軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三百九十六話『信を置く者と置かれる者』

頬を冷たい風が殴りつけ、喉を枯らせる。宿を出る前にもう一杯くらい水を含んでおくんだったと後悔していた。もう後戻りはできないというのに。

軒先の影を飛び越えるようにして、兵を引き連れ街道を進み行く。周囲からは随分な喧噪が芽吹き初め、知らず知らずの内に心臓が音を速めていった。

恐らくは兵達も皆俺と同じような感情を抱いてはいるのだろうが、誰も一言も発しない。今は何を思おうと、ただ前へ前へと進むしかなかった。

何せ好機という奴は一瞬だ。そうして一度でも逃せば容易く目の前から消えて失せる。兵士稼業をしている人間は、それを骨髄から理解しているのだろう。

爺さんが立てた火と共に奴らの足元へ潜り込むという作戦は、一応の成功を見せたようだった。すでに魔獣共が支配下に置くはずの街並みが、今は静まりを帯びている。誰も彼もが何らかの対応を迫られているのだ。

今ならば、十分王宮へと足を向けられる。かつて王宮なぞ近づくことも許されなかった俺のような庶民が、魔性の支配下にあってようやく王宮に踏み入れるというのはおかしな気分だった。

紋章教とガザリアの兵達の足音だけが周囲を打つ。肺にため込んだ空気を吐き出すと同時、傍らで碧眼が動いた。

「……カリアは、とても怒ると思うよ。それはもう豪雨のようにね」

エルディスが言う。辟易するというか、呆れたような声だった。彼女らしい言いぶりだが、何が言いたいかはよく分かった。

少数行軍の中、ちらりと後ろを見渡せば何時もの銀と黒の姿が見えないのがすぐわかる。

フィアラートに関しては途中から別行動を取ってもらっているだけだが。カリアに関しては違う。少しばかり強制的に休息を取って頂いている。

「療養中の重傷者様に無理矢理前線まで出てきてもらうのかよ。冗談だろう」

頬を歪め、声を張らずに言う。なるべく兵には聞こえぬようにした。

先の魔人との一戦で、カリアは両手両足を抉り抜かれろくに動けるような様子じゃあない。ただの人間であるなら手足そのものが永遠に使えはしないだろうというほどだ。実際俺が手伝わねば一人で夕食も食えやしなかった。

そんな相手を戦場に出せるわけがないだろう、そう言うと、エルディスは碧眼を一瞬外側に向けてから口を波打たせる。

「だろうね。それでも怒るよ。僕が同じ立場でも憤激するし、哀しむ。君に置いて行かれるのはもうたくさんだってね」

妙に実感の籠った言葉が胸に絡みついてくる。碧眼は俺を貫いて、そのまま空にでも飛んで行ってしまいそうな鋭さだった。曲りなりも行軍中だというのにも関わらず、沈黙は許さないという雰囲気をエルディスは背負っていた。

カリアの事でエルディスに問い詰められるのは二度目だなと、ふと思う。ガザリアのあの時も、カリアと離れようとした際に似た事を言われたのだったか。おかしなことに、遠い昔の日の事のようでいて、つい昨日の夜であった気すらした。

思考の端にそんな事を思い出しながら、口を開く。懐かしき偉大なる王城が、もう視界にはっきりと見え始めていた。

「信用、いや信頼さエルディス。信頼するからこそって行動もあるもんだろう?」

あの獰猛とも言える性格に似合わず聡いカリアの事だ。俺が彼女を眠らせたままにした理由や取った行動の意図くらい、軽く見抜いてくれる事だろう。そうしてそれに合わせた行動もしてくれるはずだ。それ位彼女は賢い。

ああ、それにだ。

もし全てが駄目になって、俺がただの泥のように死んでしまっても。ただの土くれになったとしても。

彼女が生きているならまだ何とかしてくれるのではないか。そんな淡い想いがあった。それは、フィアラートにも、そうしてエルディスにも抱く想い。

どうにも、未だかつての頃の想いが完全に抜けきってはいないらしい。彼女らは、俺にとって多種多様な感情を抱く存在でありながら、それでもやはり焦がれたる英雄なのだ。

全ては俺がやらねばならぬ事なのだとは分かっている。もう俺はそれだけの事をしでかしてしまったのだから。

それでも少しばかり、そんな夢見心地な憧憬を抱くくらいは許されるだろう。

エルディスはへぇ、と返事をしてから。唇を尖らせて言う。

「じゃあ僕はどれくらい信頼してくれているのかな。是非聞きたい所だねルーギス」

肩を竦め、目線だけを合わせながら応えた。碧眼が朝日に照らされその輝きを確かなものとしている。

「言うだろう、どれくらいと言えるような信頼は信頼じゃあないのさ――エルディスッ」

名を呼んだ、瞬間。咄嗟に足を止める。視界に光りが見えていた。

次に来たのは、轟音と光の雨。

左右を覆う建物から、魔術矢が通りに降り注ぐ。とめどなく、ただの一人も生かさないというように。まるでそれがそのまま殺意の塊のようですらあった。

◇◆◇◆

呆気ない。

そう言って過言は無かった。馬の下半身を持つ魔獣ヴェルグは、その強靭な下半身を岩板に叩きつける。静まり返った戦場痕をじぃと見つめていた。土煙が吹き上がっているが、抵抗の様子はまるでなかった。

人間とはやはり脆いものだとそう感じる。

彼らは魔術矢の嵐の中立ち向かう事が出来ない。腕を一度もがれれば殆どその機能を停止させる。多くの者がのろまで、咄嗟に動くという事が出来ない。

彼の主人は人間が強くなったと言ったが、やはりヴェルグにはその意味がどうにも分からなかった。

彼の経験上、人間が恐ろしいのは群れを成した時だけだ。単体で見るならこれほど狩りやすい生物もない。ヴェルグはそう易々と人間に敗北せぬ自負があったし、事実それだけの力と知恵を持っていた。

太く筋肉質な腕を軽くあげ、建築物の二階部分に潜ませた部下達に合図を送る。その最中、僅かに罪悪感に近しいものがヴェルグの胸に走った。

当然、人間達に対してのものではない。己の主に対してのものだ。

――城市を荒らそうとするものを相手せよ。王宮へ向かう人間への手出しは許さない。

彼の主の命は其れ。その命令に従うのであれば、今この場で王宮に向かう道を駆けていた人間共を相手にすべきではなかった。

だが如何に取るに足らぬ人間といえど。主の手を煩わせるような真似は避けたい。其れがあの宝石との闘争を控えているのであればなおさらだ。ヴェルグは嘶くように蹄を鳴らす。

魔人と魔人との闘争に身を乗り出せるほど、魔獣という存在は強くない。もし統制者と宝石がその血肉を食い合ったならば、己は何も出来ぬだろうとヴェルグは知っている。

だからこそ、己は己の出来ることをやるべきだ。主の助けとなるべき事を。其れが例え、命に反する事になったとしても。

大量の魔術矢により舞い上がった土煙が収まった頃、散々となった死体が落ちているであろう箇所へ視線を這わせる。その中に、あの人間がいるかどうかを確かめる為だ。

忌々しくも主の命を狙い、それでいてまんまと逃げ失せた人間。緑色の衣服を纏った、凶相の剣士。主に敵対するのであれば、奴だろう。

土煙の中を覗き込むようにした瞬間、ヴェルグは気づいた。大きな眼が見開き、ぐるりと動く。

死体がない。血も、そうして肉片すらも。人が死んだ形跡が欠片もない。

動揺と混乱が脳内を荒れまわる。だがそれを収めることすら許さずに、声は聞こえた。

「――よく怨んでくれ」

本当に聞こえたのかは分からない、幻聴だったのかもしれない声。殆ど気配すら感じぬ背後から其れは来た。空間を断絶する残響音。刃が軽快に空から滑り落ちる音。

避けなければならない。そんな余りに強烈な直感がヴェルグの頭蓋を殴りつける。

いいや、駄目だ。避けられない。かといって受けきれるのか。

渦を巻く葛藤と焦燥を噛み殺しながら、ヴェルグは両脚を蠢動させる。その最中にも、死の予感というやつがヴェルグの心臓を鷲掴みにしていた。

ヴェルグが意を決したように、四本の脚で大地を打ち付ける。巨体が大きく跳ね、躍動した。紫電が追随しその肉を食らわんと顎を開く。

悍ましいほどの血飛沫が、宙を舞った。