作品タイトル不明
第3話 雨宿りの翻訳
侯爵家を出て最初に向かったのは、公証人の役所ではなかった。雨が強かったからだ。それから、サラの唇が青かったからでもある。王都の中央橋を越えたところに、古い翻訳組合の会館がある。父が生きていた頃、王都へ来るたび連れてこられた場所だ。扉は重く、窓枠は歪んでいて、玄関にはいつも湿った紙の匂いがしていた。
私はその匂いを覚えている。人に忘れられても、紙は残る。
「奥様、ここは」
「昔の職場に近い場所です。雨宿りにはなります」
「でも、わたしたち、お金が」
サラが言いかける。
「お金を払って部屋を借ります。施しは受けません」
会館の受付にいた白髪の女性は、私を見て目を細めた。
「まあ。レヴィエの娘さんじゃないかい」
「ご無沙汰しております、グレタ様」
「今はヴァルニエ侯爵夫人だろう」
「今日から、ただのイザベル・レヴィエです」
そう名乗ると、口の中で少し苦く、少し軽かった。グレタは事情を聞かなかった。濡れた外套を見て、サラの震える指を見て、マルタが抱えた鞄を見た。それだけで、受付の下から古い鍵を取り出した。
「三階の小部屋が空いている。窓は北向きで、椅子は一つ足りない。前金なら一週間で銀貨三枚」
「払います」
「それと、ちょうど人手が足りない」
グレタは奥の机を指した。そこには商人が三人、濡れた帽子を抱えて立っていた。テーブルには港湾語の手紙と、山岳語の領収書と、王国語で書かれた荷受け控えが広がっている。
「港から来た荷が止まってる。誰も三つをつなげて読めない。あんた、手が空いているかい」
私はマルタとサラを見た。マルタはすでに濡れた外套を椅子へ掛け、サラの髪を布で拭いている。
「少しなら」
言った瞬間、体が仕事の姿勢を思い出した。濡れた紙を乾かしすぎると文字が浮く。港湾語の商人は、急ぐ時ほど敬語を省く。山岳語の領収書は数字を右から左へ書く癖がある。私は手紙の折り目を確認し、インクの濃さを見て、三通の時系列を並べた。
「荷は紛失していません。山岳側の倉庫で止まっています」
商人の一人が身を乗り出した。
「本当か」
「はい。港の書簡では『不足』とありますが、これは欠品ではなく、通行証の欄が不足しているという意味です。山岳語の領収書には、保管料が三日分だけ加算されています。明朝までに北門の関所へこの控えを出せば、荷は戻せます」
「だが、控えには王国語の署名がない」
「あります。ここです」
私は荷受け控えの端を指した。水でにじんだ文字の下、薄い押印が残っている。普通なら見落とす。けれど同じ役所の印を十年見てきた私には、輪の欠け方で分かった。
「これは東倉庫の副監督印です。正監督印ではありませんが、緊急時の通関には使えます。港湾語の文面を添えて、関所へ出してください」
商人たちは顔を見合わせた。そのうち一人が、深く頭を下げた。
「助かった。冬前の塩だ。止まれば北区の干し肉屋が困る」
塩。紙の先に、また人の食卓があった。侯爵家では枝葉と呼ばれたものだ。私は手紙を畳み直し、三つの文を一枚の王国語要約へまとめた。商人は約束より多く銅貨を置こうとしたが、グレタが指で弾いて半分返した。
「うちの相場を崩すんじゃないよ」
「すまない、助かったものだから」
「助けたのは私じゃない」
グレタは私を見た。
「レヴィエの娘さんだ」
その呼び方に、胸の奥が少しだけ熱くなった。私は侯爵夫人ではなくても、誰かの文を読める。サラは隣で、濡れた髪をタオルに包んだまま目を輝かせていた。
「奥様、すごいです」
「奥様ではないわ」
「じゃあ、イザベル様」
「様もいらない」
サラは困った顔をした。マルタが静かに笑う。
「急に呼び捨ては難しいでしょう。イザベル様でよろしいのでは」
「そうね。今日は、それで」
会館の奥で、雨戸が鳴った。その音に紛れて、玄関の鈴が揺れる。入ってきたのは、黒い外套を着た男だった。長身で、雨粒のついた銀灰の髪を後ろへ払っている。目元は冷たく整っていて、初対面なら近づきにくいと思っただろう。
だが私は、その人の名を知っていた。エルネスト・クロイツ公爵。隣国カルヴァレンの若き公爵で、外交全権を預かる人物だ。三年前の国境停戦交渉で、私は衝立の後ろから彼の発言を訳したことがある。彼は室内を一度見渡し、私の前で足を止めた。
「イザベル・レヴィエ殿」
侯爵夫人ではない名で呼ばれた。私は礼をした。
「クロイツ公爵閣下」
「ヴァルニエ侯爵家を出たと聞いた」
「早いですね」
「王都の雨の日に、外交文書を読める人間が移動すれば、三つの国の使者が気づく」
冗談なのか事実なのか分からない口調だった。彼は濡れた手袋を外し、封筒を一通差し出した。灰色の封蝋には、カルヴァレン公家の鷹の印がある。
「仕事の依頼だ。断っても構わない。だが、あなたの名で契約する」
その短い言葉に、私はしばらく返事ができなかった。雨宿りに来た会館の古い床板が、靴の下できしむ。夫の名でも、妻の名でもない。私の名で。公爵は私の沈黙を急かさなかった。ただ封筒を差し出したまま、静かに待っている。
紙を受け取る指が、少し震えた。サラが息を呑む音が聞こえた。外では雨が続いていた。けれど、濡れた外套の内側に、ようやく体温が戻り始めていた。