軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第37話 式前日の署名台/隣に立つ契約

婚礼の前日、私は白い布ではなく、署名台の高さを確かめていた。救護院の庭に運び込まれた机は、少し高い。大人が署名するにはちょうどいいが、子どもたちが式次第の写しへ名を書くには背伸びが必要になる。サラは椅子を置けばいいと言ったが、私は首を振った。

「椅子は不安定です。台を一段作りましょう」

「明日は結婚式ですよ」

「だからです。誰かが背伸びをしなければ名を書けない式にはしたくありません」

サラは呆れたように笑った。笑われても構わない。私にとって、署名台の高さは花の色と同じくらい大切だった。マルタは庭の隅で、式のための布を畳んでいる。何度も同じ角を合わせては、目を潤ませていた。

「マルタ」

「はい、奥様」

「明日からも、その呼び方でいいです。でも、嫌なら変えてもいい」

彼女は布を抱えたまま固まった。

「嫌なわけがありません。ただ、以前の奥様と、明日の奥様は同じ言葉でよいのかと」

「言葉は同じでも、意味は変えられます」

マルタは少し考え、深く頷いた。

「では、私が呼びたい意味で呼びます」

「お願いします」

午後、エルネスト様が司法局の箱を持って来た。婚姻記録の最終版、職務継続確認書、財産目録、利益相反の報告書。普通の婚礼前日なら、花や料理の確認で済むのだろう。私たちの机には、印章と封蝋が並んでいる。

「飽きていないか」

彼が尋ねた。

「少し」

「正直だな」

「でも、必要です」

私は職務継続確認書を読み直した。婚姻により、多言語文書監査官の任期、閲覧権限、署名権限は変更されない。カルヴァレン公爵家の利害に関わる文書を監査する場合、外務卿と司法局の共同確認を受ける。恋をしたからといって、職務が曖昧になってはいけない。愛されることを理由に、仕事を軽くされるのも困る。逆に、仕事を理由に愛を隠す必要もない。

「ここに追記します」

私は余白へ一文を書いた。監査官本人の意思に反し、配偶者または婚家が職務文書の署名、閲覧、保管を代行してはならない。エルネスト様はその文を見て、すぐに頷いた。

「当然だ」

「当然のことほど、書いておきます」

「私が忘れると思うか」

「あなたが忘れなくても、周囲が便利に忘れることがあります」

「その通りだ」

彼は少し苦い顔をした。公爵家という大きな家では、本人の意志より家の都合が先に歩くことがあるのだろう。夕方、外務卿が到着し、書類の束を見て頭を抱えた。

「婚礼前日にここまで文書を増やす者を、私は初めて見た」

「前例になります」

「君は何でも前例にする」

「悪い前例より、明文化された前例の方が扱いやすいです」

外務卿はため息をついたが、確認印を押した。封蝋が赤く固まる。その小さな丸い印が、明日の私を守る。夜、救護院の廊下でサラが私を呼び止めた。

「レヴィエ様は、明日、怖くありませんか」

「少し怖いです」

「幸せなのに?」

「幸せだから怖いこともあります。大切なものは、失う想像がしやすいから」

サラは黙って、手元の式次第を見た。

「でも、怖いならやめる、ではないのですね」

「はい。怖いから、確かめて、書いて、選びます」

廊下の窓から、庭の署名台が見えた。木工職人が急いで作ってくれた一段低い台が、机の前に置かれている。明日、子どもたちは背伸びをせずに名を書ける。私も、誰かの陰に隠れずに名を書く。婚礼の準備としては、少し事務的かもしれない。けれど私には、これが一番静かな祝福に思えた。

婚約契約の最終確認は、私の新しい書庫で行った。窓辺の月桂樹は新芽を出している。机の上には、婚約契約、職務上の利益相反届、私的関係に関する確認事項、そして将来の居住地協議書が並んでいた。サラは呆れた顔で言った。

「結婚って、こんなに紙がいるんですか」

「私たちの場合は、少し多いです」

「少し?」

オリーヌが笑い、マルタが茶を置いた。エルネスト様は真面目に書類を確認している。

「ここ、居住地協議の期限を入れた方がいい」

「婚姻後三か月以内でどうでしょう」

「よい」

「あなたの公爵領での滞在期間は」

「あなたの職務に支障が出ない範囲で調整する」

「曖昧です」

「では、春と秋に各一か月を基準に」

サラが頭を抱えた。

「浮き立つところはどこですか」

エルネスト様が真顔で答えた。

「この後だ」

私が咳き込むと、マルタが珍しく吹き出した。確認が終わると、私たちは署名した。婚約契約は、結婚を縛る紙ではない。少なくとも私にとっては、飲み込まれないための境界線であり、隣に立つための地図だった。署名後、サラたちは気を利かせたのか、書庫を出て行った。扉の向こうで足音が止まったので、聞き耳は立てているかもしれない。

エルネスト様は窓辺に立った。

「これで、あなたを妻と呼ぶ準備ができたのか」

私は少し考えた。

「私は、あなたの妻になります。でも、それだけではありません」

「分かっている」

「監査官で、通訳官で、レヴィエ家の娘で、サラの後見人で、マルタの雇い主で、オリーヌの上司で」

「私の隣に立つ人でもある」

彼が続けた。私は頷いた。

「はい」

その言葉は、今度は怖くなかった。彼は私の手を取り、指先にそっと口づけた。

「あなたの名を消さない」

「私も、あなたの怒りを消しません。ただ、必要なら一緒に読みます」

「それは助かる」

彼は少し笑った。扉の向こうで、サラが小さく何かを言い、オリーヌに止められる音がした。私は笑いをこらえた。完璧な静けさではない。でも、私の新しい家らしい音だった。机の上の契約書に、二つの署名が並んでいる。妻の座を断った私が、今度は自分の名で、隣に立つ契約を選んだ。

それは敗北ではない。回復でも、単なるやり直しでもない。新しい形の始まりだった。