作品タイトル不明
博之44才10月3週目。5億5,814万文→5億9,500万文。ざっくり換算。端数はふくふく焼きの鉄板代へ。堺から少量の砂糖と小豆供給許可来た
十月三週目、松阪本店の奥では、久しぶりに帳簿を前にした締めの場が作られていた。
最近の博之は、比叡山で首に刃を当てられた一件もあり、お花から厳しく安静を命じられている。
本人は不満そうではあるが、以前のように思いつきで遠方へ飛び出すことは減っていた。
ヨイチが帳面を広げながら、少しほっとした顔で言った。
「とりあえず、十月三週目で一回帳簿を切りましょうか」
「せやな。最近は、わしも大人しくしてるしな」
博之がそう言うと、お花が即座に言った。
「大人しくしてくれているから、こちらはありがたいです」
「言い方」
「事実です」
周りの古参たちが、少し笑った。
ヨイチは筆を取り、数字を読み上げる。
「ざっくり申し上げますと、今回の増減は前回と同じ扱いでよろしいかと。買い付け隊、
各拠点の通常利益、堅田や京都郊外の持ち出し、催しの寄進分、諸々をならして、
三千八百十四万文のプラスです」
「前と同じ数字でええんか」
「はい。細かく見れば増減はありますが、今は大きな見立てを優先した方がよろしいかと」
「ふんふん」
「前回が五億五千八百十四万文ですので、三千八百十四万文を足しまして、
五億九千六百二十八万文となります」
帳面に書かれた数字を見て、博之は少し黙った。
五億九千六百二十八万文。
最初に飯の釜を一つ抱えていた頃から考えれば、もはや現実感の薄い数字だった。
「……増えたなあ」
「増えました」
「でも、銭は銭のまま置いとくと怖いな」
「旦那様は、すぐそう言いますね」
「ほんまに怖いやろ。燃えるし、盗まれるし、揉めるし」
ヨイチは少し頷いてから、別の紙を出した。
「それと、堺の方から文が来ております」
「堺?」
「はい。堺郊外のまとめ役からです。ようやく商人筋から、市の一角で店を出してもよい、
という話が来たそうです」
博之の顔が少し明るくなった。
「おお、入れそうなんか」
「はい。ただし、堺の領分を犯さないこと。砂糖や小豆の流れに勝手に手を突っ込まないこと。
まずは魚のすり身揚げ、海鮮焼き、伊勢の飯を小さく出すこと。そういう条件です」
「まあ、そらそうやな。堺は堺の旦那衆の庭や」
「それと、小豆と砂糖も、少しぐらいなら回してもよい、という話になっております」
博之は、そこでにやりと笑った。
「なるほど。じゃあ、ふくふく焼きは作れそうやな」
お花が少し警戒した目を向ける。
「また何か始める顔ですね」
「始めるというか、前から言うてたやろ。小麦の皮を丸く焼いて、餡を挟むやつや。
一つ五十文、二つで九十文。二人で分けたら四十五文。始終ご縁がありますように、や」
「それは、堺の旦那衆に笑われたと聞いております」
「笑われても覚えられたら勝ちや」
博之は帳面を見ながら、指で数字を叩いた。
「五億九千六百二十八万文か。数字が細かいな」
「細かいとは」
「帳簿上は平たくしよう。五億九千五百万文にする」
「残りの百二十八万文はどうしますか」
「ふくふく焼きの鉄板を作ってもらおうかな」
ヨイチが筆を止めた。
「鉄板を作る、とはどういうことでしょうか」
「海鮮焼きの丸いやつがあるやろ。あれの要領や。けど、ふくふく焼きは皮を同じ大きさで
焼かなあかん」
「同じ大きさで、ですか」
「そうや。二枚重ねるからな。大きさが違ったら、みっともない。だから平べったい鉄板に、
丸い溝を作ってもらう。そこへ小麦の生地を流す。そうすれば、同じ大きさの丸い皮が焼ける」
ヨイチは少し感心したように頷いた。
「なるほど。型のようにするのですね」
「そうそう。多分、海鮮焼きより楽や。海鮮焼きは具材がごろごろするけど、
ふくふく焼きは皮やからな。丸の溝を並べて、二枚一組で焼けるようにする」
「どれくらいの数を並べますか」
「二枚で一つやからな。二掛ける十ぐらいの枠でええんちゃうか。二十枚焼ければ、
十個分や。片面を焼いて、ひっくり返して、両面焼く。そこに餡を挟んで、
最後に焼き印をぽんと押す」
お花が首を傾げた。
「焼き印は、福の字ですか」
「そこやねん」
博之は、少し真面目な顔になった。
「堺からの文では、福の字を押してもいいんじゃないか、縁の字もええんちゃうか、
みたいな話があったらしい」
「縁の字ですか」
「いや、露骨すぎへん?」
「まあ、少し露骨ですね」
「焼き印に『縁』って押してあったら、なんか嫌やろ。食べる前から、縁です、縁です、
って言われてるみたいやん」
古参の一人が笑った。
「旦那様が『始終ご縁』と言う時点で、だいぶ露骨ですが」
「それは言葉や。焼き印まで縁やと、やりすぎや」
「福はどうですか」
「福は、百歩譲ってありやと思う。けど、それもちょっとやりすぎたら恥ずかしいというか、
ダサいというか」
お花が少し笑った。
「旦那様にも、そういう感覚はあるんですね」
「あるわ」
「ない時も多いので」
「ひどいな」
博之は腕を組んだ。
「ここは、あえてうちの家紋というか、伊勢松坂屋の印でええと思うねん。松阪焼き印のやつや。
『これはうちの店のもんですよ』という印だけ押す」
「控えめにする、ということですか」
「そうや。売り文句は始終ご縁でええ。でも品そのものは、きちんとうちの飯として出したい。
福や縁を押しすぎると、いかにも縁起物です、買ってください、みたいになる。それはそれで軽い」
ヨイチが帳面に書き込んだ。
――ふくふく焼き用鉄板。
――丸溝付き。
――二掛ける十枠程度。
――二枚一組。
――餡を挟む。
――焼き印は伊勢松坂屋の印を基本。
――福・縁は見送り。
「旦那様も、いろいろ考えているんですね」
ヨイチが素直に言うと、博之は少し照れたように鼻を鳴らした。
「まあな。だじゃれだけでやってるわけちゃうぞ」
「半分くらいは、だじゃれかと思っていました」
「半分は当たってる」
「当たってるんですか」
「始終ご縁は、言いたいやろ」
お花がため息をついた。
「そこは譲らないんですね」
「譲らん。一つ五十文、二つで九十文。二人で分けたら四十五文。始終ご縁がありますように。
これは絶対言う」
「旦那様が言うと福が逃げる、と堺にも伝わっているそうですよ」
「それはあかんやろ。誰や言うたん」
「みんなです」
座敷に笑いが広がった。
博之は少しむくれたが、すぐに帳面へ目を戻した。
「まあええ。堺に入れるなら、急がず小さくやろう。魚のすり身揚げ、海鮮焼き、伊勢の飯。
そこへ試しにふくふく焼きや。砂糖と小豆は堺の旦那衆の顔を立てる。勝手に買い占めたりせん」
「はい」
「鉄板は、鉄砲鍛冶筋にも相談やな。海鮮焼きで慣れてるところがあるやろ。丸溝をきれいに
作れるかどうかが大事や」
「費用は百二十八万文の予備費から」
「そうや。全部使う必要はないけど、試作と鉄板と焼き印と、堺への手土産も含めて、その枠でやろう」
ヨイチは頷き、帳面の末尾に大きく記した。
十月三週目締め。
総額五億九千六百二十八万文。
帳簿上、五億九千五百万文として平たく置く。
残り百二十八万文は、堺ふくふく焼き準備費。
堺市中への小出店、小豆砂糖の試し仕入れ、専用鉄板、焼き印、手土産に充てる。
お花は、少しだけ穏やかな顔でそれを見ていた。
「今回は、ちゃんと帳簿を切ってから動くんですね」
「いつもそうやろ」
「いつもは、動いてから帳簿が追いかけています」
「それはまあ、勢いや」
「今回は、その勢いを抑えてください」
「分かってる。堺は慎重にやる。あそこは、銭も人も目も厳しいからな」
博之は、堺から届いた文をもう一度見た。
ようやく、市の一角に立てる。
ようやく、小豆と砂糖に手が届く。
ようやく、ふくふく焼きを試せる。
根なし草だった男が、飯の道を広げ、今度は堺の甘味に手を伸ばそうとしている。
「……始終ご縁、か」
博之が小さく呟くと、お花が横から言った。
「旦那様は、まず安静とのご縁を大事にしてください」
「それは、あんまり嬉しくないご縁やな」
「一番大事です」
また笑いが起きた。
帳簿は切られた。
銭は平たく置かれた。
そして、百二十八万文の余白から、堺へ向けた小さな丸い甘味の道が、静かに始まろうとしていた。