軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

16.貴方と思いが交わる日(前編・完)

久々に顔を合わせたアルフォンスは、何も変わっていなかった。そして、彼に会ったセシリア自身も何も変わっていなかった。

彼に会った瞬間、泣いてしまうのではないかという心配は、ただの杞憂に終わった。

恋をしているにしては、あまりに穏やかで代り映えがしない日常のひとコマのように時間は過ぎていった。

(もしかして、もう、私は彼のことを好きじゃなくなったんだろうか)

そんなことを思いながら、アルフォンスがかき混ぜている鍋を覗き込む。ぐつぐつと音を立てて、美味しそうな香りを漂わせている。

「公爵様、できましたか」

「まあ、一応」

セシリアのアドバイスに沿って煮込んだビーフシチューは、大変美味しそうに出来上がった。

一口味見してみれば、それはもう完璧と言っていいほどの出来栄えだった。

数時間前の惨事を思えば、見事な手腕に自画自賛したくなってくる。

「それでは、私の役目は終わりですかね。あんまり滞在しても、変な噂が立ってしまいますので、失礼しますね」

セシリアは一方的にそう告げて、屋敷の玄関に向かおうとする。

……これで終わりなのだ。

セシリアは、アルフォンスに背を向けて目を瞑った。

セシリアがここにきた理由は、きっと、恋を叶えるためではなかった。最後に自分の恋を終わらせるためだったのだ。

穏やかに凪いだこの気持ちが何よりの証明だ。

だからもう、セシリアは振り向かない。そう思っていたのに。

「……っ、セシリア!」

不意に、名前を、呼ばれた。

それだけで、その決意は簡単に崩れ落ちる。

気持ちがざわざわと波立って、我慢ができなくなる。

セシリアは振り向いて、アルフォンスを見つめた。

「こうして、お前を呼んだのは、ただの建前だ」

そう言って、アルフォンスは胸元から一枚の紙を取り出す。「ウィンターズ伯爵には、すでに伝えているんだが」という前置きと共に広げられたのは、『白い結婚』時に署名した離婚届だった。

それは、本来であれば教会で受理されるはずのものである。

「り、離婚していなかったのですか!」

「…………書類を、出すことができなかった。すまない」

ぽつり、とアルフォンスが言った。

決してそれは、教会が受け付けなかったとか、書類に不備があったとか、そういう事務処理面のことを指しているわけではないのだろう。

単に、アルフォンスが『出せなかった』のだ。

セシリアは、アルフォンスの言葉の続きを待った。

「俺は人を愛する、という感覚がわからない。それまで、確かに両親から受け取っていたはずなのに、家族が死んだあの日から、すっかり抜け落ちてしまったらしい。ずっと一人で生きてきたし、これからも一人で生きていけると思っていた」

苦しそうな声だった。彼が息継ぎをするたびに、肩が上下する。

「でも」とアルフォンスは言った。

「セシリアが、キッシュを差し出してくれた、あの日から。俺は変わってしまった」

血まみれでアルフォンスが帰ってきたあの日。セシリアが『食べますか?』聞いたあの日。

セシリアにとっても、全てが始まったのは、あの日からだった。

「風邪を引いた時に何も言わずに傍に居てくれたのも、市場で俺のことを大声で庇ってくれたのも、花火を見る横顔が眩しかったのも────全部、セシリアがくれたものだ」

温かい紅茶を飲んだ時のように、じんわりと、言葉が心に染みこんでいく。

(……なんだ。私だって)

自分だけが、貰っていたのだと思っていた。

彼からの言葉や優しさを貰うたびに、自分は彼に何かあげることができているのか不安になっていた。でも、セシリアだって、ちゃんと彼に贈ることができていたのだ。

自分の言葉や感情が、彼にとって少しでも救いになっていたのならば、セシリアにとってこんなに嬉しいことはない。

「なあ、こんなこと知りたくなかった。会いたかった人を目の前にしても、俺は、こんなに苦しい。……その理由さえよくわからない」

そんな言葉を紡がれたら、勘違いをしてしまいそうになる。

あの1か月間で、特別な感情を抱いてしまったのは、ひょっとしたら、自分だけではないのだろうか。

アルフォンスの優しい眼差しも、心配する顔も、別れ際の泣きそうな顔も。すべて、勘違いしてしまってもいいのだろうか。

「……セシリアのいない生活は、寂しすぎる」

その言葉で、セシリアの世界は魔法にかかったように、色づいてしまった。

ああ、好きだ。

好きで、好きで仕方がない。

綺麗にラッピングされたはずの思い出たちを、セシリアは開いてしまった。

綺麗に解くのではなく、誕生日にプレゼントを貰った子どものように、びりびりと包装紙を破いた。

そうして中から出てきたのは、アルフォンスをただ『愛しい』と思う感情だった。

(私だって、風邪を引いた貴方を寝かしつけた朝も、市場であなたを庇った夕方も、一緒に花火を見上げた夜も、全て鮮明に思い出せるくらいには)

「……貴方に恋をしています、と言ったら、その腰の剣で私を殺しますか」

『貴方に恋をしてしまった時は、その腰の剣で殺してもらってもいいですよ』

それは、夜会の時にセシリアが告げた言葉だった。絶対に破ることがない冗談だったはずなのに、気持ちは抑えられない程大きくなっている。

アルフォンスは目を見開いた。ぱっちりとした二重が露わになって、瞳が切なく揺れる。そして、その瞳は、だんだんと潤みを増していく。

「そうか、俺、は」

彼の口角が上がる。右の方が少しだけ高い。

ああ。その顔が。そのしぐさが。すべて────

「ああ、俺は……、セシリアのことが、好きで、堪らないみたいだ」

────好きなんだ。

困ったように笑った彼の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。彼の弱ったところは見たことがあるけれど、涙を見るのは初めてだった。

アルフォンスは、目から零れ落ちたものを見て、信じられない、という顔をした。

「……っ、なんで、俺、泣いて」

「なんででしょうね」

それはセシリアも同じだった。目頭が熱くなったかと思うと、ぼろぼろと涙が溢れだした。悲しくないのに、涙が溢れるなんて初めてかもしれない。

セシリアは昔から泣かなかった。誰の前でも涙を見せることはなかった。自分が泣けば、周囲が不安になってしまうから。自分の弱さを見せたくないから。

けれど、この人になら自分の弱さを見せてもいいと思えた。

「なあ」

アルフォンスがそう言った。セシリアを呼び掛けるときの癖だった。

「───……好きだ、セシリア」

「……っ!」

潤んだ瞳でそう告げられる。

セシリアは、ワンピースの胸元のリボンをぎゅっと握りしめた。想いが通じ合うことは、こんなにも苦しくて、嬉しくて、自分自身がわからなくなるくらい感情が溢れるものなのか。

初めての感情に戸惑いながらも、真っ直ぐとセシリアはアルフォンスを見上げる。

「ええ、私も好きです。アルフォンス様」

台所で二人、良い大人がぐずぐずと泣いている。なんだかそれがおかしくって、セシリアとアルフォンスは顔を見合わせて笑った。