作品タイトル不明
比叡山の一連のやり取りから一夜。大津の師範代催しに行くが緊張状態。催しの途中で比叡山の僧兵が乱入。無茶苦茶になる。
翌朝、博之たちは京都郊外の寺を発つことにした。
翌日は大津で師範代催しをする予定になっている。京都郊外にいつまでも腰を据えるわけにはいかない。
出立前、博之は住職に深く頭を下げた。
「お世話になりました。飯のことも、山科様への筋も、ほんま助かりました」
「こちらこそ、ようお越しくださいました」
「それと……新しい厄介の種を持ち込んでしまって、申し訳ないです」
比叡山の使いの件である。
住職は苦笑した。
「まあ、これも副作用のようなものでしょう。大旦那が飯を運び、人を集め、銭を動かす。
そうなれば、寄ってくるものもあります」
「副作用にしてはきついですけどね」
「ですが、もともとご飯を運んできてくれたことだけでも、こちらには十分ありがたい話です」
博之は少し安心した。
「もし危ないことがあれば、すぐ逃げてください。寺も、もし壊されたら立て直しますから」
住職は目を丸くした。
「太っ腹ですな、大旦那は」
「人が死ぬよりましです」
「それはそうですが……敵を作るのもほどほどになさいませ。いくら銭があっても、
敵ばかり増えれば身がもちません」
博之は少し笑った。
「根なし草なんでね。もともと、守るもんなんかなかったようなもんですし」
住職は、静かに首を振った。
「今は違います。守るべき人ができたでしょう」
その言葉に、博之は少し黙った。
お花が横で小さく頷く。
ヨイチも何も言わない。
「……ほどほどにします」
「ぜひ、そうなさってください」
住職に見送られ、一行は大津へ向かった。
大津では、すでに師範代催しの準備が進んでいた。
とはいえ、ここでの開催は初めてである。料理番も、帳場も、手伝いの者たちも、
動きが少しぎこちない。前売り札の確認、竹串の箱、品目ごとの札、客の入替。
松阪や港で聞いていた通りにやろうとしているが、実際にやるとなると勝手が違う。
さらに、比叡山の件が文で届いていたため、場の空気は妙に張り詰めていた。
博之が入ると、皆が一斉に頭を下げた。
「旦那様」
「大旦那様」
「お疲れ様です」
博之は手を振った。
「そんな固くならんでええ。警護は増やす。何かあった時は、何かあった時や。
うちはうちのやり方で戦う」
料理番の一人が、妙に力強く頷いた。
「はい!」
別の者も言う。
「私たちの食い口を荒らすなんて、許せません」
「ここまで来て、ようやく飯と寝床が安定してきたんです」
「比叡山だろうが何だろうが、勝手に荒らされたら困ります」
お花が慌てて止める。
「いやいや、みんな、やる気満々でどうするんですか。違う意味で困ります」
博之は、その様子を見て、にやりと笑った。
「ああ、みんなやっぱそう思うか」
「旦那様も笑わないでください」
「いや、嬉しいやん」
ヨイチが冷静に言った。
「戦うといっても、武器を取る意味ではありません。逃げる、記録する、飯を止めない。
そこを徹底してください」
「はい!」
また返事がそろう。
お花は頭を抱えた。
「だから、気合いが入りすぎなんです」
それでも、催し会は始まった。
初回にしては、よく回っていた。
湖の魚を使った汁。
小鮎の焼き物。
薄味の炊き合わせ。
旅人向けの焼きおにぎり。
京寄りの野菜天ぷら。
魚の酢だれ漬け。
客も最初は緊張していたが、食べ始めると空気がほどけた。
「これ、湖の魚か」
「小さいけど味があるな」
「焼きおにぎり、旅の途中にええわ」
「この酢の魚、冷めても食えるな」
竹串も順調に入っていく。
前売り札の混乱も小さく済んだ。手伝いの者たちも、少しずつ流れをつかんでいた。
博之は少し離れたところで見ていた。
「悪くないな」
ヨイチが頷く。
「大津は大津の飯があります。湖の魚をどう使うかが鍵ですね」
「うん。堅田まで見る意味も出てきたな」
お花は周囲を警戒していた。
「このまま穏便に終わればいいのですが」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、道の向こうが騒がしくなった。
ざわめきが広がる。
人が道を空ける。
低い読経のような声。
そして、神輿が見えた。
担いでいるのは、比叡山延暦寺の僧兵たちだった。
荒々しい足取りで、会場へ近づいてくる。
博之は、静かに息を吐いた。
「やっぱ来たか」
お花の顔がこわばる。
ヨイチはすぐに帳面を閉じた。
「予定通りです。人命優先」
僧兵たちは会場へ割り込んできた。
「仏罰じゃ!」
「延暦寺をないがしろにする者に、仏罰が下るぞ!」
「大膳亮とやら、飯と銭で都を汚すか!」
客たちが悲鳴を上げる。
料理番たちも身構えたが、博之が声を張った。
「みんな逃げえ!」
その声で、手伝いの者たちが一斉に動いた。
客を裏手へ逃がす。
子どもと年寄りを先に出す。
料理番を下げる。
火を落とす。
銭箱だけは持たせる。
器は捨てる。
荷も捨てる。
お花が女衆を誘導し、夜市が逃げた人数を確認する。
僧兵たちは、台を蹴り倒した。
小鉢が割れる。
汁がこぼれる。
焼きおにぎりが地面に転がる。
竹串の箱が踏まれる。
「仏罰じゃ!」
「見たか!」
「これが延暦寺を軽んじた報いや!」
暴れ回る僧兵たちを、博之は少し離れた場所から見ていた。
怒りはあった。
だが、思ったより頭は冷えていた。
人は逃がした。
料理番も逃げた。
火も消した。
なら、まだ負けではない。
やがて、ひとしきり荒らし終えた僧兵の一人が、博之の前に立った。
「どうや、大膳亮。腹に染みたか」
博之は、ゆっくり周囲を見た。
割れた器。
倒れた台。
こぼれた飯。
散らばる竹串。
そして、逃げて無事だった人々。
「満足したか」
博之が聞いた。
僧兵は鼻で笑った。
「まだ分からんようやな」
「いや、分かった。仏罰いうのは、器を割って飯を踏むことなんやな」
周囲が凍った。
お花が息を呑む。
ヨイチだけが、じっと見ていた。
僧兵の顔が赤くなる。
「何やと」
博之は静かに続けた。
「で、腹を切ればええんか」
「は?」
「腹を切ると言うても、こっちの腹やない。腹を切る、つまり銭を出せという話やろ」
僧兵たちは黙った。
「いくら欲しいんや」
博之は、まっすぐ相手を見た。
「器を割って、飯を踏んで、客を追い散らして、仏罰やと言うた。で、最終的にいくら欲しい」
僧兵の一人が、にやりと笑った。
「分かってきたやないか」
「分かりたくはなかったけどな」
博之の声は低かった。
「言え。千か、万か、十万か。それとも一千万文か」
その言葉に、僧兵たちの目が少し動いた。
やはり、そこを見ている。
博之は心の中で確信した。
比叡山は、一千万文を嗅ぎつけている。
僧兵は笑った。
「大膳亮殿は、ずいぶん持っておるそうやないか」
「持ってるな」
「なら、仏に納めるものもあろう」
「仏に納めるなら、飯を踏む前に言うたらよかったな」
僧兵の顔がまた険しくなる。
博之は、にこりともせず続けた。
「今日はもう、人も逃がした。飯も踏まれた。器も割られた。仏罰とやらは見せてもらった」
そして、少しだけ口元を歪めた。
「次は、こちらがどう銭を使うかを見てもらう番やな」
お花が、ぞくりとした顔で博之を見た。
ヨイチは、すでに帳面を開いていた。
日時。
場所。
僧兵の人数。
神輿。
破壊された品。
逃がした客。
怪我人の有無。
要求の言葉。
すべてを記録し始めている。
僧兵はまだ勝ったつもりで笑っていた。
だが、博之の目はもう、壊された会場ではなく、大津、堅田、京都郊外、草津、
そして三好と六角の方を見ていた。
飯は踏まれた。
器は割れた。
だが、人は生きている。
なら、伊勢松坂屋はまだ負けていなかった。