軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第21話 私のヒーロー【後】

「信じられん」

井戸の底で、治療を終えたクリシュナは、ただ呆然と言った。

えぐれた脇腹も、吹き飛んだ左腕もすっかり綺麗になっている。

何度か指を閉じたり開いたりしながら、感嘆と驚嘆が混じり合った口調で、再び同じ言葉を繰り返した。

「信じられん……」

やがて、その青い瞳が、隣で疲れた様子で座っている男に向けられる。

「この驚異的な治癒魔法——ゼノス氏こそが"仲裁者"だったのか」

「いや、そう言っただろ。たまには人の話を聞け」

「しっ、しかし、到底信じられるものではあるまい。防護魔法だけでなく、治癒魔法も極めているなど、魔法学の常識では考えられない」

「だから、別に極めてないし、治癒も防護も能力強化も身体の機能を強めることなんだから、基本は一緒だろ」

「さっぱり理解できん。というか、能力強化魔法も使えるのか」

壁を背にして、腕を組んだゾフィアが横から言った。

「別にいいじゃないか、< 石(ストーン) の 淑女(ローズ) >。あんたが信じようが信じまいが、目の前で起きたことが真実なんだ。これであんたの石みたいに凝り固まった頭も、ちょっとは柔らかくなったんじゃないかい」

「そ、そうかもしれないが……」

クリシュナはしばらく口を閉じた後、ゾフィアに向かって頭を下げた。

「……すまなかったな。今回の件、間違っていたのは私だった。貴公が正しかった」

「なんだい、調子くるうじゃないか。頭でも打ったのかい」

「頭は打ってないが、腕が吹き飛んで、それが元に戻ったんだ。多少は変わるさ」

近衛師団の副師団長は、少し寂しそうに言った。

「私は、完璧なヒーローなどではなかった……。ゼノス氏のような者こそ、完璧なヒーローだと思い知った」

「あのな、俺のどこが完璧なヒーローだ」

ゼノスは頭をぼりぼりとかく。

「俺なんてガキの頃は残飯あさってぎりぎり生きてきたし、まともな教育は受けてないし、冒険者パーティではひどい目に遭うし、そもそもライセンス持ってない……」

「す、すまないっ。変な地雷を踏んでしまったようだ」

戸惑うクリシュナに、ゼノスは浅く息を吐いて言った。

「完璧なヒーローなんてそもそもいないんだよ。何かのために戦っている奴ってのは、嫌でも傷を負うもんだ。だから、俺みたいな治癒師がいる」

「ゼノス氏……」

「まあ、受け売りの言葉だけどな」

ゼノスはゆっくりと後ろを振り返った。

「ただ、どれだけ傷ついても、どれだけボロボロになっても、あいつらにとっては間違いなくお前はヒーローだと思うぞ」

「あいつら……?」

鉄格子の奥では目隠しをされた子供達が、不安そうに顔をきょろきょろさせている。

急に静かになったことで、前の女の子が恐る恐る言った。

「ね、ねえ、どうなったの? あの人は、正義のヒーローはどうなったの?」

「……っ!」

クリシュナは青い目を見開き、震える唇を動かす。

「し、しかし、私は結局何も……」

「お前が真っ先に動いたんだ。情報が不確実な中で、貴族という権力に抗って、それでも待っている子供がいるかもしれないと、暗闇に踏み出したんだろ。俺達は単なるついでだ。この事件のヒーローはお前しかいないよ」

「私が……私、は……」

クリシュナはよろよろと立ち上がり、鉄格子に近づいた。

「み……みんな、大丈夫だ。私はなんとか無事だ。すぐに助けるから、もう少しだけ待っていてくれ」

子供達からわっと喝采が上がる。

ありがとう、ヒーロー! との言葉に、クリシュナは目を固く閉じ、胸をぐっと押さえた。

「母も……そうだったのだろうか……」

「……?」

「私は、母のことをずっと哀れな被害者だと思っていた。だけど……だけどっ、母はいつも目を輝かせて手をかけた料理を貧民街の子供に届けて……」

「……そうだな。お前が今子供のヒーローになったみたいに、きっと誰かのヒーローだったと思うぞ」

あぁ、とクリシュナは呻く。

ずっと、ずっと完璧なヒーローであろうとした。

だけど——

そうだ。

そうだったのだ。

「私の母は……不器用で、慌て者で、怒りっぽくて、忘れ物が多くて、弱点だらけの人だった。それでも……それでも、確かに——」

胸に置いた手を握りしめたまま、クリシュナは絞り出すように言った。

「間違いなく、私のヒーローだったんだ——」

青い瞳の端から、一筋の雫がこぼれ落ちる。

涙はあとからあとから溢れ出し、乾いた地面にしみこんでいった。

壁を背にしたゾフィアが、井戸の外に耳を澄まし、軽く肩をすくめる。

「先生、そろそろ近衛師団が騒ぎを嗅ぎつけてくる頃だよ」

「ああ、日陰者はずらかるか」

ゼノスはゾフィアの後に続き、クリシュナを振り返る。

「それじゃあ、残りはお前の仕事だ。頼んだぞ、ヒーロー。金は後できっちり払いに来いよ」

「ちょ、ちょっとだけ待ってくれ」

クリシュナは慌てて涙を拭い、ゼノス達を呼び止める。

「一つだけ聞かせてくれないか。どうして私を助けに来たんだ」

自分は随分と失礼な真似をした。

こんな危険を冒してまでやってくる義理はないはずだとクリシュナは言った。

足を止めたゾフィアとゼノスは、互いに顔を見合わせる。

「あたしは放っておくように言ったんだけどねぇ、先生がどうしてもって言うからさ。危険手当は出すからカレンドール卿の屋敷に連れて行ってくれって。あんたのことは嫌いだけど、先生に頼まれたら嫌とは言えないからねぇ」

「ゼノス氏が? ゼノス氏はどうして……?」

クリシュナにまっすぐ見つめられ、ゼノスは静かに答えた。

「……宿泊代」

「え?」

「お前、ベッドを貸した時に謝礼は払うって言っただろ。こっちは神経すり減らすわ、その間他の客は取れないわで、大変だったんだぞ。俺はサービスの対価はきっちりもらうことに決めてるんだ。お前が無茶して死んだら取り立てができないだろ。さっきの治療代と合わせて、耳揃えてしっかり払えよ」

「……」

クリシュナは青い瞳をぱちくりと瞬かせる。

宿泊代を取り立てるため。

これだけの危険を冒して、警備の厳しい特区の貴族邸にやってくる。

何をどう考えても、割に合うはずがないのに。

どこまで本気で言ってるのかわからないが、これがゼノスという男なのだろう。

「ふっ……」

思わず口から吐息が漏れる。

「ふふっ……ははっ……ははははっ」

意図せず、喉の奥から次々と息が漏れてくる。

その姿をゼノスとゾフィアが少し驚いたように見つめていた。

「……なんだ。お前、笑えるじゃないか」

「——!」

クリシュナは口を押さえたまま、呆然と立ちすくむ。

母が死んだ日から、笑うことをやめてしまった。

当初は、怒りと悲しみのあまり笑うことなどできなかった。

近衛兵になった後は、悪人を殲滅するまでは笑っている暇などないと思っていた。

そうして、いつしか笑いかたを忘れてしまった。

「そうか……。私は……今、笑っていたのか……」

「まあ、だいぶ笑顔がぎこちないけどな」

「むしろ余計に不気味さが増したねぇ」

二人の揶揄に、クリシュナはムっとして言い返す。

「し、仕方ないだろう。笑うのは久しぶりなのだ。笑顔が下手なのは、私の唯一の——いや……」

クリシュナは目の端の涙を拭いながら、口元を優しく綻ばせてこう続けた。

「色々ある弱点の、一つだ」