作品タイトル不明
第百十二話『英雄に焦がれる者』
そう、実に簡単な話だ。
一人の感情のために、組織そのものを危険に晒す。それほどに馬鹿らしいことはない。全くの同意だとも。
それゆえに、軽挙は許されないと、そう聖女マティアは言った。
ああも釘を刺さずとも、俺とてそのような事はしたいと思えない。そんな事は、周囲に迷惑を振りまくだけの、考えなしの馬鹿のする事だ。
であるからこそ——行動を起こすのであれば、俺一人で動けば良いわけだ。
夜の闇が空間を埋め尽くし、大地という大地を寝静まらせている時間。瞳をぎろりと動かしながら、街道を睨み付ける。噛み煙草を口に含ませ、鼻孔を心地よい匂いが通り抜けるのを感じていた。馬の蹄が、街道の整備された石畳みを叩く。
周囲には、誰もいない。誰も連れてきてなどいない。思えば最近、随分と周りが騒がしすぎた。かつての頃には、考えられないことだ。
この夜の妙な静けさが、心臓をも涼し気にさせ、気持ちを落ち着かせていく。
懐かしい。妙な懐かしさすら覚えるじゃあないか。そうだ、俺という人間は、詰まる所どこまでいっても、一人でしかなかった。誰かに手を差し伸べられることも、共に道を行くことも、ありはしなかった。
それが今はどうだ、カリアにフィアラート、エルディス。かつて自らが英雄と羨望し憎悪した存在が、俺なんぞの傍にいるという歪な状況。
それに、かつて受けた仕打ちを思い出してみろ。彼女たちは俺の怨敵であり天敵だった。
踏みつけにされ、尊厳を砕かれ、僅かながらにもっていた意地すら唾棄された。憎むべきだ、この胸は、あの英雄たちに業火を浴びせるほどの憎悪を覚えて良いはずだ。
ああ、だというのにこの矮小な胸の内には、喜色がある。こみ上げるような充足感と、肌をひりつかせるようなどうしようもない快感があった。
かつて英雄とそう羨望した彼女らに、少なからず認められたというその事実が、瞳の端に涙すら浮かばせる。
だが、同時に、心の奥底、最奥にはこべりつような震えがあった。
震えの正体は、かつて己を蔑み足蹴にした存在に、少し認められたからといって心を弾ませてしまような己の矮小さ。そうして結局、俺自身は何ら変わるものではないという怯えだ。
そう、俺自身、かつての頃から一体なにが変わったというのだ。性根も、そのあり方も、何一つ変わっていない。かつて一人で見張りに出て、噛み煙草を慰めに現実から目を逸らし、ただ一日一日を無為に食いつぶしていたころと、何一つ。
ゆえに、俺はいずれ見放される。失望と侮蔑を一身に受け、彼女らから突き放されることだろう。
そんな事は、よくわかっている。今俺がここに在れるのは、少しばかり悪知恵を働かせただけに過ぎない。先の事を僅かながら知っている、それが功を奏しただけだ。
だが、そんな矮小な身であればこそ、俺は変わらねばならないのだろう。
ラーギアスは、エルフの老王は言った。誰かを乗り越えていったものには、その誰かを乗り越えただけの責任があるのだと。踏み越えて尚、安寧な道を歩けると思うなと。
その言葉が、未だ大きな釘となって俺の心臓を抉りぬいている。その傷口からは焦燥という血があふれ出し、困惑を作り出している。
俺は、紛れもない矮小な人間だ。それはよくわかっているし、何度も飲み込まされた事実だ。
だが、それでも、それでも尚、何かを成したいのならば。英雄の首に指を届かせんとするならば。英雄に焼かれるほどの憧憬を抱くならば。
俺も、彼らと肩を並べられる存在に——それこそ英雄に、ならねばならない。
ああ、なんとも含羞だ。恥に口内で頬を噛み切ってしまいそうだ。
英雄などと。俺のような人間が。きっと彼らが平然と歩く道を、俺は傷だらけになりながら歩かねばならないのだろう。彼らが当然に成すことを、俺は血を流して行わねばならない。それが、凡人が英雄へと手を伸ばすということだ。
噛み煙草に歯を食いこませ、吐息を漏らす。もう、息が白い。
そうして、英雄に焦がれを抱き、手を届かさんとするならば、あそこに、ガルーアマリアにもたれかかっていては、駄目だ。
あそこには、剣を以て英雄と成ったカリアがいる。魔術を以て英雄となったフィアラートがいる。そうして、紋章教の英雄たるマティアがいる。
何とも、素晴らしい。きっとガルーアマリアは、そう易々と落ちはしない。もはや俺が何もせずとも、歴史と同じ道をたどることはないだろう。
このままあそこに留まれば、きっと彼女らが全てを成してくれると思ってしまう。英雄が、全ての事を片付けてくれると期待してしまう。
ガルーアマリアの奪取も、空中庭園ガザリアの陥落も、その要所には彼らがいた。結局、俺がした事といえば、精々その手を引いたくらいのこと。ああ、全くいやになる。
であればこそ、惰性のままガルーアマリアに留まることはできない。留まり続けたいのであれば、証明するべきだ。己が一人でも、事を成せる人間であると。そうして問わねばならない。己を英雄足らんとするならば、一体何を以て、英雄となるのかを。
だから今回の、傭兵都市ベルフェイン、その関与は、良い機会だと思った。
奴らは間違いなく、俺たちの事を甘くみていやがる。見くびっていやがる。だからこそ、こんな同盟案など持ちかけてきているわけだ。
勿論、奴らとて馬鹿なわけじゃない。こちらがそう易々と同盟など結ぶわけがないと理解している事だろう。
となれば、当然にベルフェインはガルーアマリア内部に間者を含ませているはずだ。
思惑としては、内部での意見を対立させ、煽り、果てには決裂させる事。ガルーアマリアという巨象を、その内部から食いつぶそうと画策していると思われる。
マティアとしてもそういう部分を理解していたからこそ、アンに内部の調整を指示していたわけだ。
ベルフェインが最も自信を持っているものはその都市としての武力。奴らはこちらが軽々に攻め込めないと理解している。だからこそ、じわじわとこちらの首を絞め落とそうとしているわけだ。武力を持っているくせに、なんとも厭らしい戦い方だことで。
冷たい息が、喉を通り過ぎる。熱くなった身体を、冷却しようとでもしているようだった。街道の上に馬を走らせながら目を細める。
ベルフェインの首魁は、あの男だったか。小太りで、常に人を見下したような目つきをしている、あの。よく知っている。男も、街の事も、よく知っているとも。
何せあの街にはよくよく、世話になった。それこそ嫌というほどに。だから本当に、此れは良い機会だ。
周囲には誰もおらず、英雄の力は此処にない。もはや事は俺一人で成すしかない。
宵闇の中に視線を滑らせながら、唇を噛む。大いに結構。単独行動など慣れたものさ。むしろ今まで周囲に力がありすぎる方が異常だったようなもの。
もう、心に決めている。腹の中には重い鉄のようなものがあり、ぴくりとも動こうとはしない。
今回の、傭兵都市ベルフェインの件は、俺一人で片をつける。それが出来ないのなら、所詮俺は、俺のまま。かつての頃と同じ何も持たぬ身で終わる。
その時は死ねば良い。潔く、溝の底にでも死体を晒せば良い。その時は限りなく、迷惑をかけぬように死んでやろう。
英雄になろうとするならば、それくらいの事はせねばなるまいよ。この事を聞けばカリアやフィアラートに何を言われるか分かったものではないが、お叱りなら地の底にいった時に存分に聞いてやろう。
——何、もう筋書きというやつは、劇の脚本の如く浮かび上がっている。後はそれが愚作か傑作かというだけのこと。
月が、雲の影からその姿を現した。今日ばかりは、その光が妙に眩しい。
夜の闇を、馬が蹄を鳴らす音だけが支配していた。