作品タイトル不明
第45話 不器用な推しの幼少期エピソードで昇天
義両親との衝撃の初対面を終えたその日の夜。
私は寝室へ戻ってからもしばらく、まともにベッドへ着くことができなかった。
「…………」
正確には、大きな寝台の端で正座したまま、両手で真っ赤になった顔を覆って硬直していた。
「ルシア」
「……はい」
「何をしている」
「オタクとして、昇天しかけておりますわ」
「まだか」
「まだ、ですわね……意識が 宇宙(そら) と交信しております」
「そうか」
向かいで私服の上着を脱いでいたクライス様が、限界オタクの妻にもう完全に慣れた調子で淡々と相槌を打つ。
だが、今の私はそれどころではない。
義両親様。
あのお二人。
存在が、尊すぎませんこと?
お父様は寡黙で実直、けれど跡取りである息子をとても深く、あたたかい目で見ている方だった。
お母様はお美しく、聡明で、なおかつ大変お茶目でいらっしゃる。
しかも、クライス様の幼少期(公式黒歴史)について「また今度ゆっくり、アルバム付きで聞かせてあげる」などと悪魔のような、いや天使のような予告をなさったのだ。
そんなもの。
そんな特大のファンサの予告をされて、平静でいられる限界オタクがこの世のどこにいるというのか。
「クライス様」
「何だ」
「お母様のお話(供給)、次はいつ伺えますの?」
「知らん。一生なくていい」
「そこを何とか」
「何とかしてどうする」
「愛する夫の可愛い幼少期の公式記録を、少しでも多く脳裏に焼き付け――」
「やめろ」
「まだ何もしておりませんわよ」
「今からしようとしている、ヤバいオタクの顔だ」
「失礼ですわね。大変敬虔な信仰心に満ちた顔ですわ」
「同じことだ」
私は胸の前で両手を組み、天を仰いだ。
推しの幼少期。
それは、ゲームの特装版特典にも収録されていなかった『不可侵の聖域』。
本人が寡黙で不器用で、昔の話を自分からほとんどしないタイプであればなおさら、その情報(供給)価値は計り知れない。
しかも、今や私は公式に『妻』である。
つまり、実家のご両親から合法的に聞ける。
いや、後世に語り継ぐために記録する権利と義務があると言っても過言ではないのでは?
「過言だ」
「まだ口に出しておりませんわよ!?」
「顔に全部出ている。メモ帳を用意するな」
「本当に、私に対する観察眼が鋭すぎますわね……」
クライス様は小さく息を吐き、それから私の隣へドサリと腰を下ろした。
近い。
近いのだが、最近はこの『夫の雄み溢れるゼロ距離』に少しだけ慣れてきた(耐性がついてきた)自分がいる。
それもそれで怖い。
「母上は、明日もこの屋敷に来る」
「…………はい?」
私は、バネで弾かれたように勢いよく顔を上げた。
「今、何と?」
「明日の昼、また来るそうだ」
「また!?」
「ああ」
「どうしてそれを先におっしゃらないのです!?」
「今言った」
「もっと早く! 一日前に!」
「結果は変わらん」
「私の心の準備(防具の装備)が違いますわ!」
私はその場で立ち上がりかけ、しかし寝台の端で足をもつれさせかけた。
いけない。こういう時ほど深呼吸して落ち着かねば。
明日。
お母様がまたいらっしゃる。
そして恐らく。いや、100パーセント高確率で。
『推しの幼少期エピソード』が大量供給される。
(明日、私……無事に生きていられるかしら……)
◇ ◇ ◇
翌日の昼。
私は過去最高レベル(結婚式に次ぐ気合)に身なりを整えて、応接室へ向かった。
「お嬢様」
侍女が、呆れたように静かに言う。
「少々、気合いの方向がズレておられませんか」
「何のことかしら」
「義母様との、和やかなお茶会でございますよね?」
「ええ」
「どうしてそんな、“推しの限定資料展へ一番乗りで赴く前”のような、血走ったお顔を……」
「近いものがございますもの」
「左様でございますか」
ええ、左様でございますとも。
今日はお母様と、私と、そしてクライス様も同席する小さなお茶会だ。
お父様は領都防衛の騎士隊の視察へ出ておられるらしい。
つまり――。
供給源(義母)に対し、推し本人(被弾役)も同席する、逃げ場のない『公式幼少期エピソード上映会』である。
最高ですわね。
応接室へ入ると、すでに母君が優雅に待っておられた。
今日の装いは昨日より少し軽く、柔らかな藤色のドレスに白いレースの羽織。いや本当にお美しい。
そして、その手には何やら、大切そうに抱えられた古い木箱が載っていた。
「まあ!」
私は思わず、獲物を見つけた狩人のように前のめりになった。
「そ、そちらは!?」
「ふふ」
母君が悪戯っぽく微笑む。
「クライスの小さい頃の思い出の品を、少しだけ」
「少しだけ!?」
「ルシア」
横から、地を這うような低い声が飛ぶ。
「落ち着け。鼻息が荒いぞ」
「無理ですわ」
私は1ミクロンの迷いもなく即答した。
だって、何ですのそれ。
小さい頃のもの?
記念品?
過去の遺物?
いいえ、もはやオタクにとっては『 聖遺物(アーティファクト) 』ではありませんこと?
クライス様は、すでに頭を抱えて眉間を押さえていた。
その絶望した顔の時点で、本日の供給の質(破壊力)は保証されたようなものだ。
「母上」
「何かしら、クライス」
「今日は、茶を飲むだけではなかったのか」
「ええ、お茶『も』いただくわよ」
「今、“も”と言ったな」
「気のせいでは?」
「気のせいではない」
「そうかしら?」
母君はニコニコとしている。
強い。このお義母様、絶対に強い。
そして多分、あの最強の氷の騎士であるクライス様は、昔からこの母君にだけは絶対に勝てなかったのだろう。
……尊いですわね。
私はそっと、ワクワクしながら席へ着いた。
極上の紅茶が注がれ、焼き菓子が運ばれる。
香り高い茶葉に、昨日私が指定した塩味の小さな焼き菓子も添えられていた。
だが正直、食い気などそれどころではない。
私の視線は、母君の手元の木箱へ完全に釘付けだった。
「そんなに気になる?」
母君がクスリと笑う。
「ええ、もちろんですわ。穴が空くほど気になります」
「正直ねえ」
「だって、愛するクライス様の幼少期でございますもの!」
「……ルシア」
「何ですの」
「頼むから、声の熱量(オタク度)を少し落とせ」
「善処いたしますわ」
「全く信用できん」
「私もそう思います」
◇ ◇ ◇
最初に母君が語ってくださったのは、意外にも、とても静かな話だった。
「クライスはね、小さい頃から本当に、今のまま無口だったの」
「……」
「それは今も痛いほど存じておりますわ」
私は激しく首を縦に振って真剣に頷く。
「ええ。でも、今よりもっとよ」
母君が紅茶を傾けながら、懐かしそうに言う。
「三つくらいの頃なんて、一日に口を利く回数が、片手で足りることもあったの」
「三つで!?」
「ルシア」
「だって、口下手な幼児とか可愛すぎませんこと!?」
クライス様が、いたたまれないように低く息を吐く。
だが私の熱暴走は止まれない。
だって想像していただきたい。
三歳。小さくて、無口で、多分今より少しほっぺたに丸みがあって、それなのに目だけはもう今と同じ、あの綺麗な蒼色で。
(天使ですわね……?)
いや、クーデレの氷の天使かもしれない。
いずれにせよ、尊さで世界が危ない。
母君は楽しそうに続ける。
「でもね、全く感情がないわけではなかったのよ。むしろ、言葉が足りなくて分かりにくいだけで、好き嫌いはすごくハッキリしていたわ」
「まあ」
「気に入らない相手には徹底して近寄らないし、一度好きになったもの(お気に入り)は、絶対に大事に抱えて誰にも離さないし」
「……」
私は思わず、隣のクライス様を見た。
今も、わりとそのままでは? (※私に対する異常な独占欲を含め)
そう思ったのが顔に出たのだろう。
クライス様の目が少しだけ、ジトッと細くなる。
「何だ」
「いえ、今も根っこの部分は、全くお変わりなくていらっしゃるのだなと」
「……」
「まあ」
母君が笑う。
「本当にそうなのよねえ」
「母上」
「何かしら」
「嬉しそうに言うな」
「だって事実だもの」
私は危うく、テーブルへ突っ伏して机を叩きそうになった。
だめだ。
もうこの開始五分の時点で、だいぶ心臓が危険である。
「初めて剣を持ちたがったのも、四つの時だったかしら」
母君が言う。
「庭で父親が騎士団の稽古をしているのを、ずっと一人で黙って見ていてね」
「……(ゴクリ)」
「終わった後、何も言わずに木の枝を拾ってきて、見様見真似で同じ構えをしていたの」
「…………」
「まだ小さいから、当然腕がプルプルしてグラグラなのだけれど、それでも本人は真剣そのもので」
「…………」
「父親に向かって、“これ”って、小さな声で一言だけ言ったのよ」
「…………(ドカンッ)」
私は、静かに天を仰ぎ、限界を迎えた。
「ルシアさん?」
母君が不思議そうに首を傾げる。
「少々、お待ちくださいまし」
私はそっと、激しく高鳴る胸元を押さえた。
「今、私の脳内でとても大変なこと(ビッグバン)になっておりますの」
「何がだ」
クライス様が呆れたように低く問う。
「四歳の、ちっちゃなクライス様が……ッ」
私は震える声で、涙目になりながら言った。
「庭で、お父様を見て、木の枝を一生懸命に剣に見立てて、“これ”と……!?」
「そこか」
「そこしかございませんわよ!!」
だって可愛すぎるではないか。
四歳。小さな手。
一生懸命に構えだけ真似る、真剣な姿。
喋るのはたった一言。“これ(剣を教えて)”。
何それ。
そんなもの、尊さの 暴力(オーバーキル) では?
「母上、もういいだろう。俺の妻のHPがゼロだ」
クライス様が、顔を赤くして低く制止を試みる。
だが母君は、悪魔のような笑顔で首を振った。
「まだ始まったばかりよ?」
「始まるな」
「無理だな」
これは私の口から出た。
クライス様がジトリとこちらを見る。
「お前も乗るな」
「乗るに決まっておりますでしょう。これはオタクの義務です!」
「……そうだったな。お前はそういう女だった」
諦めが早い。
だがそれもまた可愛い。
◇ ◇ ◇
その後も、供給(特大ファンサ)は止まらなかった。
「字を覚えるのも早かったわね」
「まあ。さすが推しですわ」
「でも、私が褒めると嫌そうな顔をするの」
「どうしてですの?」
「全部、“普通”だと思っていたみたい」
「……」
「すごいとか、えらいとか言うと、照れて顔を赤くして、むしろ黙り込んでしまって」
「今も少しございますわね」
私はウンウンと頷いた。
「私が褒めちぎると、受け取るより先に、照れ隠しで話を流そうとなさるところ」
「そうそう!」
母君が手を叩いて嬉しそうに笑う。
「本当に、そのまま大きくなったのねえ」
「やめてくれ」
クライス様が本日何度目か分からない制止を入れる。
だがもう遅い。
私は完全に、母君の語り(公式オーディオコメンタリー)へ没入していた。
五歳で、大人用の馬に無理やり乗りたがって怒られた話。
六歳で、雪の日に迷い猫を拾ってきて、自分のベッドで温めていた話。
七歳で、使用人の怪我へ誰より先に気づき、無言で薬箱を運んできた話。
八歳で、“剣は怖くないの?”と聞かれて、“持つ人次第だ”と大人びた顔で答えた話。
「…………」
私は、もはや途中から感極まって言葉を失っていた。
尊い。
あまりにも尊い。
不器用で、無口で、でも小さい頃から誰よりも優しくて、折れない芯があって。
ずっと“今のクライス様”へ続くものを、幼い頃からちゃんと持っていたのだと、一つひとつのエピソードから痛いほど分かる。
前世でゲーム越しに見ていた、ただの『設定上のキャラクター』だった推しが。
この世界でちゃんと子ども時代を生きていて、悩み、育ち、今の私の愛する夫の姿へ繋がっている。
それが、たまらなく愛おしくて嬉しかった。
「……ルシアさん?」
母君が、また不思議そうにこちらを見る。
私は、顔を覆っていた手を少しずらした。
「すみません、少々涙腺が……」
「大丈夫?」
「オタクとしては大丈夫ではございませんけれど、妻としては最高の幸福ですわ」
「そう」
「はい」
私は本気で、涙を拭って頷く。
「愛する推しの、こんなにも可愛い幼少期のお話など、私にとって幸福以外の何物でもございませんもの」
「推し」
先代伯爵はおられないので、ツッコむのはクライス様だけだ。
「そこは親の前でも、もう訂正する気もないのか」
「1ミリもございません」
「……」
「だって、世界一尊い、本当のことですもの」
「そういう問題ではない」
クライス様はそう言いつつ、紅茶のカップを持つ指先がわずかに落ち着かない。
ああ、この人、ものすごく居心地が悪いのだ。
自分の隠しておきたかった幼少期を親に語られ、それに妻が全力で感極まって泣きそうになっている状況なのだから、そりゃあそうだろう。
でも、その反応こそ、また私への極上の供給なのである。
(耳まで真っ赤に赤面していらっしゃる……!)
普段は冷静沈着な氷の騎士の、そういう年相応の崩れ方。あまりにも価値が高い。
「クライス」
母君がニッコリ微笑む。
「あなた、小さい頃、お菓子を隠れて食べたことがあるでしょう」
「ない」
「あるわよ」
「絶対にない」
「厨房の砂糖菓子、ひと瓶丸ごとなくなったことが」
「あれはローデン(隊長)だ」
「まあ、あの生真面目そうなローデン君だったの?」
「おそらく」
「庇ったのね」
「違う」
「……」
「……」
「庇ったのですわね」
私がジト目で静かに言うと、クライス様がこちらをギロリと見た。
「お前まで乗るな」
「だって、どう考えても」
「違う」
「強がる姿が可愛いですわ」
「違う」
「可愛いですわ」
「話を聞け」
「大変可愛いですわ」
母君が、とうとう堪えきれずに声を立てて笑い出した。
「もう、駄目。ルシアさん、話が早くて最高だわ。最高のお嫁さんね」
「光栄ですわ、お義母様」
「全然褒めてないぞ、それ」
「褒めておりますわよ。大絶賛ですわ」
◇ ◇ ◇
そして、私の心臓への決定打が来たのは、茶会も終盤に差しかかった頃だった。
母君が木箱の中から、小さな布袋を取り出したのだ。
年季の入った、少し不格好な縫い目の薄青の袋。
大事にしまわれていたのが一目で分かる。
「これはね」
母君が、ひどく優しい声で言う。
「クライスが、十歳くらいの頃に、『自分で』縫ったの」
「…………はい?」
私は完全に静止した。
「縫った?」
「ええ」
「ご自分で? 針と糸で?」
「そうよ」
母君は愛おしそうに微笑む。
「騎士見習いの頃、木剣用の手入れ布を失くして、先輩にひどく叱られて泣いていた下働きの子がいてね」
「……(ゴクリ)」
「その子が泣いていたのを見て、クライスは無言で自分の部屋へ帰っていったの」
「……」
「それで、一晩中かかって。次の日に、この少し不格好な袋へ新しい布を入れて、黙ってその子に渡したのよ」
「…………(ドカンッ)」
私は、ゆっくりと両手で顔を覆った。
もう無理ですわ。
尊いとか、可愛いとか、そういう陳腐な単語ではもう追いつかない。
何なのですの、この方。
十歳の男の子が?
自分で慣れない針仕事をして縫って?
泣いていた子へ、言い訳も慰めも言わずに黙って渡す?
あまりにも、優しすぎるではないか。
しかも不器用なりに、自分で何とかしてあげようとして。
慰めの言葉ではなく、『手を動かす物理的な解決』の方向へ行く辺りが、今の不器用なクライス様そのままで。
「……ッ」
私は本気で、目頭を熱くして押さえた。
「ルシア?」
クライス様の声が、今度は少しだけ近くなった。
多分、立ち上がってこちらへ来たのだろう。
だが今は見られない。見たら完全に号泣する。
「むり、ですわ……」
「何がだ」
「十歳の……ちっちゃなクライス様が……優しすぎて……」
「……」
「夜なべして、縫う、って……ッ。尊すぎて……」
「母上」
クライス様が、本気で焦ったように低く言う。
「もうやめてくれ。妻が壊れた」
「いやよ」
母君はキッパリ言った。
「ルシアさんが、こんなに全身で喜んでくれているもの」
「喜ぶ 方向(ベクトル) が完全におかしい」
「そうかしら?」
「そうだ」
私は手で顔を覆ったまま、フラリと立ち上がりかけた。
だめだ。座っていられない。
オタクとしての尊さの 限界値(キャパ) を超えた。
「ルシア、座れ。危ない」
クライス様の大きな手が、私の腕を支える。
「大丈夫か」
「大丈夫では、ございませんわね……致死量ですわ」
「知っている」
「知っていて、なぜ全力で止めてくださいませんの……」
「母上が止まらん」
「そこを何とか……」
「俺も無理だ」
その諦めきった言葉へ、私は顔を覆ったまま、涙声で笑ってしまった。
ああ。そうだ。
この無敵の氷の騎士も、お母様には少し勝てないのだ。
幼少期からずっとそうだったのかもしれない。
そう思うだけで、また新たな尊さが脳内に積み上がるのだから困る。
「クライス様」
「何だ」
「十歳の時点で、もう完全に今のあなたとして完成されていらしたのですね……」
「何がだ」
「その、不器用な優しさが」
「……」
「本当に、大好きですわ」
「……今言うな」
「無理です」
「……そうだったな」
クライス様は、とうとう観念したように片手で目元を押さえた。
耳が、見事に熟れたトマトのように赤い。
母君はそんな息子を見て、満足げに、この上なく幸せそうに微笑んだ。
「ええ、本当にいいお嫁さんね」
「お母様」
「何かしら」
「こんなにも尊い情報を、ありがとうございます」
「こちらこそ、息子を愛してくれてありがとう」
そして、母君は私へ向かって少しだけ身を乗り出す。
「まだあるわよ」
「まあッ!」
「やめろ」
クライス様が、今度こそ本気で止めに入った。
「次はまた今度だ」
「今でもよくてよ?」
「絶対に駄目だ」
「強い意志ですわね」
「当たり前だ。俺の理性が死ぬ」
私はクスリと笑った。
けれど、本当に、これ以上は私の心臓も危なかったかもしれない。
もうすでに、だいぶお花畑へ昇天しかけている。
◇ ◇ ◇
帰り際、母君は木箱を大事そうに抱えながら、私にだけ聞こえる声でそっと囁いた。
「今度は、クライスが描いた『絵』も見せてあげるわね」
「絵!」
「幼い頃のね」
「…………(ゴクリ)」
「クライス、三つくらいの時の」
「母上」
「すごく可愛かったのよ」
「母上」
「ほっぺたがふっくらしていてね」
「母上」
「よちよち歩きで、一生懸命に――」
「母上!!」
私は、静かに限界を迎えて壁へ手をついた。
ああ。
次がある。
まだ、推しの幼少期の公式供給は終わっていない。
それを理解した瞬間、私は心の底から確信した。
――この結婚、やはり最高ではありませんこと?
推し本人が尊いのは当然として。
義両親様まで素晴らしくて、さらに幼少期設定資料集(現物)まで合法的に無限供給されるなど。
前世の私が知ったら、本気で血の涙を流して羨ましがるに違いない。
その日の夜。
私は寝室の広いベッドでクライス様に抱きしめられながら、何度目か分からないほど「好きですわ」「愛しております」と狂ったように呟いてしまい。
クライス様に「……今日は特に愛が重くて多いな。だが悪くない」と、低く甘い声で押し倒されるように返されることになる。
……仕方がないではないか。
十歳で、泣いている名もなき子のために不器用な布袋を縫う、優しすぎる推しのエピソードを聞いた後で。
愛と好きが増えない限界オタクなど、この世に存在しないのだから。