作品タイトル不明
第25話 神獣のおやつと自家製バウムクーヘン
昼食を終え、深淵の迷宮の最深部にのんびりとした午後のお茶の時間が近づいてきた頃。
キャンピングチェアで寛いでいたエミリアが、ぽつりと呟いた。
「おじさん……私、甘いものが食べたいです」
「奇遇ね。私も、昨日の夜からずっと甘いものを口にしていなかったせいか、脳が糖分を要求しているわ」
エミリアの言葉に、ユジンが手鏡で前髪を整えながら同意する。
その横で、クロエも優雅に扇子を広げながら頷いた。
「ええ、昨夜の、あのような……強烈でジャンクなお夜食のせいで、わたくしの胃も少し驚いておりますの。ここらで上質なお茶菓子をいただいて、口の中を落ち着かせたいところですわね」
ともあれ、女性陣から満場一致で甘いもののリクエストが出たわけだ。
俺はアイテムボックスのインベントリを探り、ストックしてある食材を確認した。ケーキやクッキーを作る材料は揃っているが、あいにく本格的なオーブンはない。籐子が作った魔導ダッチオーブンを使えばスポンジケーキくらいは焼けるが、せっかくなら野営ならではの、全員で楽しめるおやつにしたいところだ。
「よし。オーブンを使わずに、直火で焼けるケーキにするか」
俺は立ち上がり、キャンプサイトの近くに生えている、ダンジョン特有の太い竹のような植物『アビス・バンブー』の群生地へと向かった。
手頃な太さの真っ直ぐな茎を一本切り出し、表面を綺麗に洗浄して適切な長さに切り揃える。
「おじさん、竹なんて切ってきてどうするんですか?」
「これに生地を巻きつけて、自家製のバウムクーヘンを焼くんだよ」
俺の答えに、女性陣の顔に好奇の色が浮かんだ。
ボウルを取り出し、生地作りに取り掛かる。
常温に戻しておいた無塩バターをホイッパーでクリーム状になるまで練り、三温糖を加えて白っぽくふんわりとするまでしっかりとすり混ぜていく。そこに溶き卵を分離しないように少しずつ加え、滑らかに乳化させた。
小麦粉、アーモンドプードル、そしてベーキングパウダーを振るい入れ、ゴムベラでさっくりと切るように混ぜ合わせる。最後にたっぷりの牛乳と、バニラオイルを数滴垂らして風味を整えれば、とろりとした重みのあるバウムクーヘン生地の完成だ。
先ほど切り出した竹の棒の表面にアルミホイルを巻きつけ、生地がくっつかないように薄く油を塗る。
「かまどの火は、炎を上げずに熾火の状態にしておくのがコツだ。まずは俺が手本を見せる」
俺は竹の棒を持ち、ハケを使って生地を薄く均一に塗りつけた。
それをかまどの熱の上に翳し、焦げないように一定の速度でくるくると回し続ける。
熱が加わるにつれて、生地の表面からプクプクと小さな気泡が立ち、やがてふわりとした甘い香りと共に、表面に薄いきつね色の焼き目がついた。
「焼き色がついたら、また生地を塗る。これを何度も繰り返して層を作っていくんだ」
「わぁ……! なんだかお祭りみたいで楽しそうです! 私にもやらせてください!」
エミリアが身を乗り出し、俺から竹の棒を受け取った。
彼女は嬉しそうにかまどの前に座り、棒を回し始める。だが、力加減が強すぎるのか、回転速度が異常に速い。
「ちょっとエミリア! 回すのが速すぎるわよ! 遠心力で熱い生地が飛んできそうじゃない!」
「だ、だって火が熱くて……! ゆっくり回してたら焦げちゃいそうです!」
ユジンが横から文句を言いながら、お玉を使ってエミリアの回す棒に無理やり追加の生地を塗りつけようとする。
「ああっ、ユジン! そんなに一気に塗ったらポタポタ落ちちゃいます!」
「あんたが回すのを止めないからでしょ!」
二人がキャーキャーと騒ぎながら小競り合いをしていると、クロエが扇子を閉じてため息をついた。
「貴女たち、手際が悪すぎますわ。貸しなさいな。このような繊細なお菓子作りは、わたくしのようにエレガントな人間にこそ相応しいんですのよ」
クロエは自信満々に竹の棒を受け取ったものの、数秒後には「きゃっ! なんですのこの熱さは! わたくしの肌が乾燥してしまいますわ!」と文句を言い始め、不器用な手つきで棒を傾けてしまったため、せっかくの生地の層がいびつに偏ってしまった。
「……みんな、騒がしい。早く焼いて。お腹空いた」
「ワフゥ!」
少し離れたキャンピングチェアで寝転がったままの久美子が口を開けて催促し、その横で豆柴サイズのハクも尻尾を振って焼き上がりを急かしている。籐子はマイペースに、熱の入り方をスケッチブックに書き留めていた。
「お前ら、喧嘩してないで均等に回せ。焦げるぞ」
俺は笑いながら火加減を『極・生活魔法』で微調整し、いびつになった部分をリカバリーするように生地を塗り重ねていった。
交代で棒を回し、生地を塗り、焼く。
単純な作業の繰り返しだが、不思議と飽きることはない。最初は細かった竹の棒の周りに、徐々に分厚い生地の層が形成され、巨大な肉の塊のような見事な琥珀色の円筒形が姿を現していく。
「よし、そろそろ生地がなくなる。これで最後だ」
最後の一層をこんがりと焼き上げ、俺は竹の棒を火から下ろした。
まな板の上に置き、粗熱が取れたところで芯にしていた竹の棒を静かに引き抜く。
ナイフを使って、分厚い円筒を輪切りにしていった。
サクッ、という表面の香ばしい音と共に、中からフワァッと熱い湯気が立ち昇る。
切り口には、いびつながらも手作りならではの、美しい年輪模様が何十層にも重なって描き出されていた。バターとバニラ、そして焼けた卵の優しくて強烈に甘い香りが、キャンプサイト全体を包み込む。
「完成だ。自家製バウムクーヘン」
俺が木の皿に切り分けたバウムクーヘンを乗せると、クロエが自身のアイテムボックスから、見事な装飾が施された純白のティーセットを取り出した。
「お茶はわたくしが淹れますわ。このお菓子には、わたくしがシャトーから持ち込んだ最高級のダージリン・ファーストフラッシュが完璧に合いますの」
クロエの淹れた紅茶の爽やかなマスカテルフレーバーが加わり、至福のティータイムの準備が整った。
エミリアが待ちきれない様子で、分厚いバウムクーヘンを両手で持ち上げてかぶりつく。
「んんーっ! まわりはサクッとしてるのに、中がすっごくフワフワでもっちりしてます! お店で買う冷たいバウムクーヘンとは全然違う食べ物みたいです!」
「あ、ちょっと! この端っこのカリカリしたところ、私が狙ってたのに!」
「早い者勝ちです!」
エミリアとユジンが皿の上の端っこ部分を巡ってフォークを交差させると、その死角からスッと伸びてきた手が、一番柔らかい中心部分を綺麗にくり抜いて持ち去った。
「ああっ! 久美子! ズルい!」
「……弱肉強食。ここ、一番美味しい」
久美子がキャンピングチェアに丸まったまま、リスのように口を動かしている。
「こらハク、それは俺の分だ!」
足元では、砂糖を減らして焼いたハク用の端っこ部分をすでに吸い込んだハクが、俺の皿の上のバウムクーヘンに鼻面を押し付けていた。
「もう、貴女たち少しは落ち着きなさいな!」
優雅にティーカップを傾けていたクロエが顔をしかめるが、その横で籐子が「カロリー計算とかどうでもいいわね、これ……」と、ハクの隙を突いて俺の皿から最後の一切れをフォークで突き刺して確保していた。
みんなで火を囲み、ドタバタと騒ぎながら作り上げた不格好なバウムクーヘンは、ものの数分で綺麗に胃袋へと消え去った。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜。
キャンプサイトが深い静寂に包まれ、湖の対岸から微かな水音が聞こえてくるだけの時間が訪れた。
俺は小さな手鍋を一つ持ち、クロエたちの私兵が設営した、まるで城のような超巨大テントの前に立っていた。
「入るぞ」
短く声をかけて入り口のフラップをめくると、そこはダンジョンの中とは思えない異空間だった。
天井からはクリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、床には分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められている。アンティーク調の高級家具が並ぶその奥、ゆったりとしたカウチソファに、クロエが座っていた。
「お待ちしておりましたわ、専属シェフ」
彼女はいつもの完璧に作り込まれたドレス姿ではなく、上質なシルクのルームウェアという、少しラフな出で立ちだった。メイクも落としているのか、ダークスキンの素顔は昼間よりも幼く、あどけなく見える。
俺はテーブルの上に手鍋を置き、丼に中身を移した。
昨夜、彼女に約束させられた『深夜のラーメン』だ。ただし、昨日のような暴力的な背脂の塊ではなく、今夜は鶏ガラの澄んだスープに細麺を合わせ、白髪ネギと鶏チャーシューだけを乗せた、あっさりとした夜鳴きラーメン風に仕上げてある。
「ほら、夜食だ。昨日の今日だからな、少し胃に優しいやつにしておいた」
クロエは丼から立ち昇る上品な醤油の香りを嗅ぎ、フォークとレンゲを手に取った。
「……背脂がないのは少し物足りませんけれど、シェフの気遣いに免じて許してあげますわ」
彼女は静かに麺をすすり、スープを飲む。
昨夜のように理性を失って貪り食うようなことはなかったが、その表情は心底ホッとしたように緩み、あっという間に一杯を平らげてしまった。
食後。
クロエが淹れてくれたカモミールティーのカップを手に、俺たちはテントの奥に備え付けられた広いテラススペース――私兵たちが魔法で組み上げたバルコニー――へと出た。
ここからは、青白く光る湖の全景が見渡せる。
「ここからの景色、悪くありませんわね」
クロエは手すりに寄りかかり、夜風に金色の髪を揺らしながら呟いた。
「こうして静かに風を浴びていると、自分が本当にあの『深淵の迷宮』の底にいるのだということを忘れそうになりますわ」
「まあな。魔物も出ないし、昼間のお祭り騒ぎが嘘みたいに静かだ」
彼女はティーカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「あのバウムクーヘン、本当に美味しかったですわ。……わたくし、今まで誰かと一つのものをあんな風に奪い合って食べたことなんて、ありませんでしたの」
「そりゃお嬢様だからな。いつも上品に一人一つ、取り分けられてただろうし」
「ええ。でも、あの中で食べたお菓子の味は、今まで食べたどんな高級スイーツよりも、ずっとわたくしの記憶に残る気がしますわ」
クロエは顔を上げ、俺の方へ視線を向けた。
その瞳には、昼間の高飛車な令嬢の仮面はない。一人の年相応の女性としての、真っ直ぐで素直な光が宿っていた。
「なら、気が済むまでここにいればいい。どうせ俺も帰るアテはないしな。美味い飯とデザートなら、いくらでも作ってやる」
「……言いましたわね? わたくしの専属シェフとしての契約、絶対に破棄は許しませんわよ」
クロエは嬉しそうに微笑み、一歩だけ俺との距離を詰めてきた。
ほんのりと甘いハーブティーの香りと、彼女の纏う高級な香水が入り混じり、夜風に乗って鼻先をくすぐる。
静寂の中、二人の視線が交差する。
だが。
「ウォフッ!」
俺とクロエの足元に、白い毛玉が勢いよく飛び込んできた。
「きゃっ!?」
豆柴サイズのハクだ。どうやら俺がラーメンを作ってテントを出た匂いを嗅ぎつけ、後を追って忍び込んできたらしい。
ハクは空気を全く読むことなく、クロエのルームウェアの裾に鼻を押し付け、「俺の分の夜食はないのか」と尻尾をブンブンと振り回している。
「もうっ、ハクちゃんったら! 今、とてもいいところでしたのに!」
クロエが顔を真っ赤にして文句を言いながらも、抗えないモフモフの引力に負けてハクを抱きしめ、頬ずりを始める。
俺はロマンチックな雰囲気をぶち壊しにした白い毛玉に苦笑しながら、夜の湖畔に響く一人と一匹の騒がしいやり取りを眺めていた。