作品タイトル不明
第百十一話『組織の長』
「正直を言えば、意外でした。声を失う程度には」
夜の帳が落ちきり、もはや後は再び太陽がその瞳を開くのを待つだけとなった頃、執務室の中でマティアが囁いた。俺は資料、というよりガルーアマリア周辺の地図に視線をやりながら、眠気眼を瞬かせる。
噛み煙草からにじみ出る僅かな苦みで眠気を晴らし、何がですかね、と唇を動かす。眠気からか、上手く声にならなかった気がした。
「貴方は、何か事があれば常に危ない方へと足を踏み出す、そういう性質だと理解していましたから」
随分と酷い言いぶりだ。
別に俺はそう好戦的というわけでもなく、必要でない戦いまで望んだ覚えはとんとないのだが。ただ、極々、自分勝手な目的の為に戦場の土を踏んだ覚えだけは確かにあったが。
「言いたいことは、分からんでもないですがね。否定できる材料もそれほどない」
だがそれゆえに、今回の同盟のお誘いになんと応えるか、なんてのは簡単だ。あっさりと、答えは出てくる。
マティアは目の前の羊皮紙に視線を向けたまま、声を漏らす。その間にも、ペンはインクをつけて疾走を続けていた。
器用な事だ。話すか、それとも作業を行うか、一つにすれば良いものを。ふぅ、と噛み煙草の匂いを吸った吐息を、執務室に吐き出す。唇が、冷たい。
「ええ、どうせ――同盟を受けると、そう応えると思っていたのですが」
別段、ガルーアマリア、紋章教のベルフェインに対する返答が確定したわけではない。ただ、俺個人としては、そんなもの決まり切っていると、そう言っただけ。
当然に、同盟なぞ拒否だ。
罠に決まっているではないか、そんなもの。例え魔術印があろうと同じ事。人が誰かに対して頭を垂れるというのは、それこそ自分が何も持たなくなった時、他に縋れるものがなくなった時と決まっている。
未だ十分な余力を持ちながら、それでいて優勢とも呼べる地位にありながら、こちらに手を差し伸べてくるなどというのは、それはよほどの信念の持ち主か、精々悪魔のなりそこないといった所。
そうして、あの都市、ベルフェインの首魁に関しては、前者である事はあり得ない。それこそ、絶対に。
肩を竦めながら、一度天井を見つめて瞼を瞬かせ、疲れ果てて息も切らしていそうな瞳を休める。瞳だけではない、脳髄も久方ぶりの酷使に熱を溜めきり、頭蓋骨と頭皮を引き裂いて出てきそうなほど。
やはりどうにも、こういった書籍などから静かに何かを学び取る、という事は性に合わない。
一つ知識とやらが思考に入ってくるたび、脳がそれを飲み下すのに随分と時間がかかる。何度も噛みほぐし、味付けをして放り込んでやらねば、とてもではないが喉に触れさせることすら遠慮すると言ってくる。自分の頭だというのに、随分と融通がきかないものだ。
それに、もう一つ要因をあげるなら、開けた図表や地図が正確すぎて、情報量が多すぎる。
流石、此の周辺一体の中心都市且つ、東西の物資の集積地であっただけはあった。ガルーアマリアに保存されていた地図には、大から小に至るまでの街道と、地平のうねりまでも詳細に記載されている。
普通に売られている地図などは、大きな街道一本でも描かれていれば御の字だ。
なるほどガルーアマリアが紋章教の聖地となるのがよくわかる。文化と物資が集まる此処は、まさしく、知識の集積地でもあるという事。ただ、それを真に役立たせるのには、恐らくマティア、もしくはフィアラートほどの頭脳が必要なのだろうが。
ぱたりと、地図表を閉じる。どうにも、俺にはこれ以上は続きそうもない。
途端、その様子を見咎めるように、マティアが唇を尖らせた。
「おや、もうお終いですか。よくありませんね。ようやく、貴方も物事を学ぶという事の尊さを理解し、紋章教の教えの一端を歩みだしたのかと思ったのですが」
この聖女様とくれば、視線はずぅっと目の前の羊皮紙に向かっていると思えば、どうやらこちらの事もしっかりと監視していたらしい。嫌な人間だ。
確かに、知識を拝借したいと、執務室の書籍を読む許可を申し出たのは俺に違いはないのだが。それでもやはり元からの資質というものがある。モノを学ぶ為の下地とでも言えばいいのだろうか。
この身は大聖教様のおひざ元、しかも裏街で幼少期を過ごしてきたわけで。そんな低劣な庶民にはモノを学ぶどころか、本なんぞに触れる機会すらあるわけがない。
習った事といえば、精々が孤児院でナインズさんに教えられた読み書きくらいのもの。むしろそれでも、幸運な方と言える方だろう。
むしろそれ以上に、人は何処に財布の袋を潜ませるのか、油断している人間はどんな様子なのかと、そういう事に関してはよくよく学ばざるを得なかった。まぁ、何、それは少し違う話だ。
「学ぶのは聖女様に任せてるのさ。俺は最低限で十分でね。どうだい、ベルフェインへの返答は」
意趣返しとでもいうように、唇を軽く割って声を吐き出す。
流石の聖女様も、同盟への答えとなれば少しは言葉に詰まってくれると思ったのだが、まるで俺の浅はかさをあざ笑うように、あっさりとマティアは口を開く。
「決まっています、同盟など有り得ません。余りに思惑が見え透いた偽計ではないですか。出来る事なら、あの場で使者を切り捨てたかったほどです」
マティアの指先が、ペンを走らせ羊皮紙に文字を書き記していく。先ほどから、ずっとその調子だ。だというのに全く気力が衰えた様子などなく、毅然とした声でそういった。まるで本当に、全て最初から決めていたと、そういうようだった。
言葉を続けるように、マティアは瞳を細める。
「ですが、組織の長としてそれはできません。それに本来であれば、表向きは同盟を。腹の内では敵とみなす、それが一番なのですが」
それは、紛れもなく確かだろう。
特に、同盟を申し入れて来た相手を無碍に追い返したとなれば、紋章教というより、此のガルーアマリアの勢力自体に不審を抱かれる。それは、余りよろしくない。この先、真に紋章教へと下ってくる相手がないとも限らないからだ。
で、あればこそ、本来は同盟を喜んで、両手を広げて快く受け止め、そうして腹の底では敵と切り捨てておけばよい。
なるほど、それが至極妥当だろう。俺達が強固かつ、崩れる姿も見えない一枚岩の勢力で、且つ相手を示威できるだけの戦力を有するなら、という条件がつくが。
全く以て残念ながら、そうはいかない。
紋章教の中にあって尚、従いつつも腹の内ではマティアに反感を抱いているやつなど数え切れぬほどという話であるし、戦力も未だ万全とは言い難い。
その勢力の中に、敵としてではなく、同盟国としてベルフェインが噛みついてきてみろ。いらぬ野心や二心を持つものが、必ず現れるというものだ。
相手に対し、十分な戦力差があればそんな事も防げるが、ガルーアマリアとベルフェインの戦力に差は殆どなく、むしろ傭兵国家として名を馳せるあちら側の方が随分と有利なんじゃないかと思わせる。
駄目だな、やはり、敵とするしかない。罠にかかった振りをして、敵の喉元を食いちぎるなどという方法は、余りにも危険すぎる。個人でならともかく、組織として取るべき手法じゃあない。
「ですが、ルーギス。余り先走った事は言わないように。未だ紋章教の中には、同盟を組むべきではないか、という考えもあるのです」
誰もが、マティアのように打算や計算のみで結論を出せるわけではない。当然に、もしかするともしかするならば、これは素晴らしい好機なのではないか、と考える輩も当然に出てくる。
なるほど、彼らを無碍にして無理やりに同盟案を蹴ってしまえば、それはそれで不具合がでるというわけか。全く、組織の長というのは面倒なものだ。
「組織として具合が悪くならないよう、アンに意見の誘導をお願いしています。あの子は調整役として非常に優秀だ、全てとは言わずとも、不満が噴出しない程度には、調整してくれるでしょう」
ですから貴方も、妙なことは口走らないように。そう釘を刺すようにマティアは言って、一枚、羊皮紙を書き上げたようだった。
何とも、酷い言いぶりだ。フィアラートにしろマティアにしろ、俺を聞き分けのない餓鬼だとでも勘違いしているのではないだろうか。
よく、理解しているとも。俺一人であればともかく、組織として感情を優先させなどすれば、それこそ自ら地獄の深い穴の中へ周囲を巻き込んで落ち込んでいくようなもの。
だから、そう、簡単な事だ。俺は噛み煙草を口から離しながら、ゆっくりと、吐息を漏らした。