軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

18.

顕微鏡が欲しい、とトーコが言い出したのは、ある朝の診察中だった。

血液検査で菌の存在は推測できる。しかし種類まではわからない。種類がわかれば、薬の選択がもっと正確になる。そのためには、実際に菌を目で見る必要がある。

ミリアが「けんびきょう、って何ですか」と聞いた。

「小さなものを拡大して見る道具です。肉眼では見えないものが見えます」

「そんなものが作れるんですか」

「八宝斎なら、あるいは」

ミリアが「また工房に行くんですね」と言いながら、エプロンを外し始めた。

「ついていっていいですか」

「どうぞ」

工房の扉を開けると、今日も八宝斎は作業台に向かっていた。

緋色の髪が、あちこちに飛び出している。手が油で汚れている。いつもの光景だ。

「あ、トーコちゃん。あとミリアちゃん」

「頼みがあって来ました」

「なになに」

トーコが紙を取り出した。顕微鏡の構造を、前世の記憶を元に描いたものだ。

八宝斎が覗き込んだ。

一秒、二秒、三秒。

「……なるほどぉ」

目が、ゆっくりと輝き始めた。

「レンズを二枚重ねて、光を通して拡大する。これ、魔石の屈折特性を使えばいけるんじゃないかな」

「作れますか」

「作れる。もち」

あっさり言った。

「それと、これも」

トーコが次の紙を出した。スライドグラスの図だ。薄い板状のガラスに、観察対象を薄く伸ばして乗せる。

「これも?」

「できますか」

「できる。薄くて均一なガラス板、うちの工房の得意分野だし」

八宝斎が設計図をじっくり眺めた。

「でもなんで二枚一組なの」

「一枚でサンプルを挟みます。薄く伸ばして固定するために」

「あー、なるほど。つぶして固定するわけね」

「そうです」

「賢い」

八宝斎がすらすらと何かを書き始めた。

「一週間くれる? レンズの精度を出すのに少し時間がかかるから」

「お願いします」

八宝斎が顔を上げた。

「トーコちゃんって、本当に面白いものを持ってくるよね。普通の人が思いつかないやつ」

「前世の知識です」

「欲しいものを言ってくれれば、大抵作れるよ」

「なんでも作れるんですね」

「なんでも、はさすがに無理だよ~」

八宝斎が笑った。

「でも、トーコちゃんが持ってくるやつは、作れるものが多い。設計図がしっかりしてるから」

ミリアが棚を眺めながら言った。

「八宝斎さんって、本当になんでも作れそうですよね」

「さすがに限界はあるってば」

「でもメスも遠心分離機も顕微鏡も」

「うん、まあそれはそうだけど」

「スライドグラスも」

「うん」

「義手も」

「うん」

「輸血の管も」

「……うん」

ミリアが「ほぼなんでも作れる」と言った。

「うふふ」

八宝斎が笑った。否定しなかった。

話が一段落したとき、工房の奥から足音がした。

トーコの記憶にある人物だった。タカト・サクダイラ。背が高く、物静かな雰囲気の男だ。

ミリアに向かって、静かに頭を下げた。

「こんにちは」

「あ、こんにちは……!」

ミリアが少し緊張した様子で返した。

「タカトさん、今日はここにいたんですね」

「八宝斎に、材料を届けに」

「そういえば、タカトさんって普段何をしているんですか」

ミリアが素直に聞いた。

「世直し」

と八宝斎。

「……よ、世直し」

ミリアが少し固まった。

「どんな」

「色々と。今はあまり動いていないの。あ、でも今は……家の手伝いをしてくれてるの」

八宝斎が補足した。

「タカトはね、強くてかっこよくってー。でも今は私の仕事を手伝ってくれてる。材料の調達とか、重いものを運ぶとか」

「じゃあ……お金は」

「私が養ってるの」

間があった。

「え……それって」

ミリアが口をつぐんだ。

「彼はねー、来るべき日に備えている」

「来るべき日……?」

「今は動く時ではない。その時が来れば、動くの!」

ミリアが小声でトーコに囁いた。

「先生、これって……ヒモでは」

タカトが、穏やかに微笑んでいる。聞こえてしまったのだろう。ミリアが赤くなった。

「す、すみません……!」

八宝斎がタカトの腕を取った。

「ダーリンはね、来るべきときに動ける人なの。今はそのための時間。私はそれでいい」

「八宝斎さんは、いいんですか」

「全然。タカトがいてくれれば、それで十分」

タカトが、八宝斎を見た。表情はほとんど動いていない。しかしその目が、確かに柔らかかった。

トーコは二人を見ながら、魔力視を薄く開いた。

タカトの魔力が、視界に映る。

——深い。

普通の人間の魔力とは、色が違う。密度が違う。表には出していないが、その奥に、途方もない量の魔力が静かに沈んでいた。

来るべき日。

それがどんな日なのかは、わからない。来ないに越したことはない、とトーコは思った。

「ミリアさん」

「は、はい」

「タカトさんは、ヒモではありません」

「……どうしてわかるんですか」

「魔力視で、少し」

ミリアが「また魔力視で何かわかったんですね」と言いながら、タカトを見た。

タカトが、また静かに頭を下げた。

工房を出て、帰り道を歩きながら、ミリアがぽつりと言った。

「タカトさん、なんか……すごい人なんですか」

「そうだと思います」

「でも普通に、荷物を運んでいる」

「そうですね」

「不思議な人だな」

スノウが、いつの間にかトーコの隣を歩いていた。朝からどこかに行っていたらしく、今戻ってきたところらしい。

「スノウ、どこ行ってたの」

「ぐ」

短く答えた。

「ぐ、って……何?」

「さあ」

ミリアが「またさあって言う」と言った。

シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。

魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。

トーコは空を見上げた。

来るべき日が来ないことを、少し祈った。

デッドエンドの青空が、今日も広かった。

一週間後、工房から届け物が来た。

箱を開けると、筒状の器具が入っていた。金属と魔石で丁寧に作られている。レンズ部分が、光を受けてきらりと光った。

「じゃーん」

八宝斎の文字で、そう書いてあった。

「良い感じに仕上がったと思う。スライドグラスも入ってる。使い心地を教えてね」

トーコは顕微鏡を光に透かした。

ミリアが横から覗き込んだ。

「これが……けんびきょう」

「そうです」

「何が見えるんですか」

「菌が見えます。今は何も乗せていないので、何も見えませんが」

「菌を乗せたら見えるんですか」

「はい」

「目に見えないものが、見えるようになる……」

ミリアが、しばらく顕微鏡を見ていた。

「先生って、本当に色々なものを見ているんですね」

「どういう意味ですか」

「魔力視で体の中が見えて、血液検査で数値が見えて、顕微鏡で菌が見えて。みんなには見えないものが、先生には見える」

トーコは少し、顕微鏡を見た。

「見えることで、治せることが増えます」

「うらやましいです」

「見えすぎて困ることも、あります」

「……そうなんですか」

「見えたからといって、全部治せるわけでもない。見えるのに、間に合わないこともある」

ミリアが黙った。

「でも」

トーコが続けた。

「見えた方が、いい」

ミリアが、小さく頷いた。

シルフィが「きゅ」と鳴いた。

スノウが戸口で「ぐ」と鳴いた。

ガルドがお茶を持ってきた。

治療院の午後が、静かに続いていた。