軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8月3週目。2週末の帳簿。874万文→1,234万文。飯の提供数を増やしたことで大幅増加。

「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」

ヨイチが帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は畳の上で両手を合わせた。

「もう勘弁してくれ」

「勘弁したいのはこちらです」

「今回、飯の量も増やしたやろ。信楽焼きの器で出す分も増えたやろ。御礼札も作る言うたやろ。

北伊勢も大和八木も信楽も動いてるやろ。もうどうしようもないやん」

「どうしようもありません」

「認めるんか」

「はい。ですので、今回はもう、ざっくりざっくりでいきます」

ヨイチは、いつものように細かい紙束を広げるのではなく、大きな帳面を一冊だけ開いた。

「とはいえ、計算しないわけにはいきませんので、一応全部こちょこちょこちょこやりました」

「その言い方がもう怖い」

「細かく言うと旦那様が倒れます」

「倒れる自信ある」

「なので、荒々で出しております」

お花が横で茶を置く。

「旦那様、覚悟してください」

「覚悟したくない」

ヨイチは淡々と読み上げた。

「大きく見ますと、松阪、伊勢、鳥羽、津は稼ぎ頭です」

「鳥羽と津も入るんか」

「入ります。鳥羽はまだ立ち上がり費用がありますが、港飯が乗ってきています。

津も港と郊外が動き始めました。松阪と伊勢は、もう説明しません」

「説明せえへんのか」

「説明すると長い上に、怖いです」

「怖いって帳簿役が言うな」

「怖いものは怖いです」

ヨイチは次の欄を指した。

「一方で、伊賀流れ、名張流れを合わせると、まだマイナス十万文ほどです」

「まあ、上野と名張は道づくりやからな」

「はい。上野は信楽焼きの道。名張は餡子の道です」

「信楽は?」

「信楽は六角方への筋通し、拠点立ち上げ、荷置き場、飯場、検品場で、マイナス十一万五千文」

「そこもまあしゃあない」

「北伊勢は、白子、関、亀山方面の地ならしで、ほぼトントン。少しだけマイナス二万九千文です」

「おお、思ったより軽いな」

「歓迎気味なので、津よりは進みが早そうです」

「長野様が聞いたら怒るやつや」

「怒りますね」

「言い切るな」

「大和八木方面はマイナス四万文。ただし、こちらはまだ飯会と情報収集の段階です。

寺社、筒井、松永、大和国人が絡むので慎重に進めます」

「ややこしいところやな」

「はい。ただ、餡子の道としては重要です」

博之はもうこの時点で頭を抱えていた。

「で、結局どうなんねん」

「ここから買い付け便です」

「出た」

「松阪、伊勢、津、鳥羽、上野、名張、信楽、北伊勢方面で、品をぐるぐる回すようになってきました。今、ざっくり三十五万文ほどの買い付けが動いています」

「三十五万文がぐるぐる」

「はい。信楽焼き、伊勢小物、松阪布、味噌、紙、草履、港物、干物、墨、型紙、灯り物の種、

いろいろです」

「飯屋の買い付けちゃうやろそれ」

「もう飯屋だけではありません」

「また言われた」

「この買い付け分に、かなり安全に見て一・五倍をかけます」

「前、二・五倍とか言うてなかった?」

「三十五万文が、五十二万五千文相当の利益になります」

「おお……」

「それらを全部合わせますと、今回の粗い利益は三百九十万文ほどです」

博之は固まった。

「……三百九十万?」

「はい」

「半月とかその辺の帳簿やろ?」

「その辺の帳簿です」

「怖すぎるやろ」

「怖すぎます」

ヨイチは、さらに筆で線を引いた。

「ですので、諸々三十万文を引いておきます」

「諸々ってなんやねん」

「諸々です」

「出た、諸々」

「御礼札、寄進、運賃、鉄板、紙、火の番、寺社、調整役への礼、細かい損耗、旦那様の

思いつき対策費です」

「最後のなんや」

「必要です」

「否定できん」

「それで、差し引きプラス三百六十万文です」

博之は、畳に手をついた。

「……三百六十万文、増えたん?」

「増えました」

「もう嫌や」

「前回の残が八百七十四万ほど」

「そこに三百六十万文を足します」

ヨイチは、少しだけ間を置いた。

「おめでとうございます。大台突破でございます」

「言わんでええ」

「千二百三十四万文です」

座敷が静まり返った。

博之はしばらく口を開けたまま固まり、やがて小さく言った。

「一千万文、超えたん?」

「超えました」

「怖すぎる」

「はい」

「一生かかっても使いきれへんやろ」

ヨイチは無表情で言った。

「旦那様なら使います」

「なんでやねん」

「北伊勢に撒きます。大和八木に撒きます。信楽に拠点を作ります。御礼札を作ります。

寺社縁会をします。新しい飯を作ります。子どもに飯を食わせます。布団を買います。

鉄板を増やします」

「使いそうやな」

「使います」

お花が、少し柔らかい声で言った。

「でも、旦那様。銭だけを抱えているわけではありません。飯に変えて、道に変えて、

人に変えて、縁に変えておられます」

「そんな綺麗なもんかな」

「綺麗かどうかは分かりません。でも、少なくとも蔵に眠らせてはいません」

博之は、信楽焼きの小皿を見た。

最初は、飯を食うためだった。

ボロ小屋で、冷や飯をすすりながら、どうにか一日をつなぐためだった。

それが今は、松阪、伊勢、津、鳥羽、上野、名張、信楽、北伊勢、大和八木。

皿、砂糖、墨、型紙、御礼札、お好み焼き、ふくふく焼き。

話が遠くまで行きすぎて、怖くなる。

「俺ら、もともとそんな大層なためにやってたんちゃうやんな」

「はい」

ヨイチが静かに答えた。

「飯を食うために始めました」

「それがなんでこんなことになったんやろ」

「旦那様が、飯を食わせ続けたからです」

博之は黙った。

お花が笑った。

「難しいことは、全部あとで考えればよろしいのでは」

「ええんか」

「はい。目の前の人を救うとか、世のため人のためとか、そういう大きな言葉は、旦那様には

少し重いです」

「重いな」

「だから、私たちとわちゃわちゃやるために、頑張ってください」

博之は、少し驚いた顔でお花を見た。

「わちゃわちゃ?」

「はい。新しい飯を考えて、ヨイチさんに怒られて、女衆に刺されて、子どもたちが騒いで、

地侍が皿を運んで、和尚さんが笑う。そのために頑張ればよろしいかと」

ヨイチも頷いた。

「旦那様がいきなり天下国家を考え始めると、たぶん店が傾きます」

「ひどい」

「ですが、飯と人の顔を見ている限りは、意外と回ります」

「意外となんや」

「かなり回ります」

博之は、しばらくして小さく笑った。

「じゃあ、俺は何をしたらええんや」

「帳簿を見てください」

「それは嫌や」

「新しい飯を考える前に、今ある飯を整えてください」

「それはやる」

「千二百三十四万文を抱えて、変な女に引っかからないでください」

「それは皆で守ってくるやろ」

「守ります」

お花が即答した。

「芸子さんも?」

「呼ばせません」

「昼寝は?」

「一万文で、一ミリも動かないなら検討します」

「まだその条件なんか」

座敷に笑いが起きた。

怖い数字は、まだ帳面の上にあった。

千二百三十四万文。

だが、その数字を見て笑ってくれる者がいる。

怒ってくれる者がいる。

突っ込んでくれる者がいる。

博之は畳に寝転がり、天井を見上げた。

「まあ、楽しくやるか」

「はい」

お花が頷いた。

「楽しくやりましょう」

ヨイチは帳面を閉じた。

「ただし、楽しくやるためにも帳簿は見ます」

「最後にそれ言うな」

また笑いが起きた。

飯を食うために始めた小さな店は、いつの間にか一千万文を超える商いになっていた。

けれど、博之が本当に欲しかったのは、蔵の中の銭ではなかった。

しょうもないことを言えば、誰かが突っ込んでくれる。

怖い数字を見れば、誰かが一緒に笑ってくれる。

それがあるなら、もう少しだけ、この妙な飯屋を続けてもいい。

博之はぽつりと呟いた。

「次は、何作ろかな」

ヨイチが即座に言った。

「まず帳簿です」

「夢がない」

「夢を見るための帳簿です」

「うまいこと言うな」

お花が笑った。

伊勢松坂屋は、また今日も、怖い帳簿と新しい飯の間で、騒がしく回っていた。