噛みしめていると、門の前に、新たな二つの影が、音もなく立っていた。

いつの間に現れたのか、まるで陽炎から滲み出たかのように。

一人は、銀髪のエルフ、レノーア。

そしてもう一人は、小柄なドワーフの少女、ウル。

ヨハンは、その二人が、ただの旅人ではないことを、その気配だけで悟っていた。

「……『古の人』。エルフ殿と、ドワーフ殿か。この東門に、何か御用かな」

ヨハンの静かな問いに、レノーアは答えなかった。ただ、隣に立つウルに、訝しげな視線を向ける。

「ウル、本当にこの人間に意味があるの?」

その問いを、ウルは静かに制した。彼女はその年若い容姿にはそぐわない、老賢者のような瞳で、じっとヨハンを見つめていた。

「黙りなされ、レノーア。この爺さんは、ただの人間ではない。その祈りは、世界の理に干渉する。……そうであろう? 門番殿」

ウルの声は、澄んだ鈴の音のようでありながら、その響きには、彼女の見た目とはそぐわない、何百年もの時を経たような重みと、静かな威厳が宿っていた。

「……さあ、どうだかな。俺は、ただ旅立つ者の無事を祈っているだけだ」

ヨハンが静かに答えると、ウルは、先ほどトビーが去っていった方角に、一度だけ視線を向けた。

「あの小僧のような『刹那の輝き』を、無駄にしたくはないからの」

その言葉と共に、ウルは、レノーアに、ほんの一瞬だけ、何かを言いたげな、哀れむような視線を向けた。だが、それはすぐに、いつもの深い叡智を湛えた瞳に戻っていた。

レノーアは、ウルのその視線にも、言葉の真意にも気づかぬまま、覚悟を決めたように、ヨハンに向き直った。

「門番殿。我らを見送っていただきたい。……世界の運命を賭けた、この旅を」

ヨハンは、目の前に立つ二人の『古の人』を、その目に焼き付けた。

友の影を追う者。

世界の真実を知る者。

彼の全身から、これまでにないほど、強く、そして厳かな祈りの光が、静かに立ち上った。

「―――いってらっしゃい。レノーア殿、ウル殿。……あなた方の旅路の果てに、この世界が、あるべき姿を見出さんことを」

ウルは、もう一度、深く、ヨハンに頭を下げた。レノーアは、腕を組み、そっぽを向いていたが、その頑なだった肩の力が、ほんの少しだけ、抜けたのを、ヨハンは見逃さなかった。

二人は、ゆっくりと踵を返すと、他の旅人たちに混じり、東へと続く道を、ただ、静かに歩き始めた。ウルの衣に付けられた銀の装飾が、チリン、と一度だけ、澄んだ音を立てる。

やがて、その二つの小さな背中は、街道の先の陽炎の中に、ゆっくりと溶けるように、見えなくなっていった。

後に残されたのは、いつもの東門と、ヨハン一人。

彼が見送った先、東の空はまだ初夏の青空が広がっている。

だがヨハンの胸には、これまでにない奇妙な胸騒ぎが広がっていた。まるで世界のどこかで、巨大な何かが軋みを立てて動き出したような、不吉な予感。

その予感を裏付けるかのように、それまで穏やかだった風がにわかにその向きを変え、湿った冷たい空気を運び込んできた。

見れば西の空の彼方から、見たこともないほど黒く分厚い雨雲が、凄まじい速さで押し寄せてくる。

ヨハンは門の前に立ち尽くしたまま動けなかった。

彼はただ祈った。

今しがたそれぞれの覚悟を胸に旅立っていった、若者たちのために。世界の運命をその肩に背負った、『古の人』たちのために。

やがて、大粒の雨が地面を叩き始めたが、彼はずぶ濡れになるのも構わず、ただ祈り続けていた。

《スキル【見送る者】が発動しました。対象者レノーア、及びウルに、祝福『その旅路が、世界の理から、ほんの少しだけ、見失われる』を付与しました》

「ヨハン爺さん! 何やってるんだ、ずぶ濡れじゃないか! もう交代の時間だ、早く中に入れ!」

いつの間にか隣に立っていた若い同僚が、驚いたように叫んだ。かつて、彼のスキルを「ゴミ」と揶揄した、その男だった。

ヨハンは、ゆっくりと、同僚の方へと向き直った。

その深い皺の刻まれた顔は、これまでにないほど、厳しかった。

「……ああ」

ヨハンは一度、同僚の言葉を肯定するように頷くと、再び荒れ狂う天を仰いだ。

ヨハンは、門にそっと手を触れた。いつもなら、旅立つ者たちの希望に満ちた声が染みついているはずの古い石が、今は、嵐の前の不吉な静けさと、これから訪れるであろう者たちの悲鳴に、ただ、冷たく濡れているような気がした。