作品タイトル不明
002_永禄三年(1560年) 始まりの日
歴史は、 史実(・・) の通りに進んでいる。
桶狭間の知らせを受けて、新九郎はそう結論付けた。
世に有名な桶狭間。織田信長の覇業の始まりとなる伝説の戦い。
本来起こり得ない奇跡が今再び起きたともなれば、それは偶然ではないはずだ。
つまり自分は今、 過去(・・) に起きた歴史を歩んでいる。
近江が滋賀、淡海が琵琶湖と呼ばれる時代を知る新九郎にとって、今という時間は遥か過去の歴史の一幕だ。
ならば、次なる戦いは――
「――郎様、新九郎様。物見からの知らせがございます」
まどろみの中、男の声がどこかから聞こえた。やがて瞼に光が刺して、新九郎はゆっくりと意識を取り戻した。
どうやら、いつの間にか寝入ってしまったようだった。
ゆっくり瞼を持ち上げて辺りを見渡せば、鎧兜を着込んだ武者達がずらりと並び、その誰もが新九郎に向き直っていた。
辺りでは真夏の蒼天の下で具足を身につけた雑兵達が駆けずり回り、誰もがその額に玉のような汗を滲ませている。
豪雨はとっくに降り止んでいた。
「……夢、か」
先ほどまで鳴り響いていた雷雨の音は、既に遠い記憶の話になっていた。
代わりにうだるような暑さと日差しが新九郎を襲い、汗が額から滲んでいる。周りの者たちがそうしているように、新九郎もまた手の甲で汗を拭った。
季節は夏。あの桶狭間の奇跡から 二月(ふたつき) の時が流れた。
この時代(・・・・) の気温は 現代(・・) よりも幾分も低く、冷夏が幾度も起きるような気候なのだが、それでも今日という日はとびきり暑苦しかった。
よくもまぁこんな状態で座ったまま寝られたものだ。新九郎は下座に腰掛ける、自身より余程年上の者たちの姿を一瞥しながら思わず自重した。
初の出陣だ、きっと思っていた以上に疲れていたのだろう。
そんな暑苦しい熱気を冷ますように風が吹き抜けると、陣中のあちこちで三つ盛亀甲に 花菱(はなびし) があしらわれた旗が揺れる。
あれは新九郎が浅井家の当主となる事を決意した日、これまでの浅井と決別するために新たな家紋として定めたものだった。
そうしてようやく思い出したように先ほどの声の主に視線を向ければ、そこに居たのは浅井家重臣の一人である赤尾 清綱(きよつな) という男であった。
太い眉と凛々しい髭が目立つ、齢四十過ぎのこの男は、この場においては誰よりも戦をよく知る歴戦の猛者だ。
長政の右手側に腰掛けていた清綱は新九郎が目覚めた事を確認すると、もう一度「物見より知らせが」と告げて、シワが増えてきた顔を僅かに歪めて続けた。
「敵方の六角勢は 宇曽(うそ) 川を挟んだ先に陣を構えております。先鋒は 蒲生(がもう) 定秀(さだひで) 、敵総大将は六角 義賢(よしかた) 。敵兵の数は……約、二万」
報告を聞いた者達から、ぐっと息を呑む気配がした。
しかしそれも当然だった。北近江中からかき集めた味方は、それでも六千余りしかいないのだから。
「……左様か」
敵兵は三倍以上。新九郎は初陣にして、早くも危機を迎えていた。
◆――
後に 野良田(のらだ) の戦いとして歴史に記されるこの戦い。その発端は昨年の新九郎の元服の日まで遡る。
元々浅井家は、北近江を治めていた名家、京極氏に仕える家臣だった。
それを新九郎の祖父、浅井 亮政(すけまさ) が己の才覚と人脈を駆使して一代で重臣格までのし上がったのが浅井家台頭の始まりだ。
やがて京極氏のお家騒動に端を発する勢力争いの中で、亮政は北近江の国衆を従えて主家の京極氏を追い落とし、北近江における戦国大名としての地盤を築き上げたのだった。
しかし、そんな英傑である亮政が亡くなると後を継いだのは新九郎の父、浅井 久政(ひさまさ) だったが、彼は祖父とは似ても似つかないほどの戦下手だった。
当主就任後、祖父の代から 鎬(しのぎ) を削り続けていた宿敵、南近江の六角氏に無惨にも大敗した久政は、あろうことかその六角に臣従する道を選ぶ。
そしてそのために己の子を身ごもったばかりの正妻を人質として差し出し、反対する家臣たちを六角の力で押さえつけて回ったのである。
南近江の覇者であり、由緒正しい名家の血筋でもある六角氏に戦でも敗北したとなれば、元は牢人の出とも言われる浅井では彼らに勝つ術は残されていない。
祖父がたった一代で築き上げた栄華は、父がたった一代で貶めてしまった。
やがて人質に出された正妻は六角氏の元で子を産み、産まれた子はやはり人質として六角の元で育てられ、産まれてからの十四年間、一度も北近江の地を踏むことなく人質として過ごし続けることとなった。
その子こそ、他ならぬ新九郎である。
そして昨年、その新九郎がついに元服を迎えた。
元服とは成人式のようなもので、公式に大人として認められる式のことを指す。
男はその元服の際、大人として今後名乗っていく新たな名前を授かるのだが、新九郎に与えられたのは、浅井 賢政(かたまさ) という名前だった。
これは浅井家男子が代々受け継ぐ 通字(とおりじ) 、『政』の字に六角家の当主である六角 義賢(よしかた) から『賢』の字を貰った名前であったのだが……これが全ての発端だった。
浅井家に仕える者達からすれば、当主である久政が余りに不甲斐ないため仕方なしに従属しているだけで、六角氏への反感は未だ消えてなどいない。
だと言うのに次期当主たる新九郎の名に『賢』の字を貰う――即ち、浅井家は六角家の家臣であると暗に告げるようなその行為は、我慢続きの家臣たちをついに激昂させた。
そのうえ、この元服の日は同時に新九郎の婚約の日でもあったのだが、その相手もまずかった。
相手は、六角家重臣である平井 定武(さだたけ) の娘、 小夜(さや) 。
その小夜を、あろうことか六角義賢の養女として迎え入れ、そして新九郎に嫁がせたのである。
前述の名前に加えて、これは名実ともに新九郎を六角氏家臣に抱き込むための采配である事は間違いない。
例え小夜が新九郎と歳近く、また人質時代に幼馴染として共に育ったとは言え、浅井家の者達には我慢できることではなかったのだ。
だからこそ彼らは立ち上がった。六角の庇護を受け入れた久政を追放し、その子である新九郎を当主に据えて、ついに六角へ反旗を翻したのだ。
手切れの証として、まずは小夜を純潔のまま六角氏の居城、 観音寺(かんのんじ) 城に送り返すと、浅井は六角との対決姿勢を露わにした。
事ここに至り、もはや浅井に退路はない。
残された道は六角と雌雄を結して勝利するか、それとも 討死(うちじに) するか二つに一つ。
近江の二大勢力、六角と浅井の対立が浮き彫りになった事で近江中に緊張が走る中、南近江の守護、六角義賢もついに動いた。
浅井家の独立に呼応して、六角に反旗を翻した 肥田(ひだ) 城城主の 高野瀬(たかのせ) 秀隆(ひでたか) を討伐するため兵を挙げたのだ。
両者にとって、今こそ決戦の時だった。
◆――
「布陣は手はず通りに」
物見の報告を終えた赤尾清綱が、手際よく陣触れを出し始める。
出陣前に戦い方は既に決まっている。そのためこの場では、その際に決められたことを再確認する程度のことしかしない。
そして当然のように、初陣の新九郎はほとんど口を挟むことがなかった。
そのため誰がどこに布陣するか、どうやって戦うかと言った手筈は全て、熟練の清綱が取り仕切っていたのだった。
名目上は新九郎が総大将だが、実際のところは清綱が総大将を務めているに等しいのだ。
「先鋒は我らにお任せあれ。 蒲生(がもう) 如き、我らが散々に討ち取って見せましょうぞ」
難しい顔をして陣中に広げられた地図を眺めていた新九郎にそう声をかけたのは、磯野 員昌(かずまさ) という男だった。
彼は浅井家家臣の中でも屈指の猛将と謳われる人物だ。
「頼みにしているぞ、員昌」
「ははっ!」
どことなく居心地が悪かった新九郎にさりげなく声をかけられる、気の利く性格の員昌だが、それでも武将なだけあって荒々しさも忘れていない。
彼ならば必ずや何か戦果を挙げてくれそうな気がするのは、彼の史実での活躍を知る新九郎のひいき目ゆえだろうか。
「先鋒は手はず通り、磯野員昌、 百々(どど) 盛実(もりざね) の両名に任せる。残りは後詰として敵の崩れたところへ殺到せよ。他に、異存のある者は?」
一同の視線を集めていた清綱が最後に問うも、異論は出ない。
今更、敵の大軍を目の当たりにして怯むような臆病者は、浅井家家臣には誰一人としていないようだった。
彼らをぐるりと見回して納得したように頷いた清綱は、最後に新九郎に向き直る。
「新九郎様。お言葉を」
突然そう振られ、新九郎の視線が僅かに泳ぐ。
まさかここで話を振られるとは思わず、何も考えていなかったからだ。
しかし、泳がせた視線の先では先ほど名を呼ばれた者達が新九郎に注視している。戦の前に景気づけとなる言葉を発して欲しそうだった。
あまりのことに新九郎は少しばかり沈黙したが、それから少しして、一度頷いた彼はゆっくりと口を開いたのだった。
「―― 二月(ふたつき) 前、尾張の織田信長は、桶狭間にて今川の大軍を破り……天下にその名を知らしめた」
ゆっくりと。震える唇を誰にも悟られないように。新九郎は静かに言葉を紡ぐ。
「そして今……この 宇曽(うそ) 川の先では、我らの宿敵たる六角が、やはり大軍を擁し待ち構えている」
けして大きな声ではなかったが、戦の前の張り詰めた緊張の中で、新九郎の言葉は水を打ったように陣中へ響き渡った。
清綱を始めとした家臣らは、いつの間にか新九郎の言葉に吸い寄せられるようにして耳を傾けていた。
「敵の数は、我らの三倍。きっと苦しい戦いになるだろう」
弱気な当主の発言。しかし彼らは次の言葉を待つ。 この程度(・・・・) で弱気になるようなひ弱な当主ではない事を、他でもない彼ら自身が良く知っているからだ。
そして新九郎は、彼らの期待に応えるように声を上げた。
「しかし、その程度の事で忘れた訳ではあるまい。奴らの庇護に入り、奴らに蔑まれ、奴らに笑われながら冷や飯を食らったあの日々の事を。忘れた訳ではあるまい! 握りしめた拳に、食いしばった歯に伝った、血の味を!」
家臣達の表情に強い感情の色が浮かぶ。浅井家に連なる者と言うだけで苦しんだ日々は、彼らにとって屈辱以外の何物でもなかったはずだ。
六角との決戦は、誰もが夢にまで見た一戦だ。かつての当主、久政の元では成し遂げられなかった悲願なのだ。
だからこそ、誰もがその言葉を待った。
「ならば……ならばこそ我らは! 此度の戦の勝利を持って、浅井の名を天下に知らしめる! ――織田信長が、成したように!」
勢いよく立ち上がった新九郎の瞳に宿るのは、強い決意の炎だった。その炎は、家臣達に瞬く間に伝わり、強い想いを燃え上がらせる。
「手始めに、私は六角から与えられた賢政の名を捨てる! そして、桶狭間の奇跡を導いた織田信長にあやかり、名を 長政(ながまさ) と改めよう! 我が名はこれより、浅井 備前守(びぜんのかみ) 長政である! なれば、浅井長政として最初の 命(めい) をここに発する!」
新九郎改め長政は、腰に下げた刀を引き抜いて天に掲げ、目が覚めるような大声を発した。
「我ら浅井の戦をここより始める! まずは高々、三倍程度の兵で勝ったつもりの六角に! そして、我らを知らぬ天下の者どもに! 浅井の戦振り、しかと知らしめる!!」
天に昇る日を背中にしたその姿は雄々しくもあり神々しくもあり、まるで日の神が長政の天下への飛翔を祝福しているようにも見えた。
そうして振り上げた刀を振り下ろし、長政は咆哮した。
「全軍開幕だ、出陣する!」
『オオーーッッ!!』
長政の声とともに、彼らは咆哮し一斉に立ち上がる。
この日こそ、浅井が再び立ち上がり、北近江に覇を唱える始まりの日であり。
同時に、一度は破滅を迎えた浅井長政の長い長い戦いの歴史が、新たに産声を上げる始まりの日となるのであった。