作品タイトル不明
第31話 限界オタク、ついに陥落(両片思いの終わり)
「……ッ」
視界が、一気に涙で滲んだ。
ああ、もう駄目だ。
本当に、オタクとしての精神のキャパシティが限界だった。
だって。
目の前で、あのクライス様が私に跪いている。
私の世界で一番尊い推しが。
前世のゲームで何度ルートを周回しても、最後にはいつもどこか寂しそうな背中を見せて去っていったあの孤高の騎士が。
今は真っ直ぐに私を見上げて、“俺の妻として、一生隣にいてほしい”などと、逃げ場のない声で言っているのだ。
そんなもの。
そんな特大の 奇跡(ファンサ) を、どうやって淑女として平静に受け止めろというのか。
無理に決まっている。
「ルシア」
返事の遅い私を案じてか、もう一度、クライスが私の名を呼ぶ。
その声が、少しだけ不安そうで。ひどく優しくて。
それがまた、どうしようもなく私の胸の奥をギリリと刺す。
私はようやく、ガタガタと震える唇を開いた。
「……ずるい、ですわ」
「何がだ」
クライスの声は、静かに私を待っていた。
「全部、です……」
涙で滲む視界の向こう、私はせめて笑顔を見せたくて、必死で笑おうとした。
けれど、全然駄目だった。
口元は情けなく震えるし、目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちるし、氷の淑女としては完全敗北である。
「そんな、の……」
私はヒックと息を吸い、どうにか言葉を繋ぐ。
「そんな真っ直ぐに、あんな声でおっしゃられたら……ッ、もう、オタクの防衛本能でも逃げられないではありませんか……」
「逃がすつもりはない」
「そういうところですわ……!」
思わず泣き笑いになる。
駄目だ。
好きだ。
本当に、どうしようもなく、この人が好きだ。
推しだから、ではもう足りない。
尊いから、では済まない。
助けたいとか、理不尽から守りたいとか、そういう言葉だけでも足りない。
前世でゲーム画面越しに見つめていた頃から、ずっとずっと好きだった。
けれど今の私は、もうただの熱狂的なファン(観測者)ではいられない。
この世界で息をして、私の名前を呼び、私だけを特別扱いし、私を欲しいと跪いてくれる『一人の男』として、クライス・フェルドという人を深く愛してしまっている。
その事実が、もう誤魔化せない。
「……クライス様」
私は、震える声で呼んだ。
彼の蒼い瞳が、大きく揺れる。
たった名前を呼んだだけなのに、その反応があまりにも大きく見えて、胸がまた苦しく締めつけられる。
「私、は……」
喉が詰まる。けれど、もう止まれない。
「私の方こそ」
一度、手の甲で乱暴に涙を拭う。
だが次から次へと溢れてきて、全然意味がない。
「ずっと……ずっと、あなたを愛しておりました」
言ってしまった。
ついに。とうとう。全部。
前世の記憶を取り戻した瞬間から再確認していた“推し”への想い。
現世で共に過ごすうち、もう誤魔化しきれなくなっていた一人の女性としての感情。
役に立ちたい。支えたい。守りたい。傍にいたい。
他の誰にも、絶対に渡したくないと思ってしまうほどの、このどうしようもなく重い気持ち。
それを、全部まとめて。
愛していると、言った。
クライスは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、怖い。
いや、怖いというより、心臓に悪い。
プロポーズはもう先ほど受けている。今さら拒絶されるとは思っていない。
思ってはいないのだけれど、それでもこの無音の数秒間が、永遠みたいに長い。
やがて。
「……そうか」
地を這うように低く落ちたその声が、ひどく掠れていた。
私は涙でグシャグシャに滲んだ目のまま、クライスを見る。
すると、彼はもう立ち上がっていた。
さっきまで跪いていたはずなのに、気づけば大きな影が私を覆い、目線の高さが近い。
近くて、また息が止まりそうになる。
「クライス様」
「もう一度、言ってくれ」
「……ッ」
何てことをおっしゃるの、この人は。
そんなの、今この限界の状態で、もう一度など。
羞恥心でオーバーヒートして死ぬに決まっているではないか。
だが、クライスの目は真剣だった。
冗談でも、意地悪でもない。本当に聞きたいのだ。私の口から、本当に確かめたいのだと、痛いほど分かる。
私はギュッと指先を握り締めた。
「……愛して、おります」
顔から火が出そうになりながら、小さく言う。
「ずっと、昔から……多分、私が自分で自覚していたよりも、ずっと前から……」
「昔から?」
「それは、その……」
私は盛大に視線を明後日の方向へ逸らした。
「少々、前世の記憶とか、長くなる事情がございますので」
「後で全部聞く」
「ひえ」
「逃がさない」
「……はい」
駄目だ。
この人、告白が通じた途端に、妙に押しが強くて容赦がない。
だが、その“後で全部聞く”という束縛が嫌ではなく、むしろ嬉しいと思ってしまう自分がいる。本当に重症(末期)である。
クライスは、大きな手を私の頬へ伸ばした。
涙の跡を、親指の腹でそっと優しく拭う。
ただそれだけで、また体温が一気に沸騰する。
「泣くな」
「無理ですわ」
「……そうだな」
「クライス様が悪いのです」
「俺が?」
「そうですわ!」
私はしゃくり上げながら理不尽に訴えた。
「そんな……そんな格好いいことを、あんな本気の顔で、あんな声で言われて、オタクが泣かずにいられるわけがないでしょう……ッ」
「俺は、格好いいのか」
「ご自覚なかったんですの!?」
「ない」
「困りますわ本当に!!」
泣きながら抗議すると、クライスの口元がわずかに、けれど確実に緩む。
ああ、駄目だ。好きだ。
泣いていて顔がボロボロなはずなのに、それでも彼が愛おしくて好きだと思ってしまう。
「ルシア」
「はい……」
「もう一つ、聞く」
「何でしょう」
「今のは、その場の勢いではないな」
「勢いで“ずっと愛しておりました”なんて特大の告白、言いませんわよ……!」
「それもそうか」
「そうですわ」
クライスはそこで、フッと柔らかく目を細めた。
安堵したような、心の底から嬉しそうな、それでいてまだどこかこの奇跡を信じきれないものを抱えたような顔。
そんな無防備な表情を、この人が私に向けてくれる日が来るなんて。
前世でゲームのコントローラーを握っていた自分へ教えたら、確実にショック死するだろう。
「……よかった」
ポツリと、クライスが言った。
私はパチクリと目を瞬いた。
「何が、ですの」
「お前の心にはまだバカ王太子がいるかもしれないと、片思いで終わる覚悟はしていた」
「……ッ」
その言葉に、胸の奥がキュウッと痛む。
覚悟していた。
この人は、そういう不器用な人だ。
自分の重い気持ちを抱え込んで、相手の負担にならないよう一人で飲み込んで、それでも相手の幸せのために必要なら、身を引いてしまうような人だ。
だからこそ。
だからこそ、今日こうして、私のために一歩踏み出してくれたことが、奇跡みたいに思える。
「そんなの……」
私はまた泣きそうになりながら言った。
「そんなの、私の方が、ずっとそうでしたのに……」
「お前が?」
「だって、私にとってクライス様は“推し”で、憧れで、絶対に手の届かない方で……私なんかが隣に立ってはいけないと……」
「推し」
「そこは今、スルーしてくださいまし!」
「難しいな」
「お願いですから!」
もう、本当に、この人は。
こんないい雰囲気の場面ですら私のオタク用語を律儀に拾うのだから困る。
だが、そのコミカルなやり取りのおかげで、少しだけ息が整った。
私は涙をグイと拭い、それから改めて、真っ直ぐにクライスを見上げる。
「……でも」
「何だ」
「もう、逃げませんわ」
「……」
「クライス様が望んでくださるなら、私……ずっと隣にいたいです」
「……」
「妻として、でも」
声がまた震える。けれど、今度はちゃんと最後まで言えた。
「一生、あなたのお傍におります」
クライスの蒼い瞳が、ハッキリと大きく揺れた。
それはほんの一瞬だったけれど。今の私には十分すぎるほど伝わった。
嬉しいのだと。この人も、私の言葉で、ちゃんと、同じように激しく感情を揺らしているのだと。
次の瞬間。
「ルシア」
低く、甘く呼ばれて、私は反射的に答えようとした。
だが、その前に。
グイッ、と強い力で腕を引かれる。
「きゃ……ッ」
今度は悲鳴ではない。甘い声が漏れた、という方が近い。
気づけば私は、クライスの広い胸元へすっぽりと引き寄せられていた。
抱きしめられる。
天幕での怪我の時とは違う。今度は、前よりずっとハッキリと。迷いなく。
自分の最も大切な宝物を、絶対に離さないと誓うように。
「クライス様……」
「返事は、確かに聞いた」
耳元で、甘く低い声が言う。
「もう後悔はさせない」
「……ッ」
「だから」
彼はわずかに身体を離し、私の真っ赤な顔を見た。
「口づけてもいいか」
「…………(ドカンッ)」
私は、多分、その瞬間。
人生で一番、ゆでダコのように赤くなった。
何を。何をそんな、律儀に聞いてくださっているのか。
いや、 同意(コンセンサス) は大事ですわよ? 大事ですけれど。
こんな甘い空気で、こんな声で、こんな熱を持った目で至近距離で聞かれたら、まともに返事できるわけがないではないか。
「る、ルシア」
「は、はいッ」
「返事を」
「……ッ、い、いま」
「今だ」
「い、いいに、決まっておりますでしょう……!」
半ばヤケクソで言い切った。
次の瞬間、クライスの大きな手が、そっと私の頬を包む。
大きくて、あたたかい。剣ダコのある、傷だらけの手だ。最前線で戦ってきた人の手。
その手が、今は壊れ物を扱うように、ひどく優しく私を扱っている。
ゆっくりと、端正な顔が近づく。
目を閉じるべきか。いや、でも、この美しい顔を見ていたい。でもやっぱり至近距離すぎて恥ずかしい。
そんな限界オタクのパニックを起こしているうちに、結局私は中途半端に目を伏せた。
唇へ、柔らかな熱が触れる。
「……ッ」
軽い。
本当に軽く、触れるだけの、小鳥が啄むような口づけだった。
けれど、その一瞬だけで、頭の中が完全にホワイトアウトする。
だめだ。無理ですわ。これは無理です。
推しに、いやもう推しという概念だけではないのだけれど、とにかく世界で一番愛しい人に、こんな風に大切に触れられたら、理性など保てるわけがない。
唇が離れる。
ほんの数秒だったはずなのに、息が上手くできない。
私はクラクラしながらクライスを見上げた。
彼もまた、少しだけ息が乱れている。耳はやはり真っ赤だ。
でも、視線だけは絶対に逸らさない。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
「……大丈夫か」
「その質問は、今、なさいますの?」
「生存確認として必要だと思った」
「必要ですけれど……ッ」
私は両手で顔を覆いたくなるのを必死にこらえた。
だが、全然隠しきれていないだろう。頬も耳も、たぶん首元まで真っ赤に茹で上がっている。
クライスはそんな私を見て、困ったように、でもどこかひどく満足したように息を吐く。
「……可愛いな」
「ッ!?」
今、何とおっしゃいました?
そんな、そんな軽率に、爆弾みたいな甘い言葉を追加しないでいただきたい。
「クライス様!!」
「何だ」
「本当に、本当に、今日はこれくらいで手加減をしてくださいまし……!」
「無理かもしれん」
「どうしてですの!?」
「お前がそういう顔をするからだ」
「ど、どういう顔ですの!」
「言わせるな」
言わせるな、と来ましたか。
ああもう。本当にズルい。ズルすぎる。
だが、それ以上言い返す余裕もない。私はとうとう、彼の胸元へ顔を伏せて隠した。
もう無理だ。恥ずかしい。幸せすぎる。オタクの情緒が忙しすぎる。
クライスの胸から、クツリと小さな笑いが震えて伝わる。
笑われている。だが、嫌ではない。
むしろ、その余裕のなさまで共有されているみたいで、とてつもなく嬉しかった。
「ルシア」
「……はい」
「泣くな」
「だって」
「何だ」
「嬉しすぎるのですもの……」
「……そうか」
その返事の後、今度は私の銀の髪へ、優しく口づけが落ちた。
軽く、愛しむみたいに。
もう駄目だ。完全に陥落した。
何もかも。心も理性も。全部、この人に持っていかれた。
前世のゲームで何百周しても届かなかった 結末(トゥルーエンド) が、今、こうして現実になっている。
その奇跡みたいな事実が、ジワジワと身体の奥へ沁みこんでいく。
「クライス様」
「何だ」
「もう一度だけ」
「……」
「好き、と言ってもよろしいですか」
「……いくらでも」
その甘い返事が嬉しくて、私は泣き笑いのまま顔を上げた。
「好きですわ」
「……ああ」
「ずっと、ずっと、好きでした」
「ああ」
「これからも、きっとずっと好きです」
「それは困るな」
「えっ」
「俺の方が、お前を好きでいたい」
「…………(ドカンッ)」
私は、その場でまたしても処理落ちして爆発した。
何なのですの、この人。
告白が通じた途端に、タガが外れて言葉の火力が上がりすぎではなくて!?
「む、無理ですわ……」
「何がだ」
「勝てませんもの……」
「勝つ必要はない」
「ありますわよ、限界オタクとしての意地が」
「知らん」
「知らんで済まさないでくださいまし……」
やり取りの一つ一つが甘すぎて、頭がフワフワする。
でも、それが最高に幸せで。
こんな終わり方なら、何度でも処理落ちして火花を散らしてもいいと、少しだけ思ってしまった。
空を見上げれば、もう満天の星がたくさん出ていた。
王都の灯りが遠くで宝石のように揺れている。
夜風は涼しく心地よいのに、胸の奥はずっと熱い。
クライスは私の肩を抱いたまま、ゆっくりと夜空を見上げた。
「……帰るか」
「はい」
「今度からは、堂々と俺の隣へ来い」
「……ッ」
「半歩後ろ、ではなく」
「それは」
私は少しだけ、幸せを噛みしめるように笑った。
「努力いたしますわ」
「努力ではなく守れ」
「副団長――いえ、クライス様も、その台詞お好きですわね」
「お前のせいだ」
「光栄です」
そうして、私たちは星降る丘を下りる。
今度は半歩後ろではなく。ちゃんと、肩を並べて。
前世でどれだけ願っても叶わなかったこの距離が、今は当たり前みたいにあることが、まだ少し信じられない。
けれど、しっかりと繋がれた大きくてあたたかい手のぬくもりだけは、疑いようもなく本物だった。
こうして、長かった二人の両片思いは終わった。
限界オタク令嬢ルシア・フォン・グランツは、ついに最愛の推しへと陥落し。
氷の騎士クライス・フェルドもまた、不器用な想いを隠さずに彼女を求めた。
その恋は、もうオタクの勘違いでも、すれ違いの片想いでもない。
次に待っているのは、国中(と王家)からの盛大な祝福と。
そして“生涯お傍に”どころではない、最高に幸せな 大団円(ハッピーエンド) である。