軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

44.

八宝斎のアトリエに寄ったのは、ガーゼの追加発注の件で話があったからだった。

扉を開けると、八宝斎が作業台の前で頭を抱えていた。

「どうしたんですか」

「トーコちゃん、もーたいへーん」

「何がですか」

「うれちゃって」

「……売れた、ですか」

「そう。活版印刷だけじゃなくて、生理用品も。やっばい売れたの。王都まで話が広まって、注文が来て。あたし、こんなに商売する気なかったのに」

八宝斎が、机の上の書類の山を見た。

「いや、お金はいらないんだけどねー。別に」

「そうなんですか」

「うん。おばあちゃんがすごい人でさ、残してくれたお金がたっぷりあるから。それで普通に暮らせちゃうんだよね。だから別にお金のためじゃなくて、ただ作るのが楽しいから作ってるだけで、売れるのは嬉しいけど、管理が大変で」

奥から足音がした。

タカトが、お盆を持って出てきた。

湯気の立つお茶が二つ、乗っていた。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

「おいしいよ、ダーリンのお茶」

トーコが一口飲んだ。

確かに、おいしかった。

「ぺこっ」

タカトが静かに頭を下げ、また奥へ戻った。

八宝斎が幸せそうにお茶を飲んだ。

「はぁ、おいしい。こういうのがあるから、頑張れるんだよね」

「そうですね」

「トーコちゃんは、そういうので食っていくつもりはないんだよね。お金とか商売とか」

「ありませんね」

「やっぱり」

八宝斎が、お茶を置いた。

「トーコちゃん、ちょっと聞いていい」

「どうぞ」

「人の命を救うことばかりしてるじゃん」

「そうですね」

「それはいいんだよ。すごいと思ってる。でもさ……トーコちゃんって、そのマシーンじゃないんだよね」

「マシーンではないですが」

「わかってると思う? 自分では」

「わかっていますよ」

「ーいえ、わかってないですね」

八宝斎が、ぱしっと言った。

「仕事人間だよ、トーコちゃん。いつも仕事のことしか考えてないじゃん」

「患者がいますから」

「そうじゃなくて」

八宝斎が、少し改まった声で言った。

「おばあちゃんがね、言ってたんだよ。口癖みたいに」

「何と言っていましたか」

「仕事ばっかりしちゃだめ、って。人生に彩りを与えるのは……」

「与えるのは?」

八宝斎が、両手で小さなハートを作った。

「恋愛よ♡」

「帰ります」

「待って待って」

八宝斎がトーコの腕を掴んだ。

「笑い話じゃなくてさ、本当に言ってたの。おばあちゃん。それで、私にも会うたびに言ってきて。当時は恥ずかしかったけど、今は思う。正しかったなって」

「リフィアにはタカトさんがいますから、おばあちゃんが正しかったんでしょうね」

「そうなの。だから、トーコちゃんにも言いたいの」

八宝斎が、真剣な顔で続けた。

「結婚したい、って話が来てる人とかいないの?」

トーコが少し間を置いた。

「……居ないわよ」

「本当に?」

「居ません」

「実はちょっとそういう話が来てるの、知ってる?」

「……はぁ」

「知ってたじゃん。どうなの? 誰かいいなって思う人いないの?」

「下世話ですよ」

「えー、なんだよう」

「リフィアって、こういうの好きですよね。乳母さんの影響ですか? 耳年増というか」

「耳年増って……そういう言い方する!?」

「合っていますよね」

「まあ……あながち否定できないけど。でも、いいじゃないですか恋愛の話。女同士で」

「はいはい」

「えー、もうちょっと話そうよ」

「帰ります」

「ちょっと! 誰か気になる人くらいいるでしょ!」

「いません」

「本当に?」

「本当に」

「うそだー」

「帰ります」

トーコが立ち上がった。

「また来ます。ガーゼの追加は、先週お伝えした通りでお願いします」

「わかった。でも、また話そうね」

「用事があるときに来ます」

「そういうこと言うんだから……」

八宝斎が、ため息をついた。

アトリエを出て、街の通りを歩いていると、前からライナルトが来た。

巡察の帰りらしく、騎士が一人ついている。

「先生」

「閣下」

「こんなところで。どこかに寄っていたのか」

「八宝斎のアトリエです。ガーゼの追加発注の件で」

「そうか」

ライナルトが少し、トーコを見た。

「……何か、あったか」

「何かとは」

「顔が少し、赤い」

「別に何も」

「そうか」

少し間があった。

「……何の話をしていたんだ」

「ガーゼの話です。あと、売上の話とか」

「売上」

「活版印刷と生理用品が売れているらしくて。それと、おばあちゃんの話とか」

「おばあちゃん」

「リフィアの前世の。それと……あとは、まあ、色々」

「色々とは」

トーコが少し、目を逸らした。

「結婚の話とか」

ライナルトが、止まった。

「……結婚」

「リフィアが、そういう話が来ていると言っていて」

「先生に、か」

「はい」

ライナルトが、少し間を置いた。

「……結婚するのか。私以外の男と」

静かな声だった。

トーコが、ライナルトを見た。

「はぁ……?」

「いや」

ライナルトが、軽く咳払いをした。

「その、何と言うか」

「しませんけど」

「そうか」

「話が来ていると言われただけで、そんな気はありません」

「そうか」

「……良かったですか?」

「良かった」

ライナルトが、前を向いた。

「良かった……?」

トーコが、もう一度言った。

ライナルトが答えなかった。

ただ、少し歩調を落として、並んで歩き始めた。

トーコは、ライナルトの横顔を少し見た。

魔力視を薄く開くと、深い青の光が見えた。いつもより、少し揺れていた。

——そういうことか、と思った。

思ったが、言わなかった。

シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。

魔力視に映るのは、温かくて少し意地悪な翠の光だ。

——今日は聞かなかったことにする、とは思えなかった。

トーコは前を向いた。

頬が、少し熱かった。