軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 推しの稽古はVIP席での極上エンタメ

第一騎士団副団長付き側仕え、ルシア・フォン・グランツ。

その肩書きが本部内で完全に既成事実となってから、さらに数日。

私は今、前世を含めた全人生において、もっとも充実した毎日を送っていた。

朝は副団長室の整備と予定確認。

昼は書類処理、備品管理、納入業者の再選定、魔法陣の構築。

夕方は各隊とのスケジュール調整。

夜はクライス様の執務補助と極上ティータイムの提供。

完璧である。

何が完璧かと問われれば、当然――『推しを合法的に至近距離で拝み倒せる生活』が、である。

(朝の推し、昼の推し、夜の推し……ッ! どの時間帯も顔が良い! 最高ですわね……!)

書類にペンを走らせる美しい横顔。報告を聞く時に伏せられる長い睫毛。立ち上がる時の無駄のない所作。歩幅、呼吸、声の低さ。

すべてが尊い。すべてが国宝級。

しかも最近では、私が差し出した資料を自然に受け取ってくださるようになったし、「茶を頼む」とあちらから要求されるようにもなった。

これはすなわち、信頼の芽生えでは?

(いえ、勘違いしてはなりませんわ、私。あくまで仕事で評価されているだけ。分かっています。分かっていますけれど……推しの生活ルーティンに私が自然に組み込まれているこの現状、あまりにもご褒美がすぎませんこと!?)

そんな、脳内で毎日ファンファーレを鳴らす至福の日々の中。

その日の午後、ローデン隊長が副団長室へ顔を出した。

「副団長、そろそろ訓練場へ」

「分かった」

訓練場。

その単語を耳にした瞬間、私のオタク・センサーがピクリと激しく反応した。

訓練場。

つまり稽古。

つまり、クライス様の剣技。

生で。

動く推しが。

見られる。

(――――ッッ!!)

心臓がトクン、と大きく跳ねた。

前世のゲーム内でも、クライスの戦闘スチルやムービーは圧倒的ナンバーワンの人気を誇っていた。無駄のない剣筋、氷のような静けさ、圧倒的な強さ。

それを今、この目で、生で、 現実(リアル) の距離感で拝める可能性がある?

……いや待って。業務中に「私も見学したいです!」などと言えば、不純な動機が丸出しである。

落ち着けルシア。仕事で行く口実があれば最高だが、なければ公爵令嬢の鉄の理性で我慢――。

「ルシア」

「は、はいッ!」

急に呼ばれて、声がひっくり返りそうになった。危ない。

クライスは椅子から立ち上がりながら、こちらを見た。

「訓練後に東部隊長との打ち合わせがある。資料を持って来い」

「……ご一緒しても?」

「そのために呼んだ」

(『ご一緒しても?』って無意識に食い気味で言ってしまいましたわーーー!!)

内心で頭を抱えたが、すでに遅い。

しかしクライスは特に気にした様子もなく、ただ必要な用件として告げただけだった。

うう。そうよね。私は“仕事で同行する有能な側仕え”であって、“浮かれてついていく厄介オタク”ではないものね。分かっておりますとも。

だが。

(やったああああぁぁぁッッ!! 動く推しの戦闘シーン確定キタコレ!!)

心の中の私は、両手にペンライトを持って全力のオタ芸を披露していた。

◇ ◇ ◇

第一騎士団訓練場は、今日もむさ苦しい熱気に満ちていた。

剣戟の音、掛け声、砂を蹴る足音。

そんな中を、私はクライスの半歩後ろについて歩いていた。

表情は「氷の淑女」のまま。内心は当然、カーニバルである。

(訓練場! 生の訓練場! つまり『日常を生きる推し』の解像度爆上がりイベント!)

副団長であるクライスが姿を見せると、訓練場の空気がピリッと引き締まった。

騎士たちが次々に姿勢を正し、口々に挨拶を飛ばす。

クライスは軽く顎を引くだけで応じ、訓練場中央へ向かう。

その背中があまりにも雄弁で絵になるので、私は危うくその場で拝みそうになった。

すると、すぐ近くにいた若い騎士が、そっと私へ話しかけてくる。

「ルシア様、こちらへどうぞ。日差しの当たらない特等席を用意してあります」

「……席?」

「はい。打ち合わせまで時間がありますし、ここが一番『副団長が見やすい』ので」

案内されたのは、訓練場の端に設けられた簡易観覧席だった。木製の長椅子に、日除け用の布屋根、おまけに冷たい水まで用意されている。

(な、何これ……関係者用VIP席……!?)

私が呆然としていると、若い騎士は少し照れたように笑った。

「いつも俺たち、裏方仕事で助けてもらってますから。それに、ルシア様が見てると皆、不思議と気合いが入るんですよね」

「なぜですの?」

「えっ、なんか……女神が見てるみたいな……」

おやまあ。

そう言われると少々くすぐったい。けれど悪い気はしなかった。

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えますわ」

私は上品に微笑んで一礼し、腰を下ろす。資料を膝に置き、訓練場中央へそっと視線を向けた。

そして、そこで。

私は、完全に息を呑んだ。

クライスが、騎士服の上着を脱いでいた。

「…………ッ」

いや、ちょっと待ってほしい。聞いてない。

副団長の騎士服姿がすでに致死量の格好良さであることは知っていた。だが、上着を脱いだ『稽古用の軽装』となると話は別だ。

肩から腕にかけての筋肉の線が、薄手のシャツ越しにはっきり分かる。

無駄のない体躯。引き締まった腰。剣を握る手の甲に浮き出る骨と筋。

そして何より、戦闘前の静かな殺気を帯びた横顔が――あまりにも、美しすぎる。

(む、無理……ッ!)

私は思わず両手で口元を押さえた。

(何ですのあれ……。もはや歩く芸術品では? なぜあの筋肉は美術館に収蔵されていないの? 王国の重要文化財として永久保存すべきでは!?)

前世で何度もスチルを見た。だが 三次元(リアル) の破壊力は桁違いだ。

布が揺れる。筋肉が躍動する。呼吸で胸郭が上下する。

存在の情報量が多すぎる。視神経から入る『尊さ』が致死量を超えている。

私の脳内で限界オタクが床を転げ回って悶絶している一方、外側の私はかろうじて優雅な微笑を保っていた。

耐えなさい、ルシア。あなたは公爵令嬢。そして今は副団長付き側仕えなのだから。鼻血など出したら即刻解雇よ。

訓練場中央では、ローデン隊長が木剣を肩に担いでいた。

「では副団長、本日は久々に一手お願いいたします」

「構わん」

「手加減してくださいよ?」

「保証はしない」

「うわ、冷たッ」

「始まるぞ!」「副団長の稽古だ!」

周囲の騎士たちからざわめきと歓声が上がる。

私は椅子の端をギュッと握りしめた。

(始まる……ッ! 瞬きすら惜しい!)

次の瞬間。

二人の身体が、同時に動いた。

鋭い踏み込み。低く唸る木剣。

――バァァンッ!!

空気を叩くような激しい衝突音に、私は思わず目を見開いた。

速い。速すぎる。

ローデン隊長も十分に強い。だが、それを受けるクライスの動きは、次元が違った。

必要最小限の歩幅。最短距離の剣筋。無駄を極限まで削ぎ落とした受け流し。

大きく動いているわけではないのに、相手の攻め手だけが次々と潰されていく。

(ひゃあああああ……!!)

心の中で黄色い悲鳴が上がる。

すごい。格好いい。尊い。何これ、最高。

体重移動、視線の運び、手首の返し、息を吐くタイミング――すべてが洗練されすぎていて、もはや一種の演舞だった。

「副団長、速っ!」

「ローデン隊長、押されてるぞ!」

周囲の騎士たちが叫ぶ。私も叫びたい。ペンライトを振りたい。

だが淑女としてそれは耐えた。耐えたけれど、膝の上で握った拳はブルブルと小刻みに震えていた。

(ああ……推しが、推しが戦っている……!)

前世の私は、深夜の満員電車に揺られながら、スマホの小さな画面でこの人を見て命を繋いでいた。

疲弊しきった社畜の心を救ってくれた、たった一つの光。

その本人が今、目の前で、誰より強くて、誰より美しくて、誰より真っ直ぐに剣を振るっている。

胸がいっぱいになる。

好きだ。本当に、この人が好きだ。

限界突破したクソデカ感情が、ふわりと胸の奥から溢れ出した、その瞬間だった。

ポウ……と。

私の指先から、ごく淡い銀色の光がこぼれた。

「……え?」

自分でも気づかないほど自然に。まるで息を吐くのと同じように、膨大な魔力が外へ漏れ出ていた。

高揚。感動。歓喜。

『推しへの尊さ』が理性の制御を飛び越え、幼い頃に骨の髄まで叩き込まれた“王妃候補の極秘支援術式”を無意識に発動させたのだ。

戦場で王を鼓舞し、身体能力と集中力を 極限(リミットブレイク) まで引き上げる高位補助魔法。

本来なら、複数の魔術師の厳重な管理下でしか使われない国家級の支援術。

それが今――完全に、一個人の『推し活の私情』で発動した。

「《戦華の 祝福(オーバー・ブースト) 》……?」

あまりのことに、自分の口から術名が零れる。

次の瞬間。

訓練場の空気が、爆発したように変わった。

クライスの周囲に、一瞬だけ淡い銀光が揺らめく。それはすぐに彼の身体へ溶け込むように消え――。

そして。

「ッ!?」

ローデン隊長の目が、限界まで見開かれた。

クライスの踏み込みが、今までとは明らかに違ったのだ。

速い、などというチャチな言葉では足りない。

空気を切り裂く音すら置き去りにした、文字通りの『神速』の一閃。

一歩で間合いを完全に消失させ、二歩目の時点で木剣は既に相手の剣を天高く弾き飛ばしている。

そのまま体勢を崩したローデン隊長の背後へ回り込み、首筋へ木剣がピタリと当てられた。

「なッ……!?」

訓練場が、シン……と水を打ったように静まり返る。

ほんの数秒。いや、一秒あったかどうかすら怪しい。

誰もが、今起きたことを理解できずにいた。

ローデン隊長がギギギ……と錆びた機械のように首だけ動かし、背後のクライスを見た。

「……今、何が、起きた?」

「俺にも分からん」

「副団長が分からないのは駄目じゃないですか!?」

遅れて、訓練場全体がドッとどよめいた。

「今の見えたか!?」

「見えねえよ! 消えたぞ!?」

「副団長、速すぎるって次元じゃねえ!!」

「いつの間に後ろ取ったんだ!?」

私はというと。

(や、やってしまいましたわーーーーーーッッ!!)

顔は淑女の微笑みを貼り付けたまま、心の中だけで絶叫と土下座を繰り返していた。

どうしよう。完全にやらかした。

『推しの尊さに当てられて、国家級のバフ魔法をうっかりぶっ放した』など、言い訳として最悪すぎる。

しかも効果がバグっている。いや、クライス様がもともと強すぎるから、掛け算で増幅幅がおかしくなっているのだ。

クライスは木剣を下ろしたが、その表情はいつもよりわずかに険しかった。自分でも身体の異常な変化を感じ取ったらしい。

蒼い瞳が、鋭く訓練場を見回す。

そして。

その視線が、一直線に私で止まった。

「…………」

「…………(スッ……)」←目を逸らす

終わった。私の人生、終わったかもしれない。

周囲の騎士たちも、その視線の流れを追って一斉にこちらを見る。

ローデン隊長が、ハッとした顔で私とクライスを見比べた。

「……ルシア様?」

「な、何かしら」

声が裏返った。いけない。明らかに動揺している。

クライスはゆっくりとこちらへ歩いてくる。

一歩、一歩。しかも稽古直後だからか、普段より呼吸がわずかに深く、首筋にはうっすらと色気のある汗が滲んでいる。

(近い近い近い近い!! 汗! 汗拭きイベント発生!? いや今はそれどころじゃない!)

やがて目の前まで来たクライスが、低い声で言った。

「今のは」

「……」

「お前か」

疑問形だったが、完全に確信している声音だ。

私は観念した。ここで誤魔化しても、この人には絶対に通じない。

私はそっと立ち上がり、スカートの裾を優雅に整えてから、深々と一礼した。

「……申し訳ございませんわ」

「やはりそうか」

「その、つい……」

「つい?」

「副団長の剣があまりにも素晴らしくて、うっかり……」

訓練場が、再び静まり返った。

何人かの騎士が「はい?」という顔をしている。ローデン隊長に至っては、口元をピクピクさせていた。

クライスだけが無言だった。

私は正直に(一部フィルターをかけて)続けるしかない。

「王妃候補教育の一環で、高位支援魔法を習得しておりましたの。通常は戦時の限定運用なのですが……感情が高ぶると稀に、無意識で漏れることがありまして」

「稀、であれか?」

「本日は少々、高ぶりすぎましたわね……」

「少々の範囲じゃねえだろ!」

ローデン隊長の的確なツッコミが入った。ごもっともである。

だが、騎士たちの反応は、徐々に別方向へ熱を帯びていった。

「え、じゃあ今の……ルシア様のバフ?」

「副団長に?」

「いや待て、あれ支援で済むレベルか?」

「完全にリミッター外れてたぞ……女神の奇跡じゃないか?」

ザワザワと広がる声。私は若干遠い目になった。

違うの。女神の奇跡ではなく、ただの『限界オタクのクソデカ感情』なの。

するとクライスが、不意に私へ手を差し出した。

「もう一度」

「…………はい?」

「今度は、意図してかけてみろ」

「えッ」

「制御できるか、確認する」

心臓が大きく跳ねた。

それはつまり。

私が意図してクライス様へバフをかけるということ?

合法的に?

公衆の面前で?

(そ、そんなご 褒美(ボーナスステージ) があっていいんですの……!?)

危うく顔がニヤけそうになるのを、全力で奥歯を噛み締めて押し殺した。

「……可能、ですわ」

「ならやれ」

「承知いたしました」

私は深呼吸を一つ。

先ほどは 無意識(パッション) だった。だが今度は違う。ちゃんと術式を制御し、出力を絞り、対象を限定する。

私はそっと右手を胸の前で重ね、魔力を静かに練り上げた。

「《戦華の祝福・ 限定付与(ショート・ブースト) 》」

淡い銀の光がフワリと広がり、細い糸のようになってクライスの身体へ溶け込んだ。

今度は暴走していない。完璧な制御だ。

クライスは軽く木剣を振った。

一度、二度。

そのたびに、空気が『ヒュンッ』と鋭く泣く。

「……なるほど」

短く呟くと、彼は近くの頑丈な訓練用的へ向き直った。

そして何の予備動作もなく、一閃。

――バギィンッ!!

分厚い対魔法用の木製の的が、見事に真っ二つに割れ飛んだ。

「「「おおおおおォォォォッ!?」」」

訓練場が沸騰した。

騎士たちが目を輝かせて叫ぶ。

「すげえ!!」

「今の、動きに一切の無駄が増えてない!」

「副団長の純粋な強さが、そのまま底上げされてる!」

ローデン隊長がこちらへ振り向く。その顔には、半分呆れ、半分感心したような表情が浮かんでいた。

「ルシア様」

「何かしら」

「あなた、本当に何者なんです?」

「しがない側仕えですわ」

「その答え、いい加減無理があると思うんですよ」

ええ、私もそう思う。

だがそれ以上に、今、私の頭の中を占めていたのは別のことだった。

(推しが、私の 支援(バフ) を受けて、さらに無双している……ッ!)

とてつもなくマズい。尊さが天元突破している。

自分が支援した結果、推しが本来の力をさらに鮮やかに振るう。何その夢みたいな神環境。これだから 支援職(バッファー) はやめられない。

私は必死に平静を保ちながら、コホンと咳払いした。

「今後は訓練時にも、必要であれば支援を調整できますわ。ただし出力管理のため、事前にご相談を」

「頼む」

「……はい?」

あまりにも自然に返された即答に、私は目を瞬いた。

クライスは木剣を肩へ担ぎながら、淡々と続ける。

「お前の支援は極めて有効だ。実戦投入の可能性もある」

「そ、それは……」

「制御訓練を積めば使える。違うか」

「違いません、けれど」

つまりそれは、必要とされているということだ。

ただの世話係としてではなく。

戦力として。この人の、隣で。

胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

私はゆっくり息を吐いて、深く一礼した。

「承知いたしましたわ。副団長のお力を、さらに十全に引き出せるよう努めます」

その言葉に、クライスはごく小さく頷いた。

ただそれだけ。それだけなのに、周囲の騎士たちが妙にザワついている。

「今の聞いたか?」

「あの氷の副団長が、“頼む”って言ったぞ……」

「ルシア様の支援、正式採用確定では?」

「いやもう副団長専属の『 補助術師(パートナー) 』でもよくないか?」

聞こえてますわよ、と思いながらも、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じていた。

その時だった。

「……ルシア様!」

「る、ルシア様ァ!」

若い騎士たちが、血走った目で慌てて駆け寄ってくる。

「ど、どうか次の組の訓練にも一瞬だけ祝福を……!」

「待てずるいぞ! 俺たちの隊にもかけてください!」

「副団長ばかり強化されるのは不公平だ!」

あっという間に、訓練場の騎士たちが私のもとへ押し寄せてきた。

私は思わず一歩引く。

「お、お待ちなさいませ! これは誰にでも乱発できるものでは――」

「じゃあ適性見ます!?」

「列作れ列!! 割り込むな!」

「ルシア様! うちの隊長にもぜひ女神の加護を!!」

何なのこの熱量。

さっきまで見学していたはずなのに、気づけば『SSRバフ・握手会』の大行列である。

困惑する私の前へ、スッ……と一つの大きな影が立った。

クライスだった。

「散れ」

たった一言。

低く、静かで、だが絶対的な零度の声音。

騎士たちはビクゥッ! と肩を震わせ、見事な速さで蜘蛛の子を散らすように引き下がった。うむ、統率力がエグい。

クライスはそのまま私へ振り返る。

「打ち合わせがある。行くぞ」

「……はい」

私は資料を抱え直し、ホッと息をついた。

助かった。いや、助かったのだけれど。

(今、推しに守っていただいた……?)

そう思った瞬間、心臓がまた変な音を立てた。

違う違う。これは単なる業務上の整理。副団長として場を収めただけ。分かっている。分かっているのだけれど――。

クライスが、ふと足を止めた。

「ルシア」

「はい?」

「……さっきの支援だが」

「はい」

「次からは、事前に一言、言え」

「も、申し訳ございません。やはり驚かせてしまい――」

「心の準備がいる」

「…………え?」

一瞬、思考がフリーズした。

心の準備。

推しが。私の 支援(バフ) を受けることに。

心の準備がいる、と。

その意味を深く考える前に、クライスはもう歩き出していた。

だが、こちらを向かずに歩き去るその耳が、ほんのわずかに――確実に赤く染まっていたことに、私は気づいてしまった。

(――――――――ッッッ!?)

私はしばしその場に石像のように立ち尽くし、それから顔から火が出るほどの熱を感じて慌てて後を追った。

背後では、訓練場の騎士たちがヒソヒソと囁き合っている。

「今の副団長、ちょっと言い方が……」

「なあ」

「なんか、距離感バグってないか?」

「いやでも副団長だぞ?」

「副団長だからこそだろ! あの人がデレたぞ!?」

やめてくださいまし!

そういう会話は私の耳に入れないでいただきたい!

ただでさえ今の私は、推しの「心の準備がいる」の一言で脳内サーバーが完全にメルトダウンしているのだから!

それでも、胸の内には確かな高揚と多幸感があった。

推しの剣を、この目で見た。

その上、私の力が役に立つと証明された。

しかも、あの人はそれを受け入れてくれた。

――こんなの、最高以外の何物でもないではないか。

そして私はまだ知らない。

この日の訓練場での一件を境に、第一騎士団の面々が。

「あの方は書類だけでなく、バフ魔法まで完璧だ」

「副団長に最適化された奇跡の側仕えでは?」

「むしろ『副団長専用の 最終兵器(ヒロイン) 』では?」

などという、微妙に物騒かつ的確な認識を固め始めていたことを。

さらには、当のクライス自身もまた。

訓練後の異常な高揚感と、ルシアの熱を帯びた視線が向けられるたびに胸の奥がざわつく感覚の正体に――まだ、名前をつけられずにいたのだった。