軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

31.

グレーヴが帰ってから、しばらく静かだった。

書類も来なかった。使いも来なかった。直接やってくる者もいなかった。

ミリアが「もう諦めたんですかね」と言った。

「そうは思いません」

「なぜですか?」

「諦める人間の顔ではありませんでした」

その言葉通り、十日ほどして、噂が流れ始めた。

噂の内容は、こうだった。

デッドエンドの治療院の医師は、魔力がないにもかかわらず人体に刃物を入れる危険な行為を行っている。治癒魔法を否定し、協会の権威を無視し、患者を実験台にしている。後遺症が出た患者もいるとかいないとか。信頼できる医師に診てもらいたければ、天導協会の正規の治癒師のもとへ。

そういう内容が、王都の方から流れてきた。

ミリアが、街で耳にして治療院に飛び込んできた。

「先生……! 悪い噂が流れてます……!」

「知っています」

「知ってたんですか」

「そういう手を使うだろうと思っていました」

「どうするんですか」

「何もしません」

ミリアが目を丸くした。

「何もしないって……放っておくんですか」

「患者を診続けます。それだけです」

噂が流れてから最初の朝、トーコは待合室を確認した。

いつも通りの顔が並んでいた。

鉱夫の常連、子供を連れた母親、老人、若い冒険者。誰も、いつもと変わらない顔で待っていた。

トーコが出てくると、鉱夫の男が言った。

「先生、なんか悪い噂が流れてるらしいが」

「聞きましたか」

「聞いた。で、信じるやついるか? って話だよな」

男が、鼻で笑った。

「俺は五年間、腕が痛くて困ってたのを先生に治してもらった。その俺に、先生が危ないって言ってみろ。笑い飛ばしてやるよ」

隣に座っていた老人が頷いた。

「わしも同じだ。先生が来る前は、怪我したら治癒師に魔法かけてもらって、それで終わりだった。なんで痛いのかも、なんで治らないのかも、誰も教えてくれなかった。先生は教えてくれる。それだけで信じるに十分だ」

「次の患者を呼んでください」

トーコが言った。

「はい、はい」

ミリアが、少し笑いながら動いた。

噂は王都から辺境に向けて流されたが、辺境の人間には届かなかった。

いや、正確には届いた。しかし誰も信じなかった。

実際に診てもらったことがある者は、自分の経験がある。魔法で治らなかったものが治った。理由を教えてもらった。傷の処置が丁寧だった。そういう記憶が、噂より強かった。

冒険者ギルドの受付の女性が、噂を持ってきた協会の使いに言った。

「デッドエンドの先生のことですか。先生には私もお世話になっています。危ない医師だなんて、笑えない冗談ですね」

市場の商人が、同じ使いに言った。

「うちの娘が熱を出したとき、先生に診てもらって治りました。後遺症なんて出ていません。証拠があるなら見せてください」

鍛冶師の老人が言った。

「先生が来てから、この街で死ぬ人間が減った。それが答えだろう」

使いが戻ってきて、ハルデンに報告した。

「……まったく、なびきませんでした」

「そうか」

「それどころか、噂を持っていくたびに、先生への信頼を確認する結果になっていると申しますか……」

ハルデンが、額に手を当てた。

王都でも、同じようなことが起きていた。

噂を聞いた貴族の何人かが、確認のためにデッドエンドを訪れた。

自分の目で確認しようと思ったのだろう。

しかし彼らが見たのは、朝から患者が並ぶ治療院と、一人ひとりに丁寧に向き合う医師の姿だった。血液検査の仕組みを説明され、魔力視による診断を受け、処置の理由を一から教えてもらった。

帰り際、ある貴族の夫人が言った。

「噂と全然違う。むしろ、今まで診てもらっていた治癒師より信頼できる」

別の貴族が言った。

「後遺症が出た患者がいるという話だったが、診てもらったら、それはうちの者が以前別の治癒師に治してもらったときの後遺症だと言われた。先生はそれを直してくれた」

王都から来た商人が、デッドエンドの宿で隣の旅人に話した。

「行ってみたら、全然違った。あの先生は本物だよ。噂を流した連中の方が、よっぽど信用できない」

その話が、また王都に戻っていった。

シュバルツが、報告を聞いて机を叩いた。

「なぜそうなる……!」

「調べに行った方々が、逆に先生を評価して帰ってくるようで」

「噂を確認しに行って、信者になって戻ってくるということか」

「……そのような状況に」

「グレーヴは何をしている」

「骨折の療養中で……」

「ハルデンは」

「……ハルデン副部長は、デッドエンドの件については沈黙を守っておられます」

シュバルツが、椅子に深く座り直した。

「あの者は何者だ。魔力もない、紋もない、免許もない。何もないくせに、なぜ」

「……先生の記録によれば、治療した患者が一定数を超えたとき、口コミが自走するようになるとか。そういう現象が起きているかと」

「くだらない分析をするな」

シュバルツが、窓の外を見た。

「噂が逆効果になっているということか」

「はい。むしろ、デッドエンドを訪れる患者が増えています」

「……ちくしょう」

低い声で言った。

「何をやっても、あの者の評判が上がるではないか」

「邪魔をするたびに、先生が丁寧に対処されて……それが評判になっていくようで」

「もういい」

シュバルツが、手を振った。

「下がれ」

使いが退出した。

シュバルツは一人、しばらく窓の外を見ていた。

そういえば、グレーヴが帰ってきたとき、こう言っていた。

「処置が、丁寧だった。骨折した私に、患者を選ばないと言って、治してくれた」

シュバルツは、その言葉を思い出した。

——ちくしょう。

デッドエンドで、トーコはいつも通り診察をしていた。

ミリアが「噂、全然広まりませんでしたね」と言った。

「そうですね」

「なんでですかね」

「患者が答えてくれました」

ミリアが、少し考えた。

「先生が患者を大事にしてきたから、患者が守ってくれた、ということですか」

「そういうことかもしれません」

「……かっこいいですよ、やっぱり」

「次の患者を呼んでください」

「はい、はい」

シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。

魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。

工事の音が、今日も窓の外に聞こえていた。