軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

05.

ミリアが治療院に来て、十日が経った。

朝の準備が終わる頃にはもう待合室が整っていて、患者が来れば名前と症状を手際よく記録して渡してくる。薬の受け渡しも、在庫の管理も、気がつけば自分から動くようになっていた。

ガルドが薬棚を整理しながら、ぼそりと言った。

「別人みたいだな」

「仕事ができる方でしたから」

トーコが答えると、近くで記録をつけていたミリアが顔を上げた。

「聞こえていますよ」

「聞こえるように言っています」

ミリアが少し、照れくさそうに視線を逸らした。

ガルドが目を細める。辺境伯の使用人として派遣されてきたはずの娘が、今では誰より早く治療院の戸を開けている。人というのは変わるものだ、とガルドは思った。

午後の診察が一段落した頃、戸を叩く音がした。

ミリアが対応に出て、そのまま固まった。

「……閣下」

「入っていいか」

ライナルトだった。騎士団長を連れず、一人で来ている。ミリアが慌ててトーコのところに駆け込んできた。

「先生、閣下がいらしています」

「通してください」

「あの……閣下がご自分でいらっしゃるのは、普通ではないんですよ」

耳打ちするミリアに、トーコは少し首を傾げた。

「そうなんですか」

「屋敷に呼びつけるか、使いを寄越すのが普通で……ご自分で来るなんて、私、初めて見ました」

「そういうものですか。どうぞ、と伝えてください」

ミリアが何か言いたそうな顔をしたが、戸口に戻った。

ライナルトが診察室に入ってきた。

外套を脱ぎ、椅子に座る。所作に無駄がない。

「縫合部位の経過確認に来た」

「拝見します」

トーコは傷を確認した。魔力視を開くと、組織をめぐる魔力が均一に広がっている。

「ほぼ完治です。動かしても問題ありません」

「そうか」

ライナルトが治療院を見回した。開院当初より棚が増え、器具が整然と並んでいる。待合室から、患者たちの穏やかな声が聞こえてくる。

「随分、様子が変わったな」

「患者が増えましたので」

「ミリアもよく動いている」

「優秀な方ですよ」

ライナルトが少し、口元を動かした。笑ったのか、そうでないのか、判然としない。

「あいつが自分から動くのは、珍しい」

「そうなんですか」

「屋敷では、言われたことだけやる子だった」

トーコは器具を片付けながら、言った。

「ここでは、言われる前にやることがたくさんありますから」

ライナルトが、少し間を置いた。

「……居心地がいいのだろう」

それだけ言って、視線を窓の外に向けた。

診察が終わり、トーコは少し考えてから口を開いた。

「閣下、一つ提案があるのですが」

「なんだ」

「定期的な健康診断をされてはいかがですか」

ライナルトが、静かにトーコを見た。

「健康診断?」

「はい。病気や不調は、症状が出る前から体の中で始まっています。自覚がない段階で見つければ、対処がずっと簡単になります」

「……そういうことができるのか」

「血液検査と魔力視を合わせれば、ある程度は」

ライナルトが腕を組んだ。

「治癒師には、そういう診方はできないと聞いたことがある」

「治癒魔法は、出た症状を抑えることに長けています。出る前には使えません。私の診方は少し違います」

トーコは続けた。

「この街の辺境伯が倒れれば、困るのは街の人たちです」

ライナルトが、わずかに目を細めた。

「……私の言葉を返されたな」

「参考にしました」

一拍の間があった。

ライナルトが、今度ははっきりと口元を緩めた。低く、短く、笑った。

廊下の向こうで、気配が動いた。

「聞こえてた……!」

ミリアがガルドの袖を引いた。こそこそと、しかし目が輝いている。

「先生、閣下に言い返してる。怖くないんですか、あの人」

「先生は誰にでもああだ」

ガルドがお茶を一口飲んだ。

「患者に貴賎はない、らしい」

「……すごい人だ」

ミリアが廊下の壁にもたれ、小声で呟いた。診察室の中からは、静かな会話が続いている。

「閣下もなんか、あそこだと普通の人みたいな顔してる」

「そうだな」

「……なんでかな」

「さあな」

ガルドは薬棚に向き直った。

「では、今日やってみますか」

トーコが言うと、ライナルトが少し表情を変えた。

「今日か」

「準備はできています。時間はありますか」

「……ある」

「では始めましょう」

トーコは器具を取り出した。細い針、ガラス管、遠心分離の機械。ライナルトがそれを、静かに眺めた。

「指先に少し刺します」

「構わない」

針を当てた瞬間、ライナルトは眉一つ動かさなかった。血がにじむ。ガラス管に取って、機械にかける。

「これは……」

「血液を分離しています。上の層が血漿、下が赤血球です」

ライナルトが、初めて見るものを見る目で管を眺めた。

「血が、分かれる」

「回転させることで成分が分離します。次に試薬を混ぜます」

血漿に一滴。色が変わっていく。ライナルトが、その変化を黙って見ていた。

「色が変わる……これが、何を示すのか」

「成分によって反応が違います。栄養状態、炎症の有無、臓器への負担。色の濃淡で読み取ります」

「……魔法ではないのに、魔法のようだ」

「知識と観察です」

血液検査の後、トーコは魔力視を開いた。ライナルトの体内を流れる光を、丁寧に確認していく。

臓器の色は健康だ。血管の流れも淀みがない。戦場で鍛えた体は、それだけ頑強だった。

ただ、一箇所。

「睡眠が足りていません」

ライナルトが、僅かに表情を動かした。

「……わかるのか」

「疲労の蓄積が見えます。夜に回復しきれていない色をしています」

「辺境の守護は、休む暇がない」

「それでも」

トーコは顔を上げた。

「休まなければ、体が先に限界を迎えます。今は問題ありませんが、このままでは数年で影響が出ます」

ライナルトが黙った。

しばらく、静かだった。

「……わかった」

「数年後でなく、今から少しずつ改善してください。劇的な変化は必要ありません。一日に少し、眠る時間を確保するだけでいい」

「医師の命令か」

「お願いです」

ライナルトが、また口元を動かした。

診察が終わり、ライナルトが外套を手に取った。

「定期的に来い、ということか」

「月に一度、来ていただけると助かります」

ライナルトが少し間を置いた。戸口の方を向いたまま、低い声で言った。

「……来てもいいか」

トーコは少し、首を傾げた。

「患者さんはいつでも」

「患者としてではなく」

短い沈黙が落ちた。

トーコは視線を手元の器具に向けた。頬が、少し熱い気がする。

「……診察以外の理由で来る方には、お茶くらいは出せます」

ライナルトが静かに頷いた。

「では、また来る」

立ち去り際に、振り返らずに言った。

「体に気をつけろ」

トーコが顔を上げたときには、もうその背中しか見えなかった。

扉が閉まった瞬間、廊下からミリアが飛び込んできた。

「聞こえていました……! 先生、今のって」

「診察の話です」

「絶対違います!!」

ミリアが両手で口を押さえ、それでも目が笑っている。

「お茶を出せますって……先生、それ、わかってて言いましたよね」

「器具の片付けを手伝ってください」

「もう……!」

ミリアが笑いながら動き出す。ガルドがお茶を一口飲んで、何も言わなかった。

肩の上でシルフィが「きゅ」と鳴いた。

魔力視に映るのは、温かくて、少し意地悪な翠の光だ。

——何が言いたいのかは、今日も聞かないことにした。

トーコは次のカルテを手に取り、窓の外に一度だけ目をやった。

デッドエンドの夕暮れが、石畳を橙色に染めていた。