軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第115話 九条の実家へご挨拶。前世の義両親(転生体)との感動の再会

日曜の午後。

私は、都内屈指の高級住宅街にひっそりと佇む『九条家』の立派な門の前で、たいへん静かなポーカーフェイスの裏で、盛大にパニックを起こして取り乱していた。

「……む、むりですわね。逃げ帰りたいですわ」

九条さんの運転する黒塗りの車を降りた瞬間、私は思わずそう呟いた。

目の前にあるのは、成金趣味とは無縁の、落ち着いた和モダンな邸宅だった。

広すぎず、狭すぎず。

だが、門構えの石の質感から、手入れの行き届いた庭の木々の整え方まで、代々受け継がれてきたような『上質さ』と『気品』が隠しきれずに滲み出ている。

いかにも、あの完璧な推しを育て上げた“由緒正しき良い家”である。

けれど、私が深刻な問題として抱えているのは、その敷居の高さではなかった。

「藤咲」

隣で、休日のジャケット姿の九条さんが、低く呆れたように言う。

「はい」

「さっきから、顔色が赤くなったり青くなったり、忙しいぞ」

「当然ですわ。命懸けの死地に向かう心境ですもの」

私は真顔で、血走った目で答えた。

「本日は」

「……」

「あなたをこの世に産み落とした、尊い神々(ご両親)にお会いするのですわよ?」

「親を神々扱いするな。変な宗教か」

私はバクバク鳴る胸元を両手で強く押さえる。

「私にとっては、重大な事実ですわ!」

「何がだ」

「俺の親だ、取って食いはしない」

「よくありませんわ! そんな気安くお会いしていい方々ではないのです!」

九条さんが、やれやれと小さく息を吐いた。

でも、その彫刻のような横顔も、いつもより口数が少なく、どこか少しだけ硬く緊張していた。

ああ。

はい。

そうでしたわね。

いくら完璧なこの方だって、自分の両親へ『恋人(結婚前提)』を紹介するのは、今世の三十年の人生でこれが初めてなのだ。

そう思ったら、少しだけ、本当に少しだけれど、私の張り詰めていた緊張も落ち着いた。

……いえ、落ち着いたというのは虚勢の嘘ですわね。

限界オタクの理性が、どうにか息を吹き返した、くらいでしょうか。

「九条さん」

「何だ」

「最終確認です」

「……」

「本日は」

「……」

「『社長の有能な秘書』としてではなく」

「……」

「『恋人』として」

「……」

「ご挨拶に伺うのですわよね」

「そうだ」

「正式に」

「そうだ」

「逃げ道なしで」

「ない。諦めろ」

「……ッ」

「今さら、往生際が悪いな」

「やはり、少々、心拍数がエラ―を起こしそうですわ」

「そうか」

「そうです」

「なら」

九条さんが、私の言い訳を遮るように、ごく自然に私の左手を自分の右手で強く取った。

「行くぞ」

「ッ……」

「震えるなら、手くらいは繋いでろ」

「……」

「恋人なんだろう」

ああもう。

その、不器用で男前なエスコートの確認の仕方、本当にズルくて心臓に悪いですわね。

私は、真っ赤な顔で、そっとその大きくてあたたかい手を握り返した。

「……はい」

◇ ◇ ◇

インターフォンを押し、玄関の重厚な扉が開いた瞬間。

私は、本気で、息を呑んで硬直した。

「あら、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」

出迎えたのは、花が咲いたような上品な笑みを浮かべた女性だった。

やわらかな黒髪を綺麗にまとめ、淡い藤色のワンピースを上品に着こなしている。

年齢を重ねた美しさというものを、そのまま優美な形にしたような人だ。

そして、その目元。

人を包み込むような微笑み方。

相手を一切緊張させない、あのあたたかな距離感。

「……ッ」

だめですわね。

見た瞬間に、魂がすべてを理解してしまいますわ。

「藤咲? どうした?」

九条さんが、急に固まった私を横で小さく問う。

「……いえ」

私は、どうにか震える声を絞り出した。

「少々」

「……」

「お母様が、お美しすぎて……後光が射して見えましたわ」

「母が、か?」

「はい」

「……そうか。お前は本当に変わってるな」

「ええ、そうですわ」

違う。

血縁的には別人だから、違わない。

違うのに、魂の本質は全く違わない。

前世で、親の愛情を知らずに育った私を、本当の娘のように愛してくれた義母上。

あの、品があって、やさしくて、少しだけ茶目っ気があって、いつも私の味方でいてくれた方。

そのあたたかい空気が、目の前の女性に、確かに寸分違わず宿っていた。

そしてその女性が、フッとやさしく目を細めた。

「あら」

「……」

「もしかして、あなたが瑠衣さん?」

「は、はいッ!」

私は反射で、軍人のように背筋をピンと伸ばした。

「藤咲瑠衣と申します! 本日はお休みのところお招きいただき、誠にありがとうございます!」

そして、思わず、前世の公爵令嬢として仕込まれた最も美しい 最敬礼(カーテシー) の角度で、深々と礼をした。

現代日本で、彼氏の実家の玄関先でするには、たぶん少しばかり礼が深くて重すぎた。

「まあ」

女性――九条さんのお母様が、驚いたように目を丸くし、それからクスリと微笑ましく笑う。

「本当に綺麗なお嬢さんね。そんなに堅苦しく緊張しなくていいのよ」

「……」

「ねえ、柊介」

「何だ」

「この子、とても礼儀正しくて、可愛いわね」

「……そうだな」

「ッ……!」

ああもう。

いきなり、開幕からそれですの?

親御さんの前で、そんな素直に「可愛い」と自然に肯定なさるのですか、あなたは。

私はその場で、赤面して少しだけ目を白黒させた。

だが、限界化している場合ではなかった。

奥の廊下から、もう一人、重厚な足音が近づいてくる。

「来たか」

低く、腹の底に響くような、穏やかな男の声。

現れたのは、九条さんによく似た、背の高い恰幅の良い男性だった。

白いシャツに上質なカーディガンという気負わない休日の服装なのに、ただそこに立っているだけで、妙に場の空気がピリッと締まる。

きちんとした人だ。

厳格そうで、不器用そうで、それでいて、瞳の奥底の芯のところに深い『やさしさ』が見える。

その目を見た瞬間。

「――ッ」

私は、本気で泣き出しそうで危うかった。

あの目だ。

前世の、私の尊敬する義父上。

寡黙で、少し不器用で、でも、心の底では息子のクライス様も、嫁の私も、孫たちも、誰よりも不器用に溺愛してくれていた、あの大好きな方の目そのものだった。

「柊介」

「父さん」

「こちらのお嬢さんが?」

「……ああ」

九条さんが、繋いでいた私の手を、エスコートするように軽く引く。

「藤咲瑠衣さんだ。俺の会社の秘書室で働いている」

そして。

ほんの少しだけ照れを隠すように間を置いて、真っ直ぐに続けた。

「俺の、大事な恋人だ」

「ッ……!!」

だめですわね。

正面からその真剣な『大事な恋人』という紹介、だいぶオタクの心臓への火力が致死量ですわね。

玄関先で血を吐いて即死するかと思いましたわ。

私は、どうにか弾け飛んだ理性を総動員し、もう一度、今度は現代人らしく深く頭を下げた。

「藤咲瑠衣と申します」

「……」

「本日は、お忙しい中お時間をいただき」

「……」

「本当に……」

そこまで言って。

危なかった。

本当に、前世の記憶に引っ張られて、危うく。

「……お父様、お母様――」

と、呼びかけそうになった。

「ッ!」

私は、慌てて口を噤み、言葉を無理やり飲み込んだ。

だめですわ。

だめですわよ私。

それはさすがに、結婚もしていない初対面の彼氏の実家でやってはいけない、ただの『ヤバい重い女』ですわよ!?

「瑠衣さん?」

お母様が、言葉に詰まった私を見て不思議そうに首を傾げる。

「は、はい」

「どうしたの? 具合でも悪い?」

「いえッ!」

私は秒速で、誤魔化しの完璧な営業スマイルを作った。

「少々、初めてのご挨拶の緊張で、頭の中の語彙が迷子になりまして」

「まあ」

お母様が、私の素直な焦り方に、またフフッとあたたかく笑う。

そして、お父様の方は、私の顔をじっとしばらく見つめたあと、ぽつりと不思議そうに言った。

「……お嬢さん、初めて会った気がしないな」

「ッ……!」

やめてくださいまし。

そのセリフは、涙腺崩壊ボタンなのでだめですわ。

だって、私も魂の底から、全く同じことを思っておりますもの。

◇ ◇ ◇

案内された広いリビングは、やはり九条家の質実剛健な雰囲気によく似ていた。

落ち着いている。

上質だ。

だが、客に見せつけるような嫌味な派手さは一切ない。

本棚の整然とした並び方も、ソファの座りやすい位置も、季節の花のさりげない飾り方も、全部が生活に寄り添って程よくて、静かに整っている。

「……」

私はソファの席へ着くまでの間、胸に手を当てて何度も深呼吸した。

落ち着きなさい。

今の私は、九条さんの『恋人』であって、前世の『嫁』ではない。

初対面の義両親へ、再会の感動の涙を流して抱きつくタイミングではない。

まだ違う。

今は、現代日本の“彼氏の実家に初めて挨拶しに来た、少し緊張気味の彼女”を演じるのだ。

「お茶と、少しお菓子をどうぞ。柊介の好きなやつなの」

お母様が柔らかく言う。

「ありがとうございます。いただきます」

私は美しい所作で微笑んだ。

運ばれてきたお茶菓子を見て、私はもう一度、オタクの涙腺が危うくなった。

シンプルな焼き菓子。

柑橘の香りが少しだけする。

甘すぎず、でもバターの風味が品よくまとまった、大人な味。

前世で、義母上がよく「クライスはこれくらいの甘さが一番好きなのよ。内緒よ」と私にこっそり勧めてくださった手作りのお菓子と、系統がそっくりだったのだ。

「……ッ」

「瑠衣さん?」

「はい」

「お口に合わなかったかしら? 大丈夫?」

「いえ、大丈夫です。とっても美味しいです」

私は、どうにか泣きそうなのを堪えて笑顔を保つ。

「ただ」

「……」

「大変、彼に似合う、彼らしい素敵なお茶菓子だと感動しておりました」

「まあ!」

「よかった」

お母様は、私が息子の好みを完全に理解していることに、本当に嬉しそうに笑った。

ああ。

その笑い方。

本当に、前世と全く同じで似ていらっしゃるのですわね。尊いですわ。

◇ ◇ ◇

最初の会話は、ごく普通のアイスブレイクだった。

仕事での関係性のこと。

出会い(最終面接)のこと。

いつから付き合っているのか。

九条さんが会社でどんな様子で働いているのか。

……ええ。

途中までは、とても平和で普通だった。

「へえ」

お父様が、腕を組んでお茶を飲みながら、静かに言う。

「あの仕事人間の柊介が、自分から『恋人』として実家へ連れてくるとはな」

「……」

「うちにとっては、珍しいどころの騒ぎじゃない。明日雪が降るかもしれん」

「そうなのですか」

私は思わず、九条さんを見ながら聞き返してしまった。

「ええ、そうなのよ!」

お母様が、我が意を得たりと楽しそうに頷く。

「この子、小さい頃から変に大人びてて、何でも自分一人で片づけるでしょう?」

「……」

「他人に弱みを見せたり、人へ頼るのが絶望的に下手で」

「……」

「自分が本当に大事にしているものほど、絶対に他人になかなか見せないし、隠すのよ」

「母さん」

九条さんが、たまらず低い声で制止する。

「何?」

「余計なことは言うな。恥ずかしい」

「事実でしょう? 瑠衣さんにも知っておいてもらわないと」

「……」

ああ。

はい。

その不器用な秘密主義の辺りも、本当に昔から変わりませんのね。

私は、思わず口元を押さえてフフッと笑った。

だめですわ。

それだけで、推しが愛おしくて胸があたたかくなる。

少々困りますわね。

「でもね」

お母様が、まっすぐ私の瞳を見て言う。

「今日、瑠衣さんを見ていたら、母としてよく分かるわ」

「……」

「この子が、あなたをどれだけ大事に、特別に思ってるか」

「ッ……!」

私は、本気で飲んでいた紅茶を吹きそうになった。

「母さん」

「だってそうでしょう?」

「……」

「今日は、さっきからずっと、あなたが無意識に瑠衣さんの隣を気にして、目で追ってるもの」

「……」

「しかも」

お母様は、ニコニコと悪戯っぽく追撃する。

「今朝なんて、『あいつが来るから、茶葉はあれを出してくれ』って、ちょっと落ち着かなかったし」

「ッ……」

私は思わず、隣に座る九条さんを見た。

九条さん、無言。

だが、耳が真っ赤に茹で上がっている。

ああもう。

本当に。

親御さんの前でも、その分かりやすい反応なのですか。

何ですのその、無言で図星を肯定して照れてしまう不器用なスタイルは。可愛すぎますわ。

「……」

「……」

「何ですの、社長。朝から落ち着かなかったのですか?」

私は、どうにか平静を装って、わざとらしく問う。

「……いえ、違う。誤解だ」

お母様は、私たちのやり取りを見て、ひどくやさしい目で笑った。

「よかったなって、本当に思うのよ」

「……」

「この子が、あなたみたいな素敵な、ちゃんと好きな人を連れてきてくれて」

「ッ……」

だめですわ。

そのやさしい言い方は、だめですわ。

だって、まるで。

まるで前世で、親のいない私が初めてこの家へ嫁いできた日に、あの方たちが涙ぐんで言ってくださったのと同じ、深いあたたかい温度なのだ。

「瑠衣さん?」

お父様が、今度は少しだけ低い、心配そうな声で呼ぶ。

「はい」

「……泣くほどのことか?」

「……ッ」

私は慌てて、ポロリと溢れた涙を指で拭い、目元を押さえた。

「い、いえ、違いますわ」

「いや、完全に泣いてるな」

九条さんが、ハンカチを差し出しながら静かに言う。

「気のせいです。ゴミが入りましたの」

「そうは見えない。目が真っ赤だぞ」

「少々」

私は、真っ赤な顔で真顔で言った。

「公式からの『愛情の供給』が多すぎるだけです」

「……また、お前のそのオタクの言い方か」

九条さんが、やれやれと額へ手を当てる。

だが、お母様は、オタク用語の意味がよく分からないまま「ふふっ、おもしろいお嬢さんね」と笑っているし、お父様もなぜかほんの少し、嬉しそうに口元が緩んだ。

ああ。

はい。

この、よく分からなくても“困惑しながらも、私のすべてをあたたかく受け入れてくださる感じ”まで。あまりにも、私の大好きな前世のご両親らしいですわね。

◇ ◇ ◇

その後、一緒に食卓を囲んだ食事の席では、さらに涙腺が駄目だった。

九条家の夕食は、豪華絢爛な派手さはないのに、素材を活かした一品一品がひどく丁寧だった。

和食中心で、味つけはホッとするように落ち着いている。

それもまた、前世の義両親との食事風景と少し似ていて、私は何度も「懐かしい」という感情の処理へ失敗しかけた。

そして何より。

「柊介」

お母様が、ごく自然に言う。

「瑠衣さんのお皿、そっちからだと取りづらいでしょう。あなたが取ってあげなさい」

「……あぁ」

「自分でできますわ」

私は反射で遠慮して言った。

「できますけれど」

お母様はニッコリ笑う。

「こういうのは、男の人にやってもらう(甘える)のも、女の子として大事なのよ」

「ッ……」

言い方。

その少しお節介な言い方も、本当に義母上らしくてだめですわね。

九条さんは、小さく息を吐いてから、私の前へ料理を取り分けて寄せた。

自然だ。

あまりにも、息をするように自然だ。

前世でも、この方は結婚後、私が忙しい時など、何でもない顔でこういう世話焼きを不器用にしてくださったのだ。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「……ッ」

今、どういたしましてって、やさしくおっしゃいました?

親御さんの前だから、見栄を張っているのですの?

それとも、休日彼氏モードだからですの?

私はまたしても、尊さに胸元を押さえるしかなかった。

すると、お父様がぽつりと、不思議そうに言った。

「瑠衣さん」

「はい」

「君」

「……」

「初めて来たはずなのに、うちに馴染むのが早すぎないか」

「ッ……!」

その問いは、鋭い急所だった。

私はしばし固まり、それから、言葉を選んで慎重に答える。

「……そう、見えますか」

「ああ」

「……」

「初対面特有の、お客様のぎこちなさが、君には少ない」

「……」

「悪い意味ではない。図々しいわけじゃない」

「……」

「むしろ」

お父様は少しだけ目を細め、やさしく言った。

「初めからこの家にいるみたいに、妙にしっくり来る」

ああ、だめですわね。

それは、私も魂の底から、まったく同じことを思っておりますのに。泣いてしまいますわ。

「父さん」

九条さんが、私を庇うように少しだけ咎めるように言う。

「何だ」

「彼女を面接みたいに詰めるな」

「詰めてない。ただの感想だ」

「詰めてるように聞こえる」

「だが」

お父様は、私の顔を見たまま言う。

「瑠衣さんが、俺の言葉に困っているようには見えんが」

「……」

「むしろ」

「……」

「少し、嬉しそうだ」

「ッ……」

完全に、図星でしたわね。

私は、言葉に詰まりながら、それでも誤魔化さずに正直に答えた。

「……はい」

「……」

「少し」

「……」

「いえ、だいぶ」

「……」

「そう言っていただけて、嬉しい、です」

お母様の目が、やわらかく、本当の娘を見るように細まる。

お父様も、私のその真っ直ぐな言葉に、それ以上は何も詮索しなかった。

その代わり。

お母様が、フッと笑って言った。

「じゃあ、いつでも、また来てね」

「……」

「今度は、もっと家族みたいに気楽に」

「……ッ」

ああ、もう。

それをやさしい声で言われた瞬間。

私は本気で、立ち上がって五体投地で拝みそうになった。

「は、はいッ!」

私は勢いよく、涙声で頷く。

「ぜひ! 何度でも!」

「……」

「必ず!」

「……」

「お、お父様、お母――」

「瑠衣」

九条さんが、低く、しかし鋭く止めた。

「……ッ」

「今、感極まって、何て言いかけた」

「……」

「俺の聞き間違いか?」

私は、そっと両手で口元を押さえた。

ああ。

限界突破して、やってしまいましたわね。

いくら何でも、初対面で「お父様、お母様」は重すぎますわね。

お母様は一瞬キョトンとし、それから、なぜかパァッと嬉しそうに笑った。

お父様も、さすがに少しだけ驚いて目を見開いている。

「……あら」

お母様が、小さく、満更でもなさそうに言う。

「その呼び方、それも、悪くないわね」

「母さん、調子に乗らせるな」

「だって」

お母様は、楽しそうに九条さんを見る。

「なんだか、この子にそう呼ばれても、すごく昔から呼ばれてたみたいにしっくり来るもの」

「……」

「不思議ねえ。ねえ、お父さん?」

「……」

お父様まで、腕を組んで低く一言。

「……たしかに。悪くない」

「父さんまで。いい加減にしろ」

「……」

ああ。

はい。

もうだめですわ。

この九条家、あまりにも、あまりにも私の愛した前世そのままで、居心地が良すぎますわ。

◇ ◇ ◇

帰り道。

九条さんの運転する車の中で、私は助手席でしばらく黙っていた。

嬉しさと、感動と、公式からの供給過多で、胸がいっぱいでちょっと言葉が出なかったのだ。

隣でハンドルを握る九条さんが、夜の道路を見つめながら低く言う。

「……どうだった」

「……」

「行く前は、あんなに死にそうな顔で緊張していた割には」

「……」

「よく喋っていたし、笑っていたな」

「……」

「むしろ、俺より母さんの方が、お前を娘みたいに気に入ってたな」

「……」

「父さんも、初対面の相手にあんなに最初から空気が柔らかいのは、珍しい。奇跡だ」

私は、そこでようやく、張り詰めていた糸が切れたように小さく息を吐いた。

「……だって」

「何だ」

「とても、やさしかったのですもの」

「……」

「涙が出るほど、懐かしいくらいに」

九条さんが、信号待ちで一瞬だけこちらを見る。

「懐かしい?」

「……」

私は少しだけ迷った。

でも、彼にも、ご両親にも、嘘はつきたくなかった。

「はい」

「……」

「初めて会った気が、全然しませんでした」

九条さんは、しばらく何も言わなかった。

やがて、前を向いたまま、ぽつりと静かに返す。

「……俺もだ」

「ッ……」

ああ。

だめですわね。

今日は、最初から最後まで、どうしてこう、私のオタクの魂に刺さることばかり起こるのでしょうね。

私は窓の外の流れる夜景へ視線を逃がしながら、小さく、幸せに笑った。

今世で初めての、恋人の実家へのご挨拶。

それは、ただ緊張して取り繕うだけの、形式的な時間ではなかった。

時を越えて。

名前を変えて。

世界を変えて。

それでも、また出会えた『私の大好きな家族の気配』へ、静かに泣きそうになるような、あたたかい時間だった。

――ええ。

今世でも、あの方たちに愛されるハッピーエンドの予感しか、いたしませんわね。