軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

比叡山延暦寺の僧兵が帰った。料理番たちは博之に男ぼれした。崇めるなど言うがお花さんが一喝。六角・三好に文を出す。できるだけ平常にということで次の日、草津で催しをする

僧兵たちが去ったあと、大津の会場には、壊された台と、割れた器と、踏まれた飯だけが残っていた。

客は逃がした。

料理番も逃がした。

重傷者はいない。

それだけは、確かに勝ちだった。

だが、博之の首筋には、薙刀の刃がかすめた赤い線が残っていた。布で押さえてはいるものの、

薄く血がにじんでいる。

そんな博之の前に、大津の料理番たちが、ぞろぞろと集まってきた。

「旦那様……」

「なんや。みんな無事か」

「無事です。旦那様のおかげです」

一人が、震える声で言った。

「旦那様、男惚れしました」

「は?」

「本当にすごかったです。あんな刃を首に当てられても、冷静に言い返されて……」

「飯屋をなめるなって、あれ、震えました」

「一千万文を三好と六角に撒くって、あんなこと言える人、見たことありません」

「旦那様、崇め奉ります」

料理番たちは興奮していた。

恐怖がなかったわけではない。目の前で神輿と僧兵に会場を荒らされ、飯を踏まれ、

器を割られたのだ。怖くないはずがない。

だからこそ、その恐怖を押し返した博之の姿が、妙に大きく見えてしまったのだろう。

だが、その空気を切り裂くように、お花が怒鳴った。

「黙れ、この馬鹿野郎!」

場が凍った。

料理番たちは一斉に口を閉じた。

お花は泣いていた。

怒りながら、泣いていた。

「何が男惚れですか! 何が崇め奉りますですか! 旦那様は首に刃を当てられて、

血が出てるんですよ!」

「お花さん、まあまあ」

「まあまあじゃありません!」

お花は博之の首筋に布を押し当てた。

「本当に、無茶しないでください……」

声が震えていた。

「命があっただけ良かったやん」

「良くないです!」

即答だった。

「全然良くないです! もうちょっと自分の今の立場を考えてください!」

博之は困ったように笑った。

「考えてはいるんやけどな」

「考えてたら、首に薙刀を当てられたまま喋り続けません!」

お花の涙は止まらなかった。

料理番たちは、先ほどまでの熱がすっかり冷め、気まずそうにうつむいている。

ヨイチも黙っていた。

手元の帳面を閉じたまま、博之の首筋と、お花の顔を交互に見ている。

博之は少しだけ目を伏せた。

「……すまん」

「本当にすみませんと思ってますか」

「思ってる」

「旦那様は、すぐそうやって笑ってごまかします」

「いや、今回はほんまに」

「ほんまなら、次からやめてください」

博之は、少しだけ息を吐いた。

「でも、お花さんだって似たようなもんやん。危ない時、前に出るやろ」

「そうですけど」

「ほら」

「でも、私の代わりはいます」

お花は、泣いたまま、はっきり言った。

「旦那様の代わりはいないんです」

その一言で、場の空気が変わった。

博之は何も言えなくなった。

松坂本店。

白子。

大湊。

津。

奈良。

堺。

京都郊外。

大津。

草津。

もう、自分一人の命ではない。

根なし草のつもりでいても、伊勢松坂屋にはたくさんの人がぶら下がっている。

飯を食い、寝床を得て、明日をつないでいる者がいる。

博之がいなくなれば、ただ店主が一人死ぬだけでは済まない。

「……分かった。次から気をつける」

「本当ですか」

「本当や」

お花はまだ信用していない顔をしていたが、それ以上は言わなかった。

博之は、布を押さえながら、ヨイチを呼んだ。

「ヨイチ」

「はい」

「三好と六角に、それぞれ五百万文を用意する。文を書け」

ヨイチの目が、すっと変わった。

「本当に動かしますか」

「動かす。今日で条件は満たした。会場を荒らされた。飯を踏まれた。器を割られた。

客を脅された。首に刃を当てられた。十分や」

ヨイチは帳面を開き、筆を取った。

「文面は、攻撃依頼ではなく、治安維持の協力願いですね」

「そうや。比叡山を攻めてくれとは言わん。領内で乱暴狼藉があれば取り締まってほしい。

そのための協力金として五百万文」

「承知しました」

「銭は松坂から一気に持ってくるな。目立ちすぎる」

博之は地図を見ながら、早口で指示を出していく。

「三好方へは、奈良、大和八木方面から順々に流せ。買い付け隊の荷に混ぜる。

米、布団、瀬戸物、小物と一緒に分けて運ぶ」

「はい」

「六角方へは、近江筋や。草津、大津、必要なら関・亀山も使う。

これもしばらくかけて五百万文を流す。できるだけ早く。ただし、雑にするな」

「承知しました」

「それから松坂本店にも文を出せ。大津で催しが荒らされた。人的被害は軽微。

大旦那は軽傷。騒ぐな。ただし、京都郊外、大津、草津の拠点は警戒を強める。

危ない時は荷を捨てて逃げろ」

お花が横から低い声で言った。

「大旦那は軽傷、ではなく、首筋に刃傷あり、と書いてください」

「それは大げさやろ」

「大げさではありません」

ヨイチは、博之を見ずに筆を走らせながら言った。

「事実として、首筋に刃傷あり、と記します」

「お前まで」

「必要です」

ヨイチは、壊れた会場を見ながら、少しだけ口元を緩めた。

「旦那様、やっぱりこれから始まりますね」

お花が即座に睨んだ。

「何が始まるって言うんですか、ヨイチ」

ヨイチは姿勢を正した。

「……対応が始まります」

「本当に二人とも」

お花はまた深くため息をついた。

博之は笑いかけたが、お花の目を見て、すぐにやめた。

「明日は草津で催しや」

ヨイチが確認する。

「中止しませんか」

「しない。警護を増やす。逃げ道を作る。けど、止めない。ここで止めたら、

向こうの仏罰とやらが効いたことになる」

「分かりました」

「その次の日、六角の観音寺へ行く。お願いをしに行く形を整えてくれ」

「観音寺城、六角義賢様筋ですね」

「直接会えるかは分からん。けど、筋は通す。大津でこういうことがありました。

伊勢松坂屋は戦を求めません。ただ、領内で飯場や市を荒らす者があれば、

取り締まりをお願いしたい。そのために五百万文を用意しております、と」

ヨイチが筆を走らせる。

「三好方にも同様の文を」

「そうや。どちらかに偏らん。飯屋として、治安をお願いする」

会場では片付けが始まっていた。

割れた器を集める者。

こぼれた飯を片付ける者。

無事だった鍋を確かめる者。

逃げた客の安否を聞きに走る者。

料理番たちは、先ほどまでの興奮を抑え、黙々と動いている。

お花の一喝が効いたのだろう。

その夜、大津では簡単な飯だけを食べた。

誰も大きな声では話さなかった。

だが、沈み込みきってはいない。

壊された。

脅された。

血も出た。

それでも、人は死んでいない。

飯屋は止まっていない。

翌朝。

草津へ向かう前の朝餉で、また小鉢が並んでいた。

博之は膳を見て、少し笑った。

「こんな時でも品評会か」

料理番が、照れたように言った。

「こういう時だからこそ、飯はちゃんと出さないと」

博之は頷いた。

「そうやな。ちょっと日常に戻ってきたな」

焼きおにぎりをかじる。

「これは焦げがええな」

つみれ汁をすする。

「少し味噌が薄いけど、朝ならええ」

野菜の小鉢を食べる。

「これは任せでええやろ」

ぽん、と焼印を押しかけた瞬間、お花の視線が刺さった。

博之は手を止めた。

「……慎重に見ます」

「お願いします」

お花は、まだまだご立腹だった。

首筋の布も、朝から何度も替えさせられた。博之が「もう血止まってる」と言っても聞かない。

ヨイチが横で小さく笑う。

「旦那様、今日はおとなしくされた方がよろしいかと」

「お前も昨日怒られたやろ」

「はい。なので今日はおとなしくします」

「ほんまか?」

「たぶん」

お花が二人を睨む。

「二人ともです」

「はい」

二人は同時に返事をした。

草津へ向かう準備が進む。

警護は増やした。

逃げ道も確認した。

三好と六角への文も出した。

五百万文ずつを流す準備も始めた。

観音寺へ向かう段取りも進めている。

それでも、朝は飯だった。

小鉢が並び、汁が湯気を立て、焼きおにぎりの香りがする。

壊されても、飯は出る。

踏まれても、また炊く。

博之は、首筋の痛みを少し感じながら、静かに言った。

「飯屋やからな。飯が出てるうちは、まだ負けてへん」

お花は怒った顔のまま、少しだけ目を伏せた。

「だからこそ、旦那様も生きててください」

今度は、博之も茶化さなかった。

「分かってる」

草津へ向かう。

催しを止めず、飯を止めず、銭を動かし、記録を残しながら。

お花は怒り、ヨイチは一人で筆を走らせ、博之は朝飯を食う。

大津の騒動は終わっていない。

むしろ、ここから始まる。

それでも伊勢松坂屋は、今日も飯を炊いていた。