作品タイトル不明
第27話 公開謝罪配信
探索者ギルド日本本部から歩いて数分の場所にある、裏路地にひっそりと佇む老舗の洋食レストラン。
アンティーク調のランプが琥珀色の光を落とし、静かなジャズが流れる店内は、都心の喧騒やギルドの殺伐とした空気から完全に切り離された、隠れ家のような空間だ。
ハナは、四人掛けのテーブル席を一人で使い、遅めの夕食をとっていた。
時計の針はすでに午後九時を回っている。
「お待たせいたしました。十種野菜のグリーンサラダと、骨付きチキンの特製スパイスカレーでございます」
「……ありがとう」
初老のウェイターが静かに皿を置き、一礼して去っていく。
ハナは深くため息をつき、目の前の料理に向き直った。連日連夜、あの規格外のキャンプ配信と格闘し続けた胃袋は、もはやコンビニの軽食やゼリー飲料を完全に拒絶するようになっている。
まずはサラダからだ。
よく冷やされたガラスの器に、レタスやベビーリーフ、紫キャベツがふんわりと高く盛り付けられ、赤や黄色のミニトマトが鮮やかな彩りを添えている。
フォークで野菜を刺し、自家製のオニオンドレッシングをたっぷりと絡めて口に運ぶ。
シャキッという小気味良い音と共に、冷水で締められた野菜の瑞々しさが口いっぱいに広がる。すりおろした玉ねぎの甘みと適度な酸味が効いたドレッシングが野菜の青臭さを綺麗に消し去り、疲労した脳にビタミンが染み渡っていく。パリッと焼かれたクルトンの食感も心地よい。
次いで、本命のチキンカレーだ。
純白の丸い平皿の中心に、こんもりと盛られた鮮やかなターメリックライス。その周囲の半分を、深みのある濃褐色のカレールーが満たしている。ルーの中には、スプーンで簡単に崩れそうなほど煮込まれた大きな骨付きの鶏もも肉が鎮座していた。
ハナはスプーンを手に取り、ルーをライスに少しだけ絡めて口に入れる。
「……んっ」
最初に感じるのは、大量の玉ねぎとトマトを極限まで炒め、煮詰めたことによる濃厚な甘みだ。だが、すぐにクミンやコリアンダー、カルダモンといった複雑なスパイスの香りが鼻腔へと抜け、時間差でピリッとした唐辛子の辛味が舌を心地よく刺激してくる。
あの男が作っていた規格外のスパイスカレーには及ばないかもしれないが、これはこれで老舗の洋食店が何日もかけて仕込んだ、奥深い味わいの一皿だ。
スプーンの側面で骨付きチキンを押すと、ホロリと簡単に肉が骨から外れた。
その柔らかなチキンの塊を、ルーとライスと一緒にすくい上げて頬張る。
鶏肉から溶け出す濃厚な脂と肉汁が、スパイシーなルーと混ざり合い、噛むほどに旨味の層が重なっていく。付け合わせの福神漬けの甘酸っぱさが、スパイスの連続攻撃の中で完璧な口休めとして機能している。
ハナは無言のまま、ただひたすらにスプーンを動かし続けた。職務の重圧も、終わりの見えない残業も、この瞬間だけは皿の上のスパイスの香りの向こう側へと消え去っていく。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
空になった皿をウェイターが下げ、食後のカプチーノが運ばれてきた。
純白の陶器のカップに、きめ細かいフォームドミルクがたっぷりと乗せられ、表面にはシナモンパウダーが振りかけられている。
ハナはカップを持ち上げ、ふんわりとしたミルクの泡ごと、熱いエスプレッソを一口飲んだ。
深い焙煎の苦味を、温かいミルクの甘みが優しく包み込み、シナモンの香りが鼻をくすぐる。張り詰めていた神経が、ようやく少しだけ解けていくのがわかった。
一息ついたハナは、無意識の手癖で自身の通信端末を取り出し、D-Tubeのアプリを開く。あの男の配信枠は今はオフラインだが、関連する切り抜き動画や考察は、依然としてランキングの上位を独占している。
特に、今日の昼間に作られた巨大なバウムクーヘンの映像は、すでに数十言語に翻訳され、SNSで凄まじい勢いで拡散され続けていた。
だが、ハナの視線は、急上昇ランキングのトップに躍り出た『現在生配信中』の一つの枠でピタリと止まる。
アカウント名は、「赫き剣」。
配信のタイトルは『大切な仲間を救うために。我々の決意』というものだった。
「……嫌な予感しかしないわね」
ハナはカプチーノのカップをテーブルに置き、その配信枠をタップする。
画面に映し出されたのは、どこかの安宿の一室のような殺風景な背景。
カメラの前に座っているのは、レオンと、盾役の男、魔法使いの女の三人だ。彼らの表情は一様に沈痛な面持ちを作っており、特にレオンは、視聴者の同情を誘うような悲劇の主人公めいた顔つきをしている。
『えー、現在多くの視聴者が集まってくれているようだな。急な配信で申し訳ない』
レオンがカメラに向かって重々しく口を開く。
『俺たちは、数日前に深淵の迷宮の第六十階層で、凶悪な転移トラップの事故に巻き込まれた。俺たちは命からがら生還したが……サポートメンバーであった山本博人が、トラップに飲み込まれてしまった』
レオンはそこで一度言葉を切り、悔しそうに目を伏せる演技を挟む。
『俺たちは彼が死んだと絶望していた。だが、昨日、彼が最深部で奇跡的に生存していることが確認された。俺たちは歓喜したよ。リーダーとして、そして仲間として、彼をあの危険な場所に一人で放置しておくわけにはいかない』
画面越しに伝わってくる、薄っぺらい正義感と美辞麗句。
ハナは呆れ果ててため息をついた。要はあの配信を見て、彼が得ている莫大な富と名声、そして神話級の魔獣に目をつけ、雇用契約を盾にしてすべてを合法的に奪い取るつもりなのだ。
『俺たちが彼を見捨てたなどという心無い噂が流れているようだが、それは事実無根だ。俺たちは彼を助けるために最後まで足掻いたが、ダンジョンの不可抗力で分断されてしまっただけなんだ』
レオンはカメラを見据え、さらに言葉を重ねる。
『ギルドは安全を理由に俺たちを止めているが、仲間の命には代えられない。明朝、俺たちは特例として最深部への突入を決行し、必ず彼を保護して連れ帰ることを、ここに宣言する!』
レオンが熱い口調で締めくくると、隣の魔法使いの女も「必ず助け出します」と涙ぐむような仕草を見せる。
彼らは間違いなく、この配信で視聴者の感動を誘い、自分たちを「仲間思いの英雄」として演出するつもりだったのだろう。
だが。
画面の右側を濁流のように押し寄せるコメント欄は、彼らの期待していた「感動」や「応援」とは、全く次元の違う言葉で埋め尽くされている。
『は? 今更なに言ってんの?』
『人殺し!』
『KOTOの検証動画見ろよ、完全に突き飛ばしてるじゃん!』
『魔力残滓解析ガチだったな』
『サイコパス集団』
『お前らが囮にしたんだろ!』
『ギルドに通報したわ』
『おっさんは今バウムクーヘン食ってんだよ、近寄んなゴミ』
荒れ狂うコメントの嵐。
ギルドとしては、数時間前に投稿され爆発的に拡散された琴美の検証動画を端緒とし、赫き剣の意図的なプレイヤーキル未遂の裏付け調査を急ピッチで進めているところだった。証拠が固まり次第、彼らの探索者ライセンスを剥奪し、法的な処置に移行する手はずが整いつつある。
それなのに、彼らは自ら世界に向けて顔を晒し、見え透いた嘘と強欲にまみれた宣言をしているのだ。
画面の中の三人は、自分たちの想定とは真逆の、罵倒と告発の嵐で埋め尽くされるコメント欄を見て、完全にフリーズしている。
悲痛な表情を作っていたレオンの顔が、次第に引き攣り、青ざめていく。彼は震える手で画面をスクロールしようとするが、次々と湧き上がる悪意の濁流に目が追いついていない。画面に流れる『人殺し』の文字に、彼の呼吸が浅くなっていくのがマイク越しにも伝わってきた。
『お、おい、レオン……なんだよこのコメント……。解析ってなんだよ!』
盾役の男が画面外で焦ったように声を漏らす。
『ち、違う! これは誤解だ! 俺たちは本当に彼を助けようと……!』
魔法使いの女が慌ててカメラに顔を近づけて取り繕おうとするが、その必死な言い訳は火に油を注ぐだけだ。
『さっさと捕まれ』
『もう逃げられないぞ』
『チャンネル登録解除した。はよ引退しろ』
という容赦のない言葉が、画面を完全に覆い尽くしていく。
「……バカね。事前の情報収集すら怠って、目先の利益に飛びつくからこうなるのよ」
ハナは冷めかけたカプチーノを手に取り、残りを一気に飲み干した。
このまま彼らを放置すれば、視聴者の怒りは頂点に達し、ギルドの管理責任問題に発展する。それに、万が一彼らが本当に最深部へ向かい、フェンリルや各国のトップ探索者たちと物理的に衝突でもすれば、大惨事は免れない。
「また徹夜確定ね」
ハナは小さくこぼし、テーブルの上に代金の札を置く。
「ごちそうさまでした。お釣りは取っておいて」
カバンを手に取り、早足でレストランを後にする。向かう先は、ギルド本部の危機管理部門だ。
「さっさと身柄を押さえないとね」
夜の冷たい風の中、彼女はヒールの音を響かせて駆け出した。