作品タイトル不明
藤井寺の親方たちが伊勢神宮参拝。誘惑を振り切って参拝すると厳かな空気に感動する。食べ歩きは楽しい。信楽焼の肉あん屋の福焼きのこじつけに笑う。皿が割れた時のリカバリーに感心する
伊勢の港から伊勢神宮へ向かう道は、藤井寺の鍛冶職人たちにとって、
何もかもが見慣れないものだった。
人が多い。とにかく多い。
旅装束の者、商人、女連れ、子ども連れ、僧、武家らしき者、遠国から来たらしい者。
さまざまな人間が、同じ方向へ流れている。
「……なんや、これは」
親方は思わず呟いた。
「祭りか?」
「毎日、多少はこういう感じです」
案内役が平然と言うので、若い職人たちは顔を見合わせた。
道の両脇には、食い物屋、小物屋、茶屋、土産物屋が並んでいる。焼き物の匂い、
甘い匂い、茶の湯気、呼び込みの声。目と耳と鼻が忙しい。
親方は、ふと茶屋の値札を見た。
「……お茶一杯三十文」
目を丸くする。
「ほんまに三十文や」
「言うたでしょう」
「どんだけ強気やねん」
若い職人が苦笑した。
「親方、先にお参りしましょう。ここで足止め食うたら、銭がなくなります」
「せやな。まず神様や」
親方は、誘惑を振り払うように歩き出した。
あちこちから声がかかる。
「甘いものいかがですか」
「伊勢の小物、旅の記念に」
「お茶、休んでいきなはれ」
「魚のすり身揚げ、熱々やで」
どれも気になる。だが、親方たちは顔を引き締めて進んだ。
「一生に一度来られるか来られへんかの場所や。先に神様に挨拶せなな」
そうして伊勢神宮の方へ入っていくと、空気が変わった。
先ほどまでの賑やかさが、少しずつ遠のいていく。大きな木々が並び、砂利を踏む音が静かに響く。
人は多いのに、不思議と騒がしくない。
若い職人の一人が、小声で言った。
「なんか……ほんまもんの神様が出てきそうですね」
親方は、思わず振り返った。
「神社の前なんやから、そんな言い方するなよ」
そう言いながらも、親方もあたりを見回した。
太い木々。深い影。風に揺れる葉。人の声が少し遠く聞こえる空気。確かに、
若い職人がそう言いたくなるのも分かる。
「……でも、ほんまにそうやな」
親方は小さく呟いた。
「それぐらい厳かや」
鍛冶場の火と鉄の匂いの中で生きてきた彼らにとって、この場所の静けさは別世界だった。
鉄を叩く音も、火花も、怒号もない。あるのは、砂利の音と、木々の気配と、人々が自然と
声を落とす空気だけだった。
親方は、静かに頭を下げた。
「みんなが一度は来たいと言うだけのことはある」
お参りを終えると、緊張が解けたように、親方は大きく腕を回した。
「よし。神様に挨拶も済ませたし、食うか」
若い職人たちは、急に顔を明るくした。
そこからがまた大変だった。
どこを見ても食い物がある。焼き物、揚げ物、茶、甘味、小物。何から
食えばよいのか分からない。しかも、どれも高い。
「なんでこんな高いんや」
「でも、ここでしか買えないと思うと、買いたくなりますね」
「松坂屋の旦那に小遣いもろといてよかったですね」
「恥ずかしいこと言うな。職人が飯屋に買い食い代もろて喜んどるみたいやないか」
「実際、ありがたいです」
「それはそうやけど」
親方たちは、少しずつ食い、少しずつ買った。
伊勢の小物を手に取り、遠方の品に驚き、お茶も一杯飲んだ。
「三十文の茶、うまいんか?」
「うまいというより……伊勢で飲んでるという気がします」
「それが、あの旦那の言う“体験”か」
「たぶん」
親方は、博之の言葉を思い出した。
安くしすぎたらいけない。
ここでは、場所と体験に銭が乗る。
まだ完全に納得したわけではない。けれど、少し分かる気がしてきた。
そうして歩いているうちに、伊勢松坂屋が端の方で出している店へ着いた。
まず目に入ったのは、魚のすり身揚げだった。
「八十文、百文」
親方は値を見て眉を上げる。
「これも高いな」
「でも、けっこう売れてますよ」
横では、マグロの汁物が一椀百文で出されている。湯気が立ち、旅人たちがありがたそうに
すすっていた。
「汁物で百文か」
「場所代と体験代込みなんでしょうね」
「お前、さっきから松坂屋の旦那みたいなこと言うな」
若い職人が笑った。
そして、その隣に肉あん屋があった。
女衆が明るい声を上げている。
「信楽焼に乗った肉あんと福あん、いかがですか。五つ合わせて百五十文でございます」
「ご縁に、福がひとつ。赤い福あん入りでございます」
「熱いうちにどうぞ」
親方は目を細めた。
「百五十文。なかなか強気やな」
「朝、少し出してもらったやつですよね」
「ああ。うまかったやつや」
一行は試しに入ってみることにした。
出された皿を見て、親方は黙った。
信楽焼の器に、肉あんが四つ。そこに、赤みがかった海老のあんが一つ。女衆が説明する。
「こちらの赤いものが福あんでございます。海老のあんでして、赤は福を呼ぶ色とも申します」
親方は少し笑った。
「こじつけやな、あの旦那」
「でも、嫌いじゃないですね」
若い職人が言う。
「五つ並んでると、なんか楽しいです」
親方は、肉あんよりもまず器を見た。
信楽焼。
土の色、ざらりとした質感、少しずつ形の違う器。それが肉あんを特別なものに見せている。
「……なるほどな」
「何がですか」
「これが、見せるいうことか」
周りの客も同じだった。
「この器、ええなあ」
「持って帰れんのか?」
「いや、器は店のものやろ」
「信楽焼で飯を食うなんて贅沢やな」
肉あんはもちろんうまい。だが、客たちは器にも惚れ惚れしていた。
親方は、松阪港の海鮮焼きを思い出した。あれも、味だけでなく、焼く姿が人を集めていた。
ここでは、器と場所が人を惹きつけている。
その時だった。
ぱりん、と音がした。
少し離れた席で、客の一人が信楽焼の小皿を落としてしまったのだ。
場が一瞬、静かになった。
落とした客は、真っ青になっている。
「す、すまん。これは高いものやろ。弁償を……」
すると、店の女衆がすぐに膝をつき、穏やかに言った。
「お気になさらないでくださいませ」
「いや、しかし」
「器の運命が、ここで終わっただけの話でございます」
客は、ぽかんとした。
女衆は続ける。
「もし少しでも申し訳なく思われるのでしたら、よそのお店で何か召し上がってくださいませ。
あるいは、お賽銭を少し多めにしていただければ、それで十分でございます」
「本当に、それでいいのか」
「はい。器は使ってこそでございますから」
親方は、そのやり取りを聞いて、思わず笑った。
「すごいな」
若い職人が尋ねる。
「何がですか」
「割れたことまで、商いの中に入っとる」
親方は、少し感心したように言った。
「普通なら怒るか、弁償させるか、場がしらける。けど、あの女衆は“器の運命”言うて、
客を安心させた。そのうえで、よその店や賽銭に銭を流す。これ、全部含めての見せ方や」
「演出みたいですね」
「そうや。トラブルまで演出にしてる」
親方は肉あんを一つ口に入れた。
熱い。
肉の旨味があり、皮はほどよく、味は濃すぎない。小さいが満足感がある。
「それにしても、うまいな」
福あんも食べた。
海老の香りがふわりと広がる。赤い色も、確かに縁起物のように見える。
「百五十文か。高いと思ったが、場所と器と話込みなら、分からんでもないな」
親方は信楽焼の器をもう一度見た。
この器も、海鮮焼きの金型も、同じなのだと思った。
ただの道具ではない。
飯を乗せ、人を集め、驚きを作り、値段に納得させるための舞台なのだ。
藤井寺の鍛冶場で鉄を叩いていた時には、想像もしなかった世界だった。
「飯屋のくせに、奥が深いな」
親方がそう呟くと、隣にいた案内役が笑った。
「旦那様のせいです」
「それ、みんな言うな」
「本当にそうなので」
親方は、肉あんの最後の一つを口に入れ、満足そうに息を吐いた。
伊勢神宮で売るということ。
値を高くするということ。
器を使うということ。
客に体験を買わせるということ。
そして、ほんまもんの神様が出てきそうな場所で、飯を出すということ。
少しずつ、腹に落ちてきていた。