作品タイトル不明
第4話 冷淡な公爵の契約書/一文字も読めない後任
クロイツ公爵が差し出した契約書は、二枚だけだった。雇用契約としては短い。けれど、短いことと軽いことは違う。余計な言い回しを削り、責任の位置をはっきりさせた文書は、長い飾り文よりずっと強い。私は翻訳組合の小部屋で、灰色の封蝋を割った。
窓の外では雨が細くなり、屋根を伝った水滴が一定の間隔で落ちている。マルタはサラに温かい茶を飲ませ、グレタは下の受付で商人たちと口論していた。古い会館は騒がしいのに、不思議と落ち着く。
「臨時外交顧問」
契約書の冒頭を読み、私は思わず声に出した。
「顧問ですか」
「通訳官として雇えば、あなたは私の言葉だけを運ぶことになる」
公爵は向かいの椅子に座っていた。濡れた外套を脱いでも、部屋の温度が下がったように見える人だった。顔立ちは整っているが、笑わない。社交界で冷淡な公爵と呼ばれる理由はよく分かる。
「顧問なら、必要に応じて私の言葉を止められる」
「雇い主の発言を止める権限を、契約に入れるのですか」
「誤訳より安い」
私は二枚目へ目を落とした。
報酬は月ごと。支払先は私名義の口座。職務範囲は翻訳、草案監修、六カ国会議の準備、国境避難民条項の精査。居住については、クロイツ公爵家の王都別邸に一室を用意するが、利用は任意。護衛は業務上の移動時のみ。私的な行動を制限しない。
最後に、婚姻状態または離縁手続きの進行は契約効力に影響しない、と書かれていた。私はその一文を指でなぞった。
「この条項は」
「必要だと思った」
「私が今日、夫の屋敷を出ることを予測していたのですか」
「予測ではない。三年前から、起こり得ると思っていた」
顔を上げると、公爵は窓の外を見ていた。
「停戦交渉のとき、ヴァルニエ侯爵は古帝国語の引用を読み間違えた。衝立の後ろから、あなたが山岳語で訂正した。彼は自分の咳払いのように扱ったが、北方三国の大使は全員聞いていた」
私の指が紙の上で止まる。あのとき、私は衝立の後ろにいた。侯爵夫人として同席を許されず、夫の控えの椅子にも座れず、書記たちのさらに後ろで耳だけを使っていた。自分の声が届いたとは思っていなかった。
「聞こえていたのですか」
「あなたの声だけではない。あなたが咳を一度したあと、侯爵が同じ言葉を繰り返した。あれ以降、カルヴァレンでは重要な会議の記録に、ヴァルニエ侯爵ではなく『衝立の通訳官』という注記を入れている」
衝立の通訳官。少し笑いそうになり、笑えなかった。名前ではなかった。けれど、そこには私がいた。
「なぜ今まで声をかけなかったのですか」
「あなたは侯爵家の人間だった。こちらが引き抜けば、政治問題になる」
「今日は問題になりませんか」
「なる」
公爵はあっさり言った。
「だが、南方連盟との覚書が崩れれば、国境の冬はもっと大きな問題になる。あなたは、誰の名で文書を書くかを選ぶ権利がある」
その言葉は、優しい慰めではなかった。むしろ、硬い石を掌に乗せられたようだった。権利は、持つだけでは重い。使えば責任が生じる。
「私は今日、侯爵家を出たばかりです。別居届もまだ出していません。社交界では、夫を捨てた女と呼ばれるでしょう」
「すでに呼ばれている」
「早いですね」
「王都の噂は、悪意がある時だけ速い」
淡々とした声だったので、かえって少しおかしくなった。私は契約書を読み返した。古帝国語の引用に誤りはない。王国法の条項番号も合っている。支払日も、解除条件も、守秘義務も明確だ。ただ一つ、不思議な余白がある。
「この署名欄が二つあります」
「一つは雇用契約。もう一つは、あなたが契約を拒む場合の紹介状だ」
「紹介状?」
「翻訳組合、外務院の下級審査官、港湾商会のどこへでも使える。私はあなたを必要としているが、あなたの選択肢を減らしたくない」
私は言葉を失った。外交の場で沈黙は危険だ。沈黙は同意とも拒否とも取られる。だから私は、どの言語でも返事を用意しておく癖がある。けれどその時、何も出てこなかった。公爵はまた急かさなかった。ただ、窓際の椅子に置かれたサラの濡れた靴を見て、視線を少しだけ柔らかくした。
「その子も同行するなら、別邸に写字見習いの席を用意できる。断るなら、組合の寮を紹介する」
「なぜ、そこまで」
「国境の子どもの文を読める者は、冬に必要だ」
それは恋愛小説の都合のよい台詞ではなかった。けれど私には、宝石の褒め言葉よりも深く刺さった。私は鞄から父の万年筆を出した。指先に少し雨の冷たさが残っている。
「契約します。ただし、条件を一つ足します」
「どうぞ」
「私が作成した文書には、私の名を記載してください。草案でも、注記でも、誤字修正でも。責任を負う以上、名を消されたくありません」
公爵は、初めてほんの少し口元を動かした。笑ったのだと気づくまでに、数拍かかった。
「それは最初から入れてある」
彼は二枚目の下部を指した。小さな文字で、成果物の記名規則が書かれている。作成者、監修者、翻訳者、校閲者。それぞれの名を記録し、後日の検証に備えること。私はその条項を見落としていた。疲れていたのだ。そう認めると、急に肩の力が抜けた。
「では、署名します」
父の万年筆で、私は名前を書いた。イザベル・レヴィエ。紙の上に自分の名が残る。それだけのことなのに、胸が痛いほど苦しくなった。公爵も署名した。筆跡はまっすぐで、飾りが少ない。契約書を取り交わしたあと、彼は立ち上がった。
「明朝、外務院で南方連盟の覚書について協議がある。三カ国が更新を保留する意向を示している」
「三カ国も?」
「北方、港湾、砂州。理由は同じではないが、根は同じだ。ヴァルニエ侯爵が説明できなければ、冬前の通行許可が止まる」
侯爵家の食堂に置いてきた文書の束が、頭に浮かんだ。私が脚注を入れた箇所。夫が枝葉と呼んだ箇所。
「私は明朝、外務院に入れますか」
「契約書がある」
公爵は私の署名が入った紙を軽く叩いた。
「あなたの名で」
その言葉に、私は頷いた。窓の外で雨が止みかけている。雨宿りは終わった。次は、濡れた道を自分の足で歩く時間だった。
◇
アルマン・ヴァルニエ侯爵は、妻が出ていったあとも、しばらく怒りを保っていた。怒りは便利だった。食堂に残った書類の束、使用人たちの沈黙、リリーヌの不安げな瞳。そのすべてを、妻のわがままとして片づけられる。
「旦那様、イザベル様は本当に戻られないのでしょうか」
リリーヌが、南書庫の椅子に腰かけながら尋ねた。彼女はこの部屋を気に入っていた。壁一面の本棚と、大きな机。窓際には鉢植えの月桂樹が置かれ、床には厚い敷物が敷かれている。たしかに、令嬢の私室として使うには整っている。
ただし机の上には、彼女の香水瓶より大きな辞書が六冊積まれていた。
「戻る。あれは意地を張っているだけだ」
アルマンはそう言い、リュゼール語版の覚書を開いた。妻の筆跡は整っている。細く、読みやすく、余白の取り方まで見慣れていた。彼はその文字を頼りに何度も大使の前で話してきた。だが今朝は、その文字が妙に冷たく見えた。
「署名式は明日ですわよね」
「今夜、私が目を通せばよい」
「わたしもお手伝いします。イザベル様ばかりに頼っていては、旦那様もお困りでしょうし」
リリーヌは明るく言った。アルマンの胸に、少し誇らしいものが湧いた。そうだ。妻の代わりはいる。リリーヌは外交の専門家ではないが、場を和ませる力がある。大使たちも、あの冷たい妻より彼女の方を好むだろう。
「では、この北方語版を見てくれ。リュゼール語版と同じ箇所に印をつければいい」
「北方語……」
リリーヌは紙を受け取り、微笑んだまま固まった。数行目で目が泳ぐ。
「これは、どこから読むのですか」
「左からだ」
「左……あ、はい。もちろんです」
彼女は羽根ペンを持った。けれど一つ目の単語で止まる。アルマンは少し苛立った。
「簡単な確認だ。昨夜、イザベルが印をつけた箇所と同じ場所を探せばいい」
「でも、文字の形が似ていて……」
「北方語は学院で学んだだろう」
「詩の授業で少しだけですわ。外交文書は、独特で」
独特。その言葉は、アルマンの耳に都合よく響いた。確かに外交文書は独特だ。だから今リリーヌが読めないのも無理はない。専門の妻が必要だったわけではなく、文書が難しいだけだ。そう考えようとした時、執事が扉を叩いた。
「旦那様、外務院より使者がお見えです」
「通せ」
入ってきたのは若い書記官だった。顔色が悪い。手には三通の封筒がある。封蝋はそれぞれ違っていた。北方三国、港湾連盟、砂州自治領。
「ヴァルニエ侯爵閣下。明日の署名式につき、三カ国より保留通知が届いております」
「保留?」
アルマンは封筒を奪うように受け取った。一通目は北方語。二通目は港湾語。三通目は古帝国語を混ぜた砂州語だった。読めるはずだった。少なくとも、そう見せてきた。だが、最初の三行が意味を結ばない。北方語の挨拶は分かる。敬称も分かる。だが、そのあとに続く条項番号と留保理由が、昨日の妻の説明なしでは霧のように広がるだけだった。
「何と書いてありますの?」
リリーヌが心細げに尋ねた。書記官も、同じ答えを待っている。アルマンは喉を鳴らした。
「おそらく、形式的な確認だ」
「おそらくでは困ります」
書記官は小さく言った。アルマンは彼を睨んだ。
「何か言ったか」
「失礼いたしました。ただ、 外務卿(がいむきょう) が至急の返答を求めております。特に第七条の訳語について、ヴァルニエ侯爵閣下からの説明を」
第七条。朝、イザベルが何か言っていた。避難民、港、労働移送。枝葉だと思って聞き流した。アルマンは書類の束をめくった。リュゼール語版には妻の脚注がある。だが、北方語版のどこに同じ脚注が対応しているのか分からない。港湾語版には見慣れない略号があり、砂州語版には古帝国語の引用が続いている。
リリーヌが震える声で言った。
「イザベル様に、少しだけ戻っていただいては……」
「戻ると言わせる」
アルマンは手紙を机へ叩きつけた。
「妻が夫の仕事を途中で投げ出すなど、許されるはずがない」
書記官は目を伏せた。その沈黙が、彼には気に入らなかった。
「何だ」
「いえ。ただ、外務院の記録では、昨夜までの文書作成者はヴァルニエ侯爵閣下となっております」
「それがどうした」
「作成者であれば、説明責任も閣下にございます」
その言葉は、南書庫の空気を重くした。アルマンは初めて、妻が置いていった空白の重さを感じた。彼女の椅子は、空いているだけではない。そこに座っていた人間が何をしていたのか、誰も正確には知らなかった。リリーヌが北方語の紙を握りしめたまま、泣きそうな顔で言う。
「旦那様、わたし、頑張りますわ。読み方さえ教えてくだされば」
アルマンは返事をしなかった。教えられない。その事実を認めるには、まだ誇りが邪魔だった。外では雨がやみ、雲の隙間から薄い光が差している。イザベルが使っていた机の上で、三通の拒否状だけが濡れたように光っていた。