作品タイトル不明
003_永禄三年(1560年) 野良田の戦い1
天に陽が昇り切った頃。戦の火蓋はついに切られた。
手始めに磯野員昌、百々盛実両名が率いる先発隊が瞬く間に宇曽川を渡り、六角軍先鋒の蒲生定秀の部隊と激しくぶつかった。
「進めーい! この戦で浅井は天下に名乗りを挙げる! 我らはその先駆けとなるのだ! 臆して怯むな! 前に出よ!」
員昌の怒号と共に磯野隊は宇曽川へ殺到し、みるみるうちに敵勢を押し込んで行く。
真夏の宇曽川は水位が下がり、徒歩で渡れる場所も多い。兵が駆け抜ける度にあちこちで水しぶきが上がり、その度に鉄のぶつかり合う甲高い音が辺りに響き渡る。
「磯野隊に負けるな! 進め! 進めーっ!」
負けじと百々盛実も声を上げる。磯野隊に追いつき追い越せとばかりに前進し、両者は蒲生隊の前衛をみるみるうちに突き崩していった。
開幕は士気に勝る浅井軍が優勢。磯野隊、百々隊共に一気呵成に押し込んで、蒲生隊はあっという間に押し込まれていった。
蒲生が押し込まれ、戦線が崩れたところへ更に後詰の部隊が到着。乱れた敵の戦線を奥へ奥へと押し込んでいく。
戦慣れした赤尾清綱の采配により味方は安定感のある布陣を見せ、戦況は有利に運んでいるように見えた。
しかし、敵先鋒の蒲生隊も負けてはいない。磯野隊、百々隊に一旦は押し込まれたものの、そこからしっかりと堪えて押し返し始めたのだ。
「流石に崩れませんな」
そんな前線の状況を本陣で聴いた清綱は静かに唸った。
「首尾は?」
長政が問うと、「はっ」と返事して続ける。
「初戦は士気に勝る我が方が優勢。しかし蒲生隊はしっかりと堪えた様子。あわよくば始めの突撃で崩しておきたかったのですが、そう上手くは行きませんな」
二度三度と訪れる前線からの報告を受け取って、清綱はそれらを冷静に処理する。
確実に情報を伝達するため、前線からは複数の伝令が別々の経路を通って情報を本陣に持ってくる。そのため場合によっては既に聞いた報告内容が、別の報告と前後してやってくることも珍しくない。
それら 錯綜(さくそう) する情報に振り回される事なく、正確に時系列を追って前線の状況を把握できる清綱は流石歴戦の猛者と言った様相だった。
「勝てるのか?」
しかしそれこそが最も重要な部分だ。不安になりながら問うと、現状で一番戦況を理解しているであろう彼は眉間にしわを寄せる。
「何とも。こちらの士気は高く、敵方は数で勝る分油断しております。また此度の戦もこちらは事前に備えられたのに対して敵方は不意を突かれた形。そういった点では我が方有利にござる。しかし――」
本陣に広げられたこの辺り一帯の地図を清綱は見下ろす。
「――しかし、元々我が方は数に劣っております。そのうえ、浅くなっているとは言え宇曽川を越えねばならず、地の利は敵方にござる。正直、勝ちには一手足らぬというのが本音にございます」
「左様か……ままならぬな」
史実では、野良田の戦いは浅井の勝利に終わっている。しかし、史実でうまく行ったからと言って必ずしもトントン拍子で進む訳ではないらしい。史実の浅井長政は、ここから一体どうやって六角に勝ったというのだろうか。
「……やはり、朝倉に援軍を頼むべきだったやもれしませぬ」
不意に漏れた清綱の呟き。それを長政は聞き逃す事なく、即座に否定した。
「いや、それだけは駄目だ」
「しかし、数の不利は初めからわかっていた話。朝倉に援軍を求めれば、少しはマシに……」
「散々話したはずだ清綱。この一戦は、我ら浅井が真に独立するための最初の一戦。その最初の戦いで朝倉に助けを求めては、これから庇護を求める相手が六角から朝倉に変わるだけだろう」
「それは……その通りでございますが……」
「六角にはこの際はっきりとわからせる。我ら浅井が、六角の下に収まるような家ではないのだと。そんな戦いで朝倉に助力を求めては意味がない。……例え、私の首が落ちる事になったとしてもな」
この野良田の戦いにおいて唯一長政が我を通し、家臣らの意見を退けたのが、この朝倉家の不介入だった。
援軍を求めるべきとする彼らをひたすら説得して、最後は自分の首をかけてまで押し留めたのである。
当主とは言え、未だ齢十五の小僧にそこまで言われて、それでも他家に助けを求めるような腰抜けは浅井家には一人もいない。
つい、と言った様子で漏らした清綱も、長政の強い言葉に改めて決意を固めて「不要な事を申しました」と頭を下げたのだった。
――とはいえこれは、あくまで建前である事は言うまでもない。
浅井家は祖父、浅井亮政の代より、浅井家は幾度も隣国 越前(えちぜん) を治める大名、朝倉家の助力によって北近江を統治してきた歴史がある。そのため、清綱を始めとした古参の者たちは朝倉家に多大な恩義を感じている。
しかしその恩義こそが、後に朝倉と織田が対立した折、浅井を織田と敵対させるに至るのだ。そして織田との対立は即ち、浅井の滅亡に直結する。
未来を知る長政としては、例えどんな場面であったとしても、朝倉に借りを作る訳には行かなかったのである。
……そんな事を考えていると、ふっと小さく笑う声が聞こえた。
「どうした、清綱」
他でもない赤尾清綱である。
「いえ、頼もしくなったものだと思いましてな。先ほどのお言葉――天下の者どもに、浅井の戦振りを知らしめる。この老骨、久々に年甲斐もなく血がたぎっておりますわ」
「お主のようなギラギラした目の年寄りがいてたまるか」
清綱は今年で四十六。現代ではまだまだ働き盛りだが、この時代の者たちは現代より十年から二十年分ほど老けているため、初老と言ったところだろう。
そろそろ孫がいてもおかしくない歳だが、初孫はまだらしい。
そのせいか清綱は、時々長政のことを孫を見るような目で見ているような気もする。
「しかし、やはり我らの目に狂いはありませなんだ。若様は読み書き算術はもちろんの事、鷹狩りに碁に武芸にと、幼き頃から多芸であられましたからな。あの才を目の当たりにした時、我らがどれほど若様に期待したことか」
「若様はやめろとあれほど……その才のお蔭で、何かと面倒も多かったが」
「はっはっは。周りに疎まれるのは才を持つ者の定めでございましょう」
「そんな下らない理由で、宿敵の当主の子に目を付けられた面倒がお主にわかるのか」
忌々しげに表情を歪めれば、清綱は一層声を上げて笑った。
「義賢の子、 義弼(よしすけ) は悪い意味で有名でございますからな。若様と歳が近い分、張り合いたくなるのでしょう。何せ若様はあの義賢をして、義理の息子にしたがるほどの才覚にござりますれば」
「……良い迷惑でしかないわ」
長政の婚姻には様々な意図があったとされるが、どうやら敵の総大将である六角義賢としては、幼い頃から多彩な才を見せた長政を六角家に組み込みたい意図があった様子。
あわよくば自身の子、 義弼(よしすけ) の補佐をさせ、南近江の統治を安泰としたかったのかもしれない。
そんな期待があった分、裏切られた際の怒りは大きかったのか、小夜との婚姻が破談になってからは怒り狂っていたと伝え聞くが。
そこへ、次々と足軽が転がり込んできた。
「報告致します! 敵勢、後詰が到来し百々隊が崩れました!」
「報告! 百々隊の後退に巻き込まれ、磯野隊が崩れております!」
「ご報告! お味方総崩れ! 敵が次々と宇曽川を渡っております!」
届く報告は味方の形勢不利を伝える物ばかり。
それらを聞き遂げて次々指示を飛ばす清綱の隣で、座っているばかりのお飾り総大将である長政には少しずつ焦りが募っていった。
――このままで本当に大丈夫だろうか。
既に戦は始まり、打てる手はずは全て整えた。だというのに、どうしようもないもどかしさが残るのも事実。
今になって、こうしていればよかったのではないか、と考えがいくつも脳裏をよぎっていくのだ。
『 謀(はかりごと) 多きは勝ち、少なきは負ける』とは、兵法で有名な孫氏や、 謀神(ぼうしん) と謳われた知将、毛利元就の言葉だ。
つまり戦とは、戦いが始まる頃には既に終わっている。ここにきて、彼ら偉人らの言葉の意味を長政はぐっと噛み締めた。
戦いが始まってからでは何もかもが遅いのだ。それまでに、どれだけ備えられるかが勝利に繋がるのだ、と。
初陣にして、長政は己の無策を悔いる。
家臣らに言われるがまま起こしたこの戦。初陣ということもあって緊張こそしていたが、心のどこかでは史実で勝利したという事実に油断していたように思う。
戦の仔細は全て清綱を始めとした家臣たちに任せていたし、何も知らない自分が口出しするよりは良いだろうと言い訳していたがそうではなかったのだ。
じりじりと、夏の陽射しが長政の頬に嫌な汗を伝わらせる。甲冑姿の長政は半ばヤケクソ気味にその汗をぐっと拭い、嫌みなほどに青い空を仰いだ。
――私に一体、何をしろと言うのだ!
一人で悶々と考え込んでいると、清綱の声が耳に届いた。
「後詰の者らを呼べ。磯野隊、百々隊の支援に当たらせる。急げ!」
清綱が虎の子として残していた後詰の隊。彼らを使うという事は、いよいよ浅井の敗色が濃厚になり始めたという事だ。
瞬く間に辺りは騒がしくなり、負傷して戦えなくなった者たちが次々に運び込まれてくる。
――まさか、負けるのか?
史実では浅井が劇的な勝利を飾ったと記されていたはずのこの戦いで、まさかの敗色が見え始める。後詰として残されていた将たちが続々と陣中に集まる中、長政の焦りが最高潮に達し始めた、まさにその時だった。
視線を泳がせる長政の視界に不意に映ったのは、清綱へ報告を終えた伝令たちが再び前線へ駆けて行く姿だった。
他の歩兵よりも目立つように 旗指物(はたさしもの) を背中に着けて、旗を靡かせる伝令たちは馬に跨り再び前線へと駆けていく。
そんな彼らの背中を見送って、長政にはある考えが浮かび上がった。
「……そうか」
長政にはまだ、今からでも出来ることがたった一つだけ残されていたのだ。
途端、おもむろに立ちあがった長政は、そのまま兵士たちを押しのけるように本陣の外へと駆け始めた。
「若!? いずこへ!」
突然の長政の行動に誰もが呆気に取られたが、長政はいざという時のために残されていた大将用の馬に跨るなり大声で叫んだ。
「私はこれから敵本陣に向けて突撃する! 本陣は清綱、お主に任せた! 他の者は私に続け! 六角義賢の首を獲るぞ!」
言うが早いか、次の瞬間には長政は単身で突撃を開始してしまう。もちろんこれに驚いたのは本陣に控えていた将兵たちだった。
護衛の一人もつけずに総大将が単身で突撃をかけるなど前代未聞だ。味方総崩れの知らせに沈んでいた空気が一気に掻き消え、本陣は途端に喧噪に包まれる。
「あ、赤尾殿、いかにする!?」
「若様を 討死(うちじに) させては浅井家臣団末代までの恥ぞ! 各々すぐに兵を率いて後を追って下され!」
「承知!」
「直経は騎馬兵を!」
「相分かった! かようなところで新九郎様を討死させてたまるものか!!」
そうして瞬く間に編成しなおされた兵たちはすぐさま続々と本陣から駆けていった。
一方で次々ともたらされる報告を処理しながら、清綱も激を飛ばす。
「堪えよ! ここを堪えれば勝機はある! 磯野隊、百々隊を下げて部隊を再編させるのだ!」
それぞれの想いと共に、野良田の戦いはついに佳境に入ろうとしていた。