作品タイトル不明
第110話 逆上したアーサーの刃。推しが私を庇った日
公開記者会見は、表向きには“大成功のうちに無事に終了した”はずだった。
まばゆいフラッシュの嵐を背に、会場の壇上から降りた後も、記者たちの興奮したざわめきと怒号はやまなかった。だが、それはもう勝者である私たちへ向けられたものではない。
カメラのレンズもマイクも、その半分以上は、自ら掘った墓穴の底で顔面蒼白になり立ち尽くす有栖川玲央――アーサー・テック社長と、腰を抜かして泣き崩れかけたミレンへと、残酷に向けられていた。
「社長、藤咲さん。では、こちらへ」
広報責任者の案内で、私たちは会見場奥の静かな控室へ向かって歩き出していた。
九条CEO――私の最愛のクライス様は、相変わらず乱れのない、静かな足取りだった。
全国ネットの生配信で、卑劣な相手を完膚なきまでに合法的に叩き伏せ、 社会的抹殺(ざまぁ) を遂げた直後だというのに。その横顔には、驕りも、浮ついた色も少しもない。
ただただ冷たく整っていて、ひどく、暴力的なまでに美しい。
ああ。
本当に。
こういう修羅場(断罪)を越えた直後ほど、推しの 顔面偏差値(オーラ) がカンストして上がるの、一体どういう理屈ですの? 生命の神秘ですわね。
「藤咲」
低い、極上の声が落ちる。
「はい」
「また、仕事とは全く関係のない変なことを考えてるな」
「失礼ですわね」
私は即座にポーカーフェイスを作り、真顔で答えた。
「本日の社長も、最高にお強く、そして世界で一番お美しいと、秘書として再確認しただけです」
「……たった今、何百万人の前で会見を終えた直後だぞ。少しは緊張感を持て」
「だからこそです」
「……」
「修羅場を越えた今の社長のフェロモン、普段の三割増しで火力が高いのでは? 直視すると目が潰れますわ」
九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。
でも、その整った耳の先が、ほんの少しだけ照れたように赤い。
ああ、ええ。
そういう可愛らしいところは、前世から相変わらずですのね。
法務責任者が、少し前を歩きながら呆れたように肩越しに言った。
「二人とも」
「何でしょう、部長」
「いくら大勝したからといって、今はまだ少し緊張感を持ってくれ。完全に気を抜くのは会社に戻ってからだ」
「ありますわ」
私は即答した。
「大変に、限界レベルの緊張感(胸の動悸)が」
「その涼しい顔で?」
「ええ、仕事用の完璧な平常心の仮面ですので」
「君の言うことは、どうも信用しづらいな……」
冗談めかして言ったものの、実際、バックヤードの空気はまだ弓の弦のように張り詰めていた。
念のために配置された警備員が増員されている。
会見場の出入り口も、報道陣の混乱を避けるために一部規制が始まっている。
アーサー・テック側の関係者(敗者)たちは、すでに我々とは別の裏導線へ誘導されているはずだった。
そう、完全に隔離されているはず、だったのだ。
◇ ◇ ◇
控室までは、会見場の横手にある、少し薄暗い短い通路を抜ける必要があった。
人払いはされている。
だが、完全に無人というわけではない。
ホテルのスタッフが数名、急ぎ足で機材を運んでいる。
記者の残党も、少し離れた位置で、まだ興奮冷めやらぬ様子で何事か話していた。
私はヒールを鳴らして歩きながら、すでに頭の中で「次の手」を理路整然と整理していた。
会見後の、株主向けの公式リリースの配信タイミング。
関係各社への事後説明の順番。
法務部と連携した、有栖川とミレンに対する損害賠償と刑事告発の次の手。
そして、追い詰められたミレン側からの、SNSでの追加暴発(逆ギレ)リスクへの対応。
「本日中に」
私は手元のタブレットを見つめ、小さく呟いた。
「相手のすべてのSNSアカウントの削除請求ラインまでは、証拠を固めて詰めますわね」
「何だ」
九条CEOが、私の呟きを拾って低く問う。
「有能な秘書の独り言です」
「それにしては、だいぶ物騒で不穏だったぞ」
「業務上の意味で、です」
「徹底的に息の根を止めることを、不穏と言うんだ」
その、時だった。
背後から。
張り詰めた空気を、暴力的に引き裂いて弾けるような、異様な気配がした。
「ふざけるなぁっ!!!!」
獣のような、怒鳴り声。
私は、反射的に振り返った。
そこには、鬼の形相をした有栖川玲央の姿があった。
高級なネクタイは無様に緩み、セットされた髪は乱れ、血走った目は異常に充血している。
理性の最後の糸まで完全にブチ切れているのが、その歩き方ひとつで一目で分かる。
その醜く歪んだ顔は、まさに前世の断罪の場で何度も見た、“自分の非を認めず、他人に責任を押し付けて追い詰められた王太子アーサー”そのものだった。
「……ッ!」
まずい。
私がそう思考した瞬間には、彼はもう、狂ったようにこちらへ向かって走り出していた。
「全部、お前のせいだ!!」
憎悪に塗れた怒声とともに、右手が大きく振り上がる。
ギラリ、と。
薄暗い通路の照明を反射して、銀色の光が見えた。
ナイフ。
そんな物騒なものを、一体どこからこの会見場へ持ち込んだのかなど、論理的に考えている暇はなかった。
「あぶな――!」
法務部長の悲鳴のような声がした。
数メートル先にいた警備員も、顔色を変えて動いた。
でも、間に合わない。圧倒的に遅い。
有栖川の血走った視線(殺意)の狙いは、九条CEOではない。
私だった。
視線が、真っ直ぐにこちらへ向いている。
すべてを失った絶望と、逆恨みの怒りと、己の無能さの責任のすべてを、私(秘書)という存在へぶつけて終わらせるつもりの、狂人の目だ。
その一瞬で。
私の脳内に、前世のトラウマが、最悪の形で蘇った。
――振り下ろされる、冷たい刃。
――私を庇って立ち塞がる、大きく広い背中。
――自分へ向けられた理不尽な悪意。
――そして、その悪意の前へ、少しの迷いもなく踏み込んでくる、私の最愛の推し。
「……ッ、だめ――!」
私は、喉が裂けるほど叫んだ。
叫んだ、はずだった。
だが、私の口から出たその声は、かすれて音にならず、自分でも驚くほど弱々しかった。
身体が、1ミリも動かなかった。
ここは今世のオフィスでも、現代日本の会見場でもない。
前世の、あの血生臭い光景の感覚が、一瞬で現在の視界を上書きする。
クライス様が、私を庇って傷つく。私のせいで、血を流す。
あの、心臓を素手で握り潰されるような恐怖。
あの、息が止まるような痛み。
それが、逃げるという理屈より先に、全身を縛り付けて凍らせたのだ。
そして。
「藤咲!!」
鼓膜を打つ低い声が、すぐ耳の近くで響いた。
次の瞬間、私は強い力で肩を引かれていた。
視界が、大きく斜めに揺れる。
九条CEOの大きな身体が、私の小さな身体を庇うように、完全に前へ出る。
ほとんど、無意識の反射だった。
思考して判断するより先に、彼の『騎士としての魂』が、私を守るために動いていたのだ。
――ザクッ。
肉を裂く、鈍くて生々しい音。
「……ッ!」
世界から、音が消えた。
時間が、スローモーションのように完全に止まった気がした。
有栖川の無軌道に振り下ろしたナイフは、九条CEOの左腕を浅く、だが確かに、容赦なく切り裂いていた。
白いシャツが、一瞬遅れて、じわりと生々しい赤色に染まっていく。
「社長!!」
広報責任者が絶叫する。
警備員たちが弾かれたように飛び込み、有栖川の身体を床へ叩きつける。
ナイフが乾いた音を立てて床へ転がり、周囲の人間が一気に騒然となる。
でも、私には、その後の喧騒なんて、何も聞こえなかった。
ただ、耳鳴りだけがガンガンと鳴り響いている。
私の視界に見えていたのは、ただ一つ。
私を庇ったせいで、私の最愛のクライス様が傷つき、血を流した。
その絶望的な光景だけだった。
◇ ◇ ◇
「……ッ、や、だ……」
自分の声が、海の底から響くように、ひどく遠く聞こえる。
九条CEOは、顔をしかめ、すぐに右手で自分の左腕の傷口を強く押さえた。
動脈には達していない。致命傷ではない。
傷口も、命に関わるほど深くもない。
それは、冷静に見れば分かる。前世で数え切れないほどの戦傷を見てきた私には、分かるはずなのだ。
分かるのに。
だめだった。
理性が、完全に吹き飛んでいた。
「藤咲」
九条CEOが、痛みを堪えながら、いつもの落ち着いた低い声で呼ぶ。
「……」
「怪我はないか。無事か」
「……」
「俺を見ろ、藤咲」
「……」
「お前は、どこか切られてないか?」
……何を言っているのだ、この人は。
傷ついたのは、あなたでしょう。
痛い思いをして庇われたのは、何の役にも立たなかった私でしょう。
血を流しているのは、あなたなのに。
なのに、どうして自分の傷より先に、私の無事を必死に確かめるのだ。
前世も、そうだった。
今世でも、全く同じだった。
記憶がなくても、あなたは必ず私を庇い、そして私を心配する。
「……ッ」
息が、うまく吸えない。過呼吸のように喉がヒューヒューと鳴る。
視界の端で、警備員に取り押さえられた有栖川が、なおも醜く喚いている。
「離せ!! 離せよ!!」
「全部あいつのせいだ!! あいつが俺をコケにしたんだ!!」
「俺は悪くない!! 悪いのはそいつだ!!」
「そいつが全部悪いんだ!!」
ああ。
ええ。
本当に、変わりませんのね。
最後の最後まで、自分が悪いとは少しも思わない、その腐りきった魂まで、そっくりですわ。
今すぐ私の手で八つ裂きにしてやりたい。
でも、そんな復讐のことなど、今の私にはどうでもよかった。
私は、ただただ、九条CEOの押さえた腕を見た。
赤い。
おびただしい血。
ここは今世の、平和な現代日本の、安全なはずのホテルの通路。
その白いシャツの上へ滲む赤色なのに。
私の頭の中では、前世の血生臭い戦場で彼が流した血の色と、完全にオーバーラップして混ざり合っていく。
だめですわ。
やめてくださいまし。
そんなふうに、また、私を庇ってあなたが傷つくなんて――
「藤咲!!」
今度は、もっと強く、すぐ目の前で呼ばれた。
ハッとして顔を上げる。
九条CEOが、血の滲む傷を片手で押さえたまま、残った手で私の肩を掴み、真っ直ぐに私を見ていた。
「……俺の目を見ろ」
その、低くて力強い声だけが、混乱する世界の中で、不思議なくらい鮮明に私の魂へ届いた。
「大丈夫だ」
「……」
「傷は浅い。問題ない」
「……」
「お前は? 本当に無事か」
「……ッ」
私は、そこでようやく、自分の身体がガタガタと異常なほど震えていることに気がついた。
指先。
肩。
彼を見つめる瞳。
立っている膝。
全部が、細かく、コントロールを失って震えていた。
言葉が出ない。
喉が塞がったように痛くてつまる。
胸の奥が、ギリギリと締め付けられて痛い。
前世と同じだ。
同じなのだ。
私は、強くなったつもりでいたのに。
現代日本なら、彼を安全な場所で完璧に守り抜けると思っていたのに。
私は、また、いざという時にこの人に庇われて。
また、この人が私のせいで傷ついて血を流すところを、ただ見ていることしかできなかった。
「……や、だ……」
気づけば、ボロボロと、そんな無力な言葉が零れていた。
「何がだ。痛むところがあるのか」
九条CEOの声は低い。
でも、どこまでも不器用で、やさしい。
やさしすぎて、自分の情けなさが余計に苦しい。
「社長が……」
「……」
「また……私を庇って……」
「……」
「わたし、の、せいで……っ」
そこまで言った瞬間。
前世の記憶のフラッシュバックが、完全に現代と重なった。
――クライス様が、私を守るために前へ出る。
――冷たい刃のきらめき。
――飛び散る血。
――庇われる私。
――守られる私。
――そして、自分はただ恐怖に凍りつき、何もできない。
「……ッ、ぅ、うぅ……」
涙が、ボロボロと勝手に頬を伝って落ちた。
秘書としての完璧なポーカーフェイスを保とうとしても、無理だった。
大粒の涙が一粒落ちた瞬間、そこから先はもう、ダムが決壊したように、どうしようもなく溢れ出し続けた。
「藤咲」
九条CEOが、泣き崩れる私を、もう一度低くやさしい声で呼ぶ。
その声が、妙に私の耳に近い。
ああ。
そうか。
この人、自分の腕から血を流して怪我をしているのに、まだ私の方へ身体を寄せて、意識のすべてを私へ向けているのだ。
どうして。
どうして記憶のない今世でも、そんなふうに。
そんなふうに、自分の命を投げ打ってでも、私ばかり守ろうとするのだ。
ずるいですわ。
◇ ◇ ◇
「救急車を手配しました!」
「止血用のタオルを! 早く!」
「ホテルの医療班、急いでこっちへ!」
周囲は、怒号と悲鳴が飛び交う、完全にパニックの修羅場だった。
警備員が有栖川を取り押さえたまま、床へ強く押し下げている。
法務部長が、顔色を変えながら警察へ電話をかけている。
広報責任者は、騒ぎを聞きつけて殺到しようとする記者たちを、必死の形相で押し留めている。
どこかで、自分の引き起こした事態に怯える、ミレンの悲鳴みたいな汚い泣き声も聞こえた気がする。
でも、私には、そのすべてが遠い世界の出来事のようだった。
「藤咲」
九条CEOが、右手で血の滲む傷口を押さえたまま、もう片方の大きな手を、震える私へ伸ばしてくる。
「……」
「怪我はないな。無事か」
「……ッ」
「答えろ。お前の声で聞かせろ」
「……はい。無傷、です……」
私はやっとの思いで、嗚咽を噛み殺しながらそれだけを絞り出した。
それを聞いた瞬間、九条CEOの強張っていた広い肩から、フッと少しだけ安堵したように力が抜ける。
その「自分が傷ついても、お前が無事ならそれでいい」という行動を見て、私は余計に大声で泣きたくなった。
この人は。
本当に。
自分が刃物で傷ついて血を流しているのに、自分の痛みより先に、私の無事を聞いて安心するのだ。
それが、前世と全く同じで。
魂の在り方が、何一つ変わっていなくて。
こんなの、今世で好きになり直すどころではない。
むしろ、前世よりもっと深く、もっと重く、どうしようもなく私の魂の奥底まで刺さるに決まっている。
「大丈夫だ。そんなに泣く必要はない」
九条CEOが、私を落ち着かせるように再び言う。
「……」
「血の見た目ほど深くはない。数針縫えば終わる傷だ」
「……」
「だから、泣くな」
「……むり、です……」
自分でも驚くくらい、震える弱い声だった。
限界オタクの武装が完全に剥がれ落ちた、ただの『瑠衣』の声だった。
その瞬間。
九条CEOの蒼い目が、ほんの少しだけ、大きく揺れた。
あら。
そんな顔も、なさるのですわね。
私の涙に驚いたような。
どう慰めればいいのか困ったような。
でも、どうしようもなく、泣く私のことを世界で一番大切に気にかけている、切なそうな顔。
前世でも、私はこの不器用な顔に、とてつもなく弱かった。
今世でも、やっぱりだめだった。勝てるはずがない。
「社長!」
法務部長が、血相を変えて駆け寄る。
「救急車が到着しました! 下の搬入口へ!」
「分かった」
「藤咲さんも、顔面蒼白だ」
「……」
「一緒に救急車へ乗って、付き添ってください!」
私は、すぐには「はい」と答えられなかった。
恐怖とトラウマで、足の震えが止まらず、まだうまく動かないのだ。
すると。
九条CEOが、怪我をしていない方の大きくあたたかい手で、私の震える細い手首を、優しく、けれど絶対に逃さない強さで軽く掴んだ。
「来い」
「……」
「トラウマで一人で立てないなら、なおさらだ。俺から離れるな」
「ッ……」
だめですわね。
そんな。
血を流している側の怪我人が、そんな甘い声で、そんなふうに力強く手を引いてエスコートするなんて。
前世でも、今世でも、圧倒的なスパダリすぎて反則ではありませんこと?
私は震える足に力を込め、彼の手の温もりにすがるように、どうにか一歩を踏み出した。
救急隊員が慌ただしく走ってくる。
ストレッチャーが見える。
会見場の外は、警察も到着してまだ騒然としている。
でも、その怒号の飛び交う混乱の中で。
私の視界に映る世界は、ただ一つだった。
今世でも。
この人は、その身を挺して私を庇った。
そして私は、また、彼に守られるだけだった。
その無力な事実が、胸の奥へギリギリと痛いほど刺さって。
彼が流した血の匂いに、涙は後から後から止まらないのに。
それでも、彼に引かれたこの右手を、一生離したくないと強く願ってしまう身勝手な自分が、どうしようもなくそこにいた。
――前世と同じく、自分を庇って最愛の推しが傷つく。
――その悪夢みたいな残酷な現実が、今世でも、私の抱えるトラウマを容赦なく抉り、同時に彼への『重すぎる愛』を再確認させていくのだった。