作品タイトル不明
第21話 激辛アサシンと石焼スンドゥブ
深淵の迷宮の最深部に、新しい朝が訪れた。
はるか上空の疑似太陽がゆっくりと明るさを増し、澄んだ空気がキャンプサイトを包み込む。
湖畔の平地には、俺が最初に立てた標準的なテントの横に、クロエの私兵たちが設営した城のように巨大で豪奢なテントがそびえ立っており、異様極まりない光景を作り出していた。
俺は石造りのかまどに薪をくべ、『極・生活魔法』で火を起こした。
朝食の準備に取り掛かろうと食材を広げていると、背後から不機嫌そうな足音が近づいてきた。
「……おはよう、おじさん」
「ん? ああ、おはようユジン。随分と機嫌が悪そうだな。よく眠れなかったか?」
振り返ると、チェ・ユジンが、腕を組んで眉間にシワを寄せていた。長い黒髪を苛立たしげに払い、俺の顔をじろりと睨む。
「ベッドの寝心地は問題ないわよ。クロエのテントに置かれた最高級マットレスだもの。問題なのは……刺激よ、刺激。最近、おじさんが作る料理は美味しいけど、どれもマイルドすぎるのよ! 私の体内のカプサイシン血中濃度が下がりきって、禁断症状が出そうなの!」
彼女はバンッとテーブルを叩いて不満をぶちまけた。
確かに、ここ数日はエミリアたちに合わせて、和食や辛味のない肉料理が続いていた。重度の激辛マニアである彼女にとって、それは拷問に近い日々だったのかもしれない。
「わかった、わかった。昼飯はお前が満足するような、とびきり辛くて熱いやつを作ってやる。とりあえず、朝は胃に優しいものにしておけ」
「……約束よ。半端な辛さじゃ許さないから」
ユジンは念を押すように指を突きつけ、自分のキャンピングチェアにドカッと座り込んだ。
俺は気を取り直して、朝食の調理を再開した。
アイテムボックスから取り出したのは、自家製の極太粗挽きソーセージ、数種類の野菜、そして数日前に魔道具を使って焼き上げておいた大きなカンパーニュだ。
まずは野菜スープからだ。
キャベツ、玉ねぎ、ニンジン、そしてベーコンの端材を一センチ角に揃えて切り出す。鍋にオリーブオイルを引き、ベーコンからじっくりと脂を引き出した後、野菜を加えて炒める。玉ねぎが透き通ってきたら水を注ぎ、コンソメベースの味付けで弱火でコトコトと煮込んでいく。野菜から染み出した自然な甘みが、スープに優しい黄金色をもたらす。
次に、カンパーニュの出番だ。
パン切りナイフを使って、分厚く均等な厚さにスライスしていく。外側のクラストは硬く香ばしく、内側のクラムは気泡をたっぷりと含んでふんわりとしている。
常温に戻して柔らかくした無塩バターに、すりおろした大量のニンニク、細かく刻んだ新鮮なパセリ、そして岩塩を加えてしっかりと練り合わせ、極上のガーリックバターを錬成する。
これをスライスしたカンパーニュの断面に、隙間なくたっぷりと塗り込んでいった。
鉄板を熱し、ガーリックバターを塗った面を下にしてパンを並べる。
ジュワァッという音と共に、バターが溶け出し、強烈なニンニクの香ばしい匂いがキャンプサイトの空気を一気に支配した。
表面がカリッと黄金色に焼けたら裏返し、もう片面も軽く炙る。
空いているスペースで、極太の粗挽きソーセージをソテーする。
表面に斜めの細かい切れ目を入れ、少量の油で転がすように焼いていく。生活魔法でフライパンの温度を最適に保ち、皮が破れないギリギリのラインで熱を芯まで通す。
パリッ、と皮が弾け、中から溢れ出した透明な肉汁が鉄板で跳ねて食欲をそそる音を立てた。
「よし、朝飯だ」
木製のプレートに、香ばしいガーリックブレッドを二枚、肉汁滴るソーセージを添え、深めのカップに熱々の野菜スープを注いで完成だ。ハクには味付け無しの茹でたソーセージと白飯を用意する。
強烈なガーリックバターの匂いに釣られて、巨大テントからクロエやエミリアたちが次々と姿を現した。
「んんっ! 皮がパリッパリで、お肉の旨味がすごいです! 朝からこんな立派なソーセージが食べられるなんて……あっ、ハクちゃん! 私のソーセージ取らないで!」
エミリアが歓喜の声を上げてかぶりついた直後、足元から首を伸ばしたハクが、彼女の皿から一番大きなソーセージをパクリと強奪した。
「こら、ハク! お前の分は木桶に入ってるだろ!」
俺が叱りつけるが、ハクは「そんなのもう食った」とばかりに鼻を鳴らし、今度はクロエの皿に狙いを定める。
「ちょっと! わたくしのガーリックブレッドにヨダレを垂らさないでちょうだい! ……ああっ、もう! ニンニクとバターの香りに負けて齧ってしまいましたけれど、朝からワインが欲しくなりますわ!」
クロエはハクの巨体を片手で押し退けながら、パンを口に詰め込んでいる。
「……うるさい。静かに食べて」
久美子は両手でスープのカップを持ち、チビチビとすすりながら、エミリアとハクのドタバタ劇を眠そうな目でぼんやりと眺めていた。籐子に至っては、自分のソーセージの肉汁を採取してフラスコに詰めようとしていたため、俺が無言で皿を取り上げて強制的に口へ放り込んだ。
ユジンはガーリックブレッドをかじりながら、騒がしい食卓を見てため息をついた。
「味は文句なく美味しいわよ。でも、これじゃ私のカプサイシン欲は満たされないわ。昼ごはんは期待してるからね」
「はいはい」
俺は自分のガーリックブレッドをかじりながら、昼に向けてのレシピを頭の中で組み立て始めた。
★★★★★★★★★★★
そして、昼時。
俺はアイテムボックスから、複数の小型の魔道具を取り出した。籐子が暇つぶしに作った、一人用の石鍋サイズのものだ。保温性が異常に高く、火から下ろしても中身が沸騰し続けるという、今回のメニューにはうってつけの代物である。
「お待たせしたな、ユジン。約束の激辛だ」
俺はかまどの火力を上げ、調理を開始した。
今日作るのは、海鮮たっぷりの超本格的な「石焼スンドゥブチゲ」だ。
まずは味の決め手となる「タデギ」を作る。
フライパンにごま油を引き、細かく刻んだ豚バラ肉、みじん切りのニンニクと長ネギを炒める。脂が溶け出してきたところに、韓国産の粗挽き粉唐辛子と細挽き粉唐辛子を独自の配合でブレンドしたものを大量に投入した。
焦がさないように弱火でじっくりと炒め合わせると、むせ返るような強烈な辛味成分と、ごま油の香ばしさが混ざり合った、真っ赤なペーストが完成する。
小型の魔道具をそれぞれの火にかけ、先ほど作ったタデギをスプーン一杯ずつ入れる。
そこに、昆布と煮干し、そしてエビの殻から取った濃厚な海鮮出汁を注ぎ込んだ。
ジュワァァァッ!
真っ赤なスープが一気にグツグツと沸き立ち、マグマのようなビジュアルへと変化する。
沸騰したスープの中に、殻付きのアサリ、剥き身のエビ、イカなどの海鮮をたっぷりと放り込む。アサリの口が開き、海鮮の強烈な旨味がスープに溶け出していく。
そこに、なめらかな絹ごし豆腐を大きなスプーンですくい、崩しすぎないようにゴロンと落とし入れた。豆腐が真っ赤なスープの中で踊り、周囲に辛味と海鮮の混ざり合った圧倒的な香りが立ち昇る。
仕上げに、ザク切りにした長ネギとニラを散らし、魔道具の中心でグツグツと煮えたぎる赤い海の中に、生卵を一つ静かに落とした。
「完成だ。グツグツ石焼スンドゥブチゲ」
分厚いミトンを使って、マグマのように沸騰を続ける真っ赤な鍋を木製の敷板の上に乗せ、炊きたての白飯と共にテーブルに並べる。
「……っ!」
ユジンが息を呑む音が聞こえた。
彼女の目は、目の前でボコボコと沸き立つ真っ赤なスープに釘付けになっている。立ち昇る湯気からダイレクトに鼻腔を刺激するカプサイシンの香りに、彼女の整った顔がわずかに上気し始めていた。
「さあ、冷めないうちに食え。辛さはユジンの分だけ特別に倍にしてある」
俺が言うと、ユジンはゴクリと喉を鳴らし、スプーンを手にした。
彼女はまず、真っ赤なスープだけをすくい、ふーふーと軽く息を吹きかけてから、口へと運んだ。
その瞬間、ユジンの切れ長な瞳がカッと見開かれた。
「……っっっ!!」
声にならない悲鳴。
唐辛子の暴力的なまでの辛さが舌を突き刺し、一瞬で全身の毛穴が開くような衝撃が走る。その直後、アサリやエビから出た濃厚すぎる海鮮の旨味と、タデギに仕込まれた豚肉とニンニクの強烈なコクが、辛さの波に乗って爆発的に広がった。
刺激と旨味の完璧な黄金比。それが、超高温のスープという媒体を通じて、彼女の味覚を容赦なく支配していく。
「か、辛っ……! なにこれ、すっごく辛い! でも……!」
ユジンは額に玉のような汗を滲ませながら、すかさず絹ごし豆腐とアサリの身をすくい上げ、白飯と共に口に放り込んだ。
熱々の豆腐が辛味を少しだけ和らげ、白飯の甘みが海鮮スープの旨味を極限まで引き上げる。
「美味しい……っ! はぁっ、はぁっ……!」
アサシンとしてのクールなプライドは完全にどこかへ吹き飛び、ユジンは肩で息をしながら、憑かれたようにスプーンで真っ赤なスープとご飯の往復を始めた。顔を真っ赤にし、汗をかきながらスンドゥブを頬張る彼女の姿は、完全にメロメロになって陥落している状態だった。
他の面々も、それぞれの赤い鍋と格闘している。
「あかっ、辛ぁぁいっ! お水! おじさんお水ください!」
エミリアが涙目になって叫ぶと、横からクロエがすかさず彼女のコップを取り上げた。
「甘えですわ! フレンチのコースにはない下品なほどの刺激ですけれど……この強烈な旨味、わたくしも負けていられませんの!」
「ちょっとクロエ様! 私のお水返してください! 辛い、でも美味しいから食べるの止められない……!」
「あー、辛い。私、豆腐だけ食べる……」
久美子が真っ赤なスープを避けて豆腐の白い部分だけをすくっていると、完全にハイになった籐子が目を血走らせて彼女の鍋にスプーンを突っ込んだ。
「カロリーとカプサイシンが足りないわ! ほら、スープごと飲み込みなさい! 脳を麻痺させるのよ!」
「いや、押し付けないで……熱っ!」
「ワフゥン!」
唐辛子とニンニクを抜いた特製スープを飲み干したハクが、「俺にもその赤い汁をよこせ」とばかりに籐子の背中にのしかかり、さらに食卓の混沌を加速させていく。
『ユジンちゃんの顔がガチでとろけてるwww』
『あんな真っ赤なマグマみたいなスープ、よく食えるな』
『おっさんのスンドゥブ、作り方が本格的すぎて普通に飯テロ』
『汗だくの美女たちがドタバタしながら辛い鍋食ってる絵面、最高すぎるだろ』
岩の上に立てかけた端末の画面では、相変わらず視聴者たちのコメントが猛烈な勢いで流れている。
俺は自分のスンドゥブチゲにスプーンを入れ、半熟になった卵を崩した。
黄金色の黄身が真っ赤なスープに溶け出し、辛味をマイルドに包み込んでいく。それを豆腐と一緒にすくって食べると、卵のコクと海鮮の旨味が口の中で絶妙に絡み合った。
俺はダッチオーブンが放つ熱気に汗を流しながら、最後まで熱々のスンドゥブチゲを堪能した。
食後。
空になった小さな鍋が並ぶテーブルの周りでは、皆が一様に放心状態になっていた。
ユジンはすっかり満足した顔でキャンピングチェアに深く寄りかかり、タオルで首筋の汗を拭いている。
俺はアイテムボックスからケトルとミルを取り出し、食後のコーヒーの準備を始めた。
手回しミルで豆を挽くガリガリという音が、満腹と疲労で静まり返ったキャンプサイトに心地よく響く。
ドリッパーに粉をセットし、適温の湯を静かに注いでいく。立ち昇るコーヒーの深い焙煎香が、周囲に充満していた唐辛子の匂いを中和し、鼻腔をすっきりとリセットしてくれた。
それぞれのマグカップにブラックコーヒーを注ぎ、手渡していく。
「ほら、食後のコーヒーだ。辛いものを食った後は、苦いのが美味いぞ」
俺が言うと、ユジンはマグカップを受け取り、ふうっと息を吹きかけてから一口すすった。
「……はぁ。本当に、おじさんの料理は反則ね」
ユジンは少しだけ悔しそうに微笑みながら、コーヒーの苦味を楽しむように目を閉じた。