軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 一方その頃、王宮は地獄絵図

ルシアが婚約破棄宣言を受け、夜会用ドレスを引き裂いて王宮を爆走していった、その三日後。

王太子執務室は、すでに完全なる『野戦病院』と化していた。

「……なぜ、こんなことになっている?」

朝一番だというのに、王太子アーサーはすでに机へ肘をつき、こめかみを押さえていた。

彼の前には、うずたかく積み上げられた書類、書類、また書類。

右を見ても報告書、左を見ても申請書、正面を見れば外交文書の束、足元には決裁待ちの木箱が三つも放置されている。

しかも最悪なことに、そのどれもが彼にとっては恐ろしく『読みにくかった』。

いや、文字としては読める。自国の言葉なのだから。

だが、意味がまったく頭へ入ってこないのだ。

地方領主からの税制免除の陳情。騎士団からの予算要請。王都近郊の魔物発生報告。隣国との不可侵条約更新に関する事前確認文書。春期祭礼に伴う警備配置案。王立学園卒業式後の人事異動申請。

本来なら、こうした書類にはあらかじめ『簡潔な要約の付箋』が添えられていたはずだった。

「ここだけ確認し、署名をお願いします」

「こちらの優先順位が最も高いです」

「この案件は予算不足のため保留で問題ありません」

そんな風に、誰かが一目で分かるよう完璧に 整理(ソート) してくれていたのだ。

それが、ない。

ただの一枚も、ない。

「おい!」

アーサーは苛立ちを隠しもせず、机の前に控える文官へ怒鳴りつけた。

「なぜ要点の整理がされていない!? いつもなら、もっと見やすくまとめられていただろう!」

目の下に濃い隈を作った年配の文官は、一瞬だけ「正気でそれを言っていますか?」という顔をした。が、すぐに恭しく頭を下げる。

「殿下。これが、本来の未処理書類の形でございます」

「は?」

「これまでは、ルシア様が殿下のお目通し用に、毎夜徹夜で個別に整理しておられましたので」

「……何?」

アーサーは不快そうに眉をひそめた。

何を言っているのだ、この男は。

ルシアが? あの高慢で、可愛げがなくて、何かにつけて自分へ理詰めで意見してきた婚約者が?

こんな地味で細かな書類の整理など、やっているはずがない。

(どうせ、下働きの者にやらせて、自分の手柄顔をしていただけだろう)

そう一蹴しかけて。

だがアーサーは、ここ数日、妙に自分の周囲の調子が悪いことを思い出した。

出されたお茶の温度が気に入らない。必要な過去資料がすぐに出てこない。会議へ行けば、準備されているはずの根拠データが足りず他省の長官から嫌味を言われる。

しかも文官たちは揃って「こちら、いかがいたしましょう」「至急、殿下のご決裁を」「この文面の解釈についてご指示を」と、以前よりやたらと細かい判断を求めてくる。

そう。何もかもが、恐ろしく“手間”なのだ。

「……たかが整理だろう。お前たちが今までと同じようにすればいいだけではないか」

「恐れながら」

年配の文官は実に穏やかな声で、しかし逃がさぬ調子で言った。

「今までは、関係各所への事前照会、内容の重複確認、緊急度の仕分け、外交文書の草案作成、過去判例の抽出まで、すべてルシア様がお一人で『裏処理』なさっておりました」

「…………」

「つまり、殿下のお手元へ届いていた時点で、政務の『九割』はすでに完了していたのでございます」

アーサーは言葉を失った。

そんな馬鹿な。そんな国家の根幹に関わる裏仕事を、いちいちあの女がやっていたというのか。

いや、しかし――だからこそ、これまで自分は執務を「難なくこなせる優秀な王太子」だと勘違いできていたのか?

(……ッ)

ほんの一瞬だけ、背筋に冷たいものが走る。

だがアーサーはすぐに、その不快な感覚を乱暴に振り払った。

馬鹿馬鹿しい。

たかが婚約者が少し手を回していただけで、王太子たる自分の政務が滞るはずがない。

第一、ルシアはあの夜、ショックのあまり発狂してドレスを引き裂き、泣きながら去っていったのだ(※完全にアーサーの脳内補完である)。

どうせ今ごろは、己の愚かさを悔いて部屋に引きこもっているに違いない。

(そうだ。どうせすぐに泣きついて戻ってくる)

少し締め上げてやればいい。反省の態度を見せ、ミレーヌへ土下座して謝罪するなら、修道院送りまでは免除して、また裏方の雑用係としてこき使ってやろう。

そう思えば、妙に胸のつかえも軽くなる。

「ふん。まあいい」

アーサーはわざとらしく椅子へ深くもたれた。

「ルシアの件は、どうせ向こうから頭を下げて戻ってくる。それまでの辛抱だ。お前たちで適当に何とかしておけ」

「……承知いたしました」

文官の返事は、もはや絶望に近いほど乾ききっていた。

◇ ◇ ◇

その一刻後。

「アーサー様!」

甘ったるく弾んだ声とともに、執務室の扉が開いた。

淡い桃色のドレスに身を包んだミレーヌが、花が咲くような笑顔で入ってくる。両手には、銀の盆とティーセット。どうやら自らお茶を運んできたらしい。

「ミレーヌ」

先ほどまでの苛立ちが、少しだけ緩む。

やはりミレーヌはいい。ルシアと違って愛らしく、素直で、自分を心から敬い、こうして気遣ってくれる。王太子妃に必要なのは、男のプライドを折るような冷たい有能さではなく、癒やしと優しさだ。アーサーは改めてそう確信した。

「お疲れでしょう? 私、何かアーサー様のお力になりたくて……」

「はは、気遣いは嬉しいが、お前に難しい政務は――」

「できますっ!」

ミレーヌはきゅっと愛らしく拳を握った。

「私だって、アーサー様の婚約者候補ですもの! ルシア様なんかにできて、私にできないことなんて絶対にありません!」

……その言葉に、執務室の隅に控えていた文官たちが一斉に『この世の終わり』を見たような目をして顔を伏せたのを、アーサーは見なかったことにした。

「そうか。なら、少し手伝ってもらおうかな」

「はいっ!」

ぱあっと顔を輝かせるミレーヌ。

アーサーは、どこか得意げな気分になった。文官たちに「ほら見ろ」と言いたかった。ルシアがいなくとも、自分の隣には真実の愛で結ばれたミレーヌがいるのだ、と。

「では、この書類の束から、急ぎでないものを分けてくれ」

「分かりましたぁ!」

元気よく返事をすると、ミレーヌは机の上へずらりと並ぶ書類へ向かった。

その健気な姿を見て、アーサーはようやく淹れたてのお茶を口に含む。

……甘い。

とんでもなく甘い。

砂糖を入れすぎたという次元ではない。もはや『液状化した砂糖に茶葉の香りを乗せた何か』である。

「…………(甘ッ)」

だが、ここで顔をしかめるのは無粋だ。彼女は自分のために一生懸命淹れてくれたのだ。アーサーは男らしく耐えた。耐えたのだが、二口目はちょっと無理だった。

その時。

「あっ」

ミレーヌの、間抜けな声が上がった。

何事かと顔を向けた、その瞬間。

ぐらり、と銀盆が傾き。

たっぷりと注がれていた紅茶のポットが滑り。

琥珀色の激甘な液体が、見事に机の上へぶちまけられた。

「――なッ!?」

バシャァッ! と盛大な音を立てて、紅茶は書類の山へ降り注いだ。

外交文書。決裁待ちの報告書。騎士団特別予算案。

そして、その一番上にあったのは――。

「隣国との不可侵条約の更新草案だぞ!?」

アーサーが思わず立ち上がる。

だがもう遅い。高級な羊皮紙はじわじわと茶色く染み、インクは無惨に滲み、王家の仮押印まで見事にドロドロに溶けていた。

ミレーヌは顔面蒼白になり、わたわたと持っていたハンカチで拭こうとする。

しかし当然、そんなことをすれば被害は物理的に広がるだけである。

「ご、ごめんなさいっ、アーサー様! 私、そんなつもりじゃ……!」

「触るな! 余計に広がるだろうが!」

「ひッ……!」

ピタリ、と室内の空気が凍った。

アーサー自身、自分の怒鳴り声に一瞬驚いた。しまった、と思った時にはもう遅い。ミレーヌの大きな瞳には、見る間に涙が浮かんでいる。

「わ、私……やっぱりお役に立てなくて……」

「いや、違う。今のは……」

「ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」

わぁっ、と泣き出され、アーサーは反射的に頭を抱えそうになった。

目の前には、国家間の信頼に関わる紅茶まみれの重要文書。

横ではヒステリックに泣きじゃくるミレーヌ。

周囲の文官たちは、完全に「だから言わんこっちゃない」という死んだ目でこちらを見つめている。

地獄である。

「……すぐに清書しろ! 条約草案を何とか復元するんだ!」

「ですが殿下、元の注記と修正履歴が完全に滲んで読めません」

「そんなもの、文脈から推測しろ!」

「ルシア様が隣国大使と三日三晩かけて調整された繊細な最終文言でしたので、一言一句違えずに復元するのは――」

「だから、何とかしろと言っているだろうが!!」

アーサーの怒号だけが、虚しく執務室に響き渡った。

◇ ◇ ◇

その日の午後。

事態はさらに泥沼化していた。

ミレーヌを落ち着かせようと、アーサーは「簡単な仕分けだけでいい」と別の書類整理を任せた。

だが、彼女は『赤い印のついた書類は不吉だから後回しにした方がいい』という脳内お花畑な謎理論を発動させ、至急案件の束を丸ごと下段へ隠してしまったのだ。

おかげで。

「東部街道の橋梁補修要請が止まっております! このままでは流通が!」

「王都南門の警備交代表が未決裁です!」

「医務局から催促が三件!」

「祭礼の来賓席案に変更が反映されておりません! 貴族からクレームが来ます!」

文官たちの悲鳴が、あちこちから飛び交う。

アーサーは、午後だけで三度目の強烈な頭痛を覚えていた。

「なぜだ! なぜこんなことになる!?」

「殿下のご決裁が遅れに遅れているからです!」

「それくらい臨機応変に現場でやれ!」

「その判断と根拠を用意し、責任の所在を明確にしておられたのがルシア様でしたので!」

「またルシアか!!」

思わず机をドンッと叩く。

そうだ。何かあるたびに、皆が皆、親の顔よりルシアの名を出す。まるで彼女がいなければ王宮が回らないかのように。

そんなはずがあるものか。

(たかが婚約者候補の小娘だぞ!)

なのに、机の上の 混沌(カオス) は増すばかりで。文官たちの顔色は土気色になるばかりで。そして何より、アーサー自身が『どの書類から手をつければいいのか全く分からない』という致命的な事実に直面していた。

その時、控えの侍従が血相を変えて駆け込んでくる。

「殿下! 大変です!」

「今度は何だ!」

「第一騎士団より、今月分の追加予算の再申請が――」

「後にしろ! そんな脳筋どもの予算など!」

「ですが、先日の差し戻し理由が不明瞭だと、向こうのローデン隊長が怒鳴り込んできそうだと……!」

「知らん! 適当に文官に回せ!」

「その文官が、先ほどの外交文書の復元で全員手一杯で……ッ!」

アーサーは、ついに言葉を失った。

執務室はもはや戦場だった。いや、戦場の方がまだ指揮系統がある分マシだ。今ここにあるのは、終わらない書類の山と、絶望的な混乱だけである。

その凄惨な光景を見て、さしものミレーヌもおずおずと口を開いた。

「アーサー様……」

「何だ」

「その……ルシア様って、本当は、すごくお仕事ができる方だったのでは……?」

「……ッ」

アーサーのこめかみが、ピキリと引きつる。

その言葉は、今この場で、誰よりもミレーヌの口から聞きたくないものだった。

「できるから何だというんだ。性格は最悪だっただろう」

「そ、それは……」

「どうせあいつは、私の気を引くために大袈裟に消えたふりをしているだけだ。少しすれば、泣いて戻ってくるに決まっている」

「で、でも……」

ミレーヌが怯えながら言い淀む。

「今日、お茶汲みの侍女たちが噂していましたの。ルシア様、第一騎士団で働いているって……」

「は?」

アーサーは顔を上げた。

第一騎士団? あのむさ苦しい、剣と筋肉しか頭にない騎士団で? しかも、働いている?

一瞬、意味が分からなかった。

次に湧き上がったのは、猛烈にざらつく苛立ちだった。

「……馬鹿馬鹿しい」

「え?」

「あり得ん。あいつは公爵令嬢だぞ。あんな野蛮な騎士団など行くはずがない」

「でも、本当に……」

「どうせ私への当てつけだ! 噂を流して焦らせようとしているんだろう。くだらん小細工を!」

そう吐き捨てたものの、胸の奥のざらつきは消えなかった。

第一騎士団。王宮内でも最強の武闘派部署。

ルシアがもし本当にそこで働いているのだとしたら――。

「…………」

アーサーは、無意識に机の上の惨状を見下ろした。

滞る政務。決裁待ちの山。紅茶塗れの条約更新。追加予算の再申請。橋梁補修の遅延。

そのすべてに、ルシアの不在という巨大な穴が空いている。

(まさか、本当に……)

いや。認めるな。認める必要はない。

ルシアが少し事務作業に長けていたからといって、それで自分が困っているように見えるのはプライドが許さない。大体、彼女は未来の王妃なのだから、自分を裏で支えて当然だったのだ。

当然のことをしていただけの女に、今さら恩に着せるような真似をされてたまるか。

アーサーはそう思い直し、苛立たしげに立ち上がった。

「明日だ」

「殿下?」

「明日までに、この部屋を綺麗に片づけろ! 外交文書も予算案も橋梁補修も、全部だ! 私が本気を出せば、こんな程度どうとでもなる!」

文官たちは誰一人、すぐには返事をしなかった。

重苦しい沈黙が落ちる。

その沈黙が意味する『王太子の底知れぬ無能さへの絶望』を、アーサーだけが理解していなかった。

◇ ◇ ◇

その夜。

王太子執務室では、深夜になっても悲壮な灯りが消えなかった。

文官たちは死んだ目で条約の清書を続け。

侍従たちは差し替え書類の束を抱えて走り回り。

ミレーヌは「私にできることはないかしら」とウロウロしては邪魔になり、そのたびにそっと部屋の隅へ追いやられ。

そしてアーサーはというと、ようやく山の一角を崩した程度で、すでに肩で息をして現実逃避を始めていた。

机の上には、未処理の書類が残っている。

隣国との不可侵条約更新期限――残り五日。

王都近郊魔物討伐特別予算案――未決裁。

第一騎士団追加再編予算申請――至急。

本来なら、ルシアの手によって三日前にはすべて下処理が終わっていたはずの案件だった。

だが今は違う。

誰も優先順位を決められない。誰も全体を見通せない。誰も“どこから手をつければ国が回るか”を整理できない。

王宮はまだ、完全には崩壊していない。

だが。

その土台に、取り返しのつかない巨大な亀裂が入り始めていることだけは間違いなかった。

そして、その亀裂の中心にいる王太子アーサーは、なおも気づいていない。

自分がこれまで“空気のように当然に使ってきたもの”が、どれほど希少で、どれほど代えが利かない『国家の生命線』だったのかを。

その致死的な事実に気づき、彼が絶望の底に突き落とされる日は――もう、すぐそこまで迫っていた。