作品タイトル不明
第12話 消えた救護院名簿/裁判所の灰色リボン
救護院の名簿が一冊、消えた。知らせを受けたのは、雪の匂いが近い朝だった。院長の手紙は王国語で丁寧に書かれているが、余白に川町の混合語が走っている。丁寧な文章ほど、余白に本音が出る。
なくなったのは、港へ移る可能性がある子ども二十三人の記録だった。名前、年齢、出身、親族、持病、本人の希望。どれも、条約文の上では小さな項目に見える。だがその小さな項目が消えれば、子どもは番号になる。
「写しはありませんか」
院長は唇を噛んだ。
「ありました。けれど、古い様式の写しで、あの子たちの呼び名しか残っていません。正式な名は、去年の火事の後でこちらへ移した帳簿に……」
「消えた帳簿にあるのですね」
「はい」
私は救護院の食堂に臨時の机を作った。子どもたちは不安そうに遠巻きに見ている。紙が増えると、大人が怒ると思っている子が多い。紙は命令の形で届くことが多かったからだ。サラが私の隣に座り、古い写しを広げた。
「奥様……いえ、レヴィエ様。この『ミラの弟のニコ』というのは、たぶん正式な名前ではありません」
「知っているの?」
「川町の市で、そう呼ばれていた子がいました。ニコは短い名で、本当はニコラス。でも、北方の人はニコラと呼びます」
呼び名は、生活の中で変わる。王国語の戸籍、北方語の市場、港湾語の積荷札。子どもたちはそのたびに少しずつ名を変え、最後には誰からも同じ人だと見えなくなる。私は三枚の紙を並べた。一枚目は古い写し。二枚目は医師組合の薬配給記録。
三枚目は港のパン配給帳。
「サラ、同じ子だと思う名前に印をつけて。間違えてもいい。間違えたら、理由を残せば直せる」
「理由を?」
「はい。理由のない訂正は、次にまた消えます」
彼女は真剣な顔で、ニコ、ニコラ、ニコラスを線で結んだ。続けて、ミラ、ミランダ、ミラ・川上、という三つの名を結ぶ。午後には、クロイツ公爵がカルヴァレン側の通行記録を持ってきた。彼は救護院の入口で靴の泥を落とし、子どもたちの視線を浴びても、余計な笑顔を作らなかった。
「こちらの記録には、国境を越えた未成年者の人数しかない。名は七人分だけだ」
「なぜ七人だけ」
「関所で治療を受けた者は名が残る。それ以外は、同行家族の人数欄に入れられている」
私はその説明に、胸の奥が冷えるのを感じた。同行家族の人数。数にされると、連れていかれた先で名を取り戻すのは難しい。特に、家族を失った子どもは。
「エリーズ様の記録も、そうでしたか」
尋ねてから、踏み込みすぎたと気づいた。けれど公爵は目を伏せただけだった。
「妹は、保護対象一名と記されていた。名は後から家の者が書き足した」
「後から」
「助からなかった後だ」
食堂のざわめきが遠くなる。文書は、いつも死んだ後に正しくなるのでは遅い。生きている間に名を残さなければならない。私は帳簿の復元手順を変えた。戸籍から写すのではなく、子ども本人と、知っている者の証言を先に聞く。次に医師、配給、関所、教会の記録を照合する。最後に外務院の保護名簿へ載せる。
「本人の記憶を、文書の第一資料にするのですか」
院長が不安そうに言った。
「子どもの記憶は揺れます」
「大人の帳簿も燃えます」
私の声は少し硬かった。すぐに息を整える。
「揺れるものには、揺れた理由を添えます。燃えるものには、写しを複数作ります。どちらも完全ではありません。でも、名を消すよりましです」
夕方、ニコがパンのかけらを握って私の机に来た。
「ぼく、ニコラスっていうの?」
「あなたがそう呼ばれたいなら」
「ミラはニコって呼ぶ」
「それも書きます」
「二つあっていいの?」
「いいのです。どちらもあなたを見つけるための名前です」
ニコは考え込み、パンを半分サラに渡した。消えた名簿は、その日のうちには戻らなかった。けれど二十三人のうち十七人の名が、別の紙から立ち上がった。私はその写しの最後に、自分の名を書いた。責任者、イザベル・レヴィエ。
誰かがまた消そうとしても、今度は消えた場所が分かるように。
◇
離縁手続きの第一回審問は、王都裁判所の小法廷で開かれた。外交文書の渦に巻き込まれていたが、私の婚姻はまだ紙の上で続いている。別居届は受理され、無償労務停止通知も記録された。けれど離縁には、夫の同意か、裁判所の判断が必要だった。
小法廷は石壁で、声がよく響く。私はマルタとともに原告席へ座った。サラは傍聴席にいる。オリーヌも来たがったが、公文書館の仕事を頼んで残した。被告席にはアルマン。隣には弁護士と、リリーヌがいた。リリーヌは目の下に薄い影を作っている。私と目が合うと、すぐに逸らした。
裁判官が記録を確認し、審問が始まった。
「レヴィエ殿。離縁を求める理由を」
「婚姻期間中、私の専門労務が夫の名で継続的に使用され、名誉、報酬、責任の記録が著しく不均衡だったためです。また、夫は私の意思に反して外交文書作成を当然の妻の務めとみなし、別居後も帰還を強制しようとしました」
弁護士が立ち上がる。
「異議があります。侯爵夫人が夫を支えることは、貴族社会において一般的な慣習です」
「慣習は、契約ではありません」
私は言った。裁判官が私を見る。
「続けなさい」
私は鞄から、灰色のリボンで結んだ文書束を出した。これは私が侯爵家で使っていた整理用の紐だ。外務院では赤や青の紐を使うが、侯爵家に公的な紐は支給されなかった。だから私は自費で灰色のリボンを買い、草案、清書、返答案を分類していた。
夫はそのリボンに見覚えがあるはずだ。彼の顔がこわばる。
「この束は、私が持ち出した私物ではありません。外務院から正式に取り寄せた過去提出文書の写しです。いずれもヴァルニエ侯爵名で提出されていますが、下書き段階の灰色リボン番号と照合できます」
裁判所の書記が束を受け取る。
「灰色リボン番号?」
「私が作業管理のために付けた番号です。夫は不要だと言いましたが、私は控えに残していました」
紙の端には、G-17、G-42といった小さな記号がある。灰色のG。侯爵家の誰も気にしなかった番号だ。けれど、その番号が私の仕事をつなげていた。弁護士は眉をひそめた。
「それが、あなたが作成した証拠になると?」
「筆跡、修正記号、番号管理、私の私費購入帳、マルタの勤務記録と照合できます」
マルタが証人として立った。彼女は静かに、しかしはっきりと答えた。夜更けに私が文書を訳していたこと。侯爵が朝にそれを持って外務院へ行ったこと。署名欄に私の名がなかったこと。リリーヌが屋敷へ来てから、私の書庫が私室代わりに扱われたこと。
アルマンは何度も弁護士に耳打ちした。だが、記録は強い。誰かが見ていた日々は、消えない。次にリリーヌが呼ばれた。彼女は細い声で答えた。
「わたしは、イザベル様がどれほど文書を作っていらしたか、分かっていませんでした」
アルマンが鋭く彼女を見た。リリーヌは震えながら続けた。
「でも、南書庫にはイザベル様の下書きがたくさんありました。旦那様が、それを王家の求めで提出するとおっしゃったのを聞きました」
法廷がざわついた。私は息を止めた。リリーヌは、こちらを見ないまま言った。
「偽造書簡に使われたかは知りません。でも、原稿は渡されました」
アルマンが立ち上がった。
「リリーヌ!」
「静粛に」
裁判官の槌が鳴る。リリーヌは泣きそうな顔だったが、言葉を取り消さなかった。私は彼女を憎んでいた。それは消えない。けれど、今この場で彼女が難しい文を読もうとしていることだけは、認めなければならなかった。審問の終わり、裁判官は次回までに追加証拠を求め、暫定的に私の別居継続と無償労務停止を再確認した。
小法廷を出ると、リリーヌが廊下で立っていた。
「イザベル様」
私は足を止めた。
「ごめんなさい、とは言いません。言っても、戻らないことが多すぎるので」
彼女は手を握りしめている。
「でも、わたしが見た手紙の差出人を、あとで書きます。正確に」
「お願いします」
それだけ答えた。許すかどうかは、まだ分からない。ただ、彼女が初めて自分の言葉に責任を持とうとしていることは分かった。灰色のリボンで結ばれた文書束が、裁判所の記録室へ運ばれていく。私が消されないためにつけた小さな番号が、ようやく声を上げ始めていた。