作品タイトル不明
第11話 冬前の麦と薬/公爵家の古い傷
冬前の国境は、数字が生き物のように増える。必要な麦袋、薬箱、毛布、乾燥肉、石炭、馬車、護衛、通行証。ひとつ不足すると、次の数字がすぐに歪む。私は公文書館で、地図と輸送表を広げていた。外交は大使の言葉だけではない。
冬の前に何台の馬車が橋を渡るかも、外交だ。
「薬馬車は十二台必要です」
オリーヌが報告する。
「医師組合の申請では九台でした」
「救護院の人数が増えています。川町からの追加避難が昨日だけで三十七人」
サラが横から言う。
「あと、咳の子が多いです。ニコの妹も熱が出てます」
私は輸送表を直した。薬馬車十二台。毛布は五百枚追加。麦は北方三国から出すが、王国側が通行税を免除する必要がある。港湾連盟は馬を出す代わりに、倉庫保管料の補填を求めている。それぞれが自分の損を減らそうとする。それを責めるだけでは、馬車は動かない。
「港湾連盟には、保管料補填ではなく優先荷役権を提案します。王国側の負担は減り、港湾側は来春の利益を得られる」
「北方三国は」
「麦を出す代わりに、避難民の家族再会名簿へのアクセスを求めています。これは認めます。ただし、子ども本人の意向確認を条文に入れる」
オリーヌがペンを走らせる。
「砂州は?」
「古帝国法の保護義務を根拠に、監査役を一人出してもらいます。面子を立てつつ、現場の透明性も上がる」
サラが感心したように言った。
「みんな、欲しいものが違うんですね」
「だから揉めます。でも、違うから組めることもあります」
その時、公文書館の扉が開いた。クロイツ公爵が、珍しく早足で入ってくる。
「北の橋で、王国兵が薬馬車を止めた」
私は立ち上がった。
「理由は」
「通行証の様式が古い。新しい附属書がまだ現場へ届いていない」
「何台ですか」
「三台。熱冷ましと咳止めが乗っている」
サラの顔色が変わった。
「ニコの妹の薬かも」
私は外套を取った。
「行きます」
「私も行く」
公爵が言った。
「隣国公爵が行けば、王国兵が硬くなります」
「では、少し離れて同行する。あなたが止められた時のために」
その言葉を断る理由はなかった。北の橋へ向かう馬車の中で、私は現場用の短い通達文を書いた。王国語だけではなく、兵が使う略語も入れる。長い条文は正しいが、雨の中で読むには向かない。橋に着くと、薬馬車は確かに止められていた。
兵士たちは悪人ではなかった。濡れた外套で震えながら、古い様式の通行証を見て困っている。責任を取りたくないのだ。
「責任者はどなたですか」
私が尋ねると、若い隊長が出てきた。
「王都からの新しい指示がまだ届いていない。古い証では通せない」
「こちらが暫定附属書の写しです。外務院受付印があります」
「だが、現場命令書ではない」
「こちらが現場用通達です。今、外務院臨時外交顧問として発行します」
隊長は私の肩書に迷った顔をした。以前なら、私はここで侯爵夫人として夫の名を使っただろう。今は青い印章を出した。イザベル・レヴィエの印。
「この通達に従った場合の責任は、私が外務院へ説明します。薬馬車を止めた場合の責任は、隊長が救護院へ説明することになります」
隊長の喉が動いた。彼は悪人ではない。ただ、紙が足りない場所で人は臆病になる。
「通せ」
隊長が言った。馬車が動き出した。御者たちが帽子を上げる。サラが橋の脇で両手を握りしめている。少し離れた場所で、クロイツ公爵がこちらを見ていた。橋の上を、薬馬車が一台ずつ渡る。その車輪の音を聞きながら、私は外交文書の重さを改めて思った。
紙は軽い。けれど、正しく届かなければ、薬箱は橋を越えない。帰り道、サラが眠ってしまった。膝の上に地図を抱えたまま、小さな寝息を立てている。公爵は向かいの席で静かに言った。
「今日のあなたは、王命より強かった」
「薬馬車が急いでいただけです」
「あなたは、急ぐべきものを間違えない」
その言葉に、私は窓の外を見た。川の上に、薄い霧がかかっている。冬は近い。会議まで、まだ直すべき紙が山ほどあった。
◇
クロイツ公爵が言葉に慎重な理由を、私はその夜に知った。薬馬車の件で王都へ戻ると、彼の別邸に北方からの急使が来ていた。用件は公爵家の私事だという。私は席を外そうとしたが、公爵に止められた。
「あなたにも関係がある」
そう言われ、私は応接室に残った。急使が持ってきたのは、一枚の古い写しだった。十年前の国境救護協定。紙は黄ばみ、端は何度も折られている。そこには、子どもの保護先を示す条項があった。公爵はその紙を見ても、表情を変えなかった。
だが、指先だけが少し動いた。
「これは?」
「十年前、あなたの妹君が行方不明になった時の協定写しです」
急使が言った。私は息を止めた。クロイツ公爵には妹がいた。幼い頃に亡くなったと聞いたことがある。それ以上は知らない。社交界では、冷淡な公爵の家には温かな話題が少ないと言われていた。公爵は静かに言った。
「続けて」
「当時の王国側文書では、保護先を『南の修道院』と訳しています。しかし北方語原文では『南岸の仮収容所』です。場所が違う」
部屋の空気が重くなった。南の修道院なら安全な保護施設だ。南岸の仮収容所なら、戦の混乱で移動する簡易拠点にすぎない。
「妹君は修道院へ送られたと記録されていました。しかし実際には、南岸の仮収容所で熱病にかかり、三日後に亡くなっています」
急使は紙を机に置いた。
「誤訳でした」
公爵は何も言わなかった。その沈黙は、今まで見たどの沈黙とも違った。私は胸が痛くなった。紙の上の誤訳は、時に人の一生を変える。知っていた。知っていたはずなのに、目の前の人の古い傷として見せられると、手のひらが冷たくなる。
「なぜ今、これが」
公爵が尋ねた。
「六カ国会議に反対する者が、この記録を使おうとしています。公爵閣下が王国を憎んでおり、今回の条約を私怨で動かしていると」
私は思わず口を開いた。
「それは」
違う、と言いかけて止まった。私が言うことではない。公爵は、ようやく私を見た。
「違わない」
低い声だった。
「私は王国の誤訳を憎んでいる。十年前、妹が死んだ時からずっと」
「公爵閣下」
「だが、憎んでいるからこそ、正確でなければならない。私怨で文を歪めれば、また誰かが死ぬ」
その言葉が、部屋に落ちた。私は、彼が冷淡と呼ばれる理由を少しだけ理解した。冷たいのではない。熱を紙へ移さないために、必死で抑えているのだ。急使が去ったあと、応接室には私と公爵だけが残った。彼は古い写しを見つめている。
「妹君のお名前を、伺ってもよろしいですか」
しばらくして、彼が答えた。
「エリーズ」
短い名前だった。私は手帳を開かなかった。記録すべきことと、ただ聞くべきことは違う。
「エリーズ様の件を、会議で利用される可能性があります」
「分かっている」
「対策を立てます」
「あなたは、私の私怨を恐れないのか」
私は少し考えた。
「恐れます」
彼の目がわずかに揺れた。
「だから、信じます。恐れずにいるより、恐れた上で正確であろうとする人の方を」
言い終えてから、頬が熱くなった。これは外交の返答ではない。あまりにも私的な言葉だった。公爵は長い間黙っていた。やがて、古い写しをそっと畳んだ。
「あなたは、時々ひどく難しいことを簡単に言う」
「簡単でしたか」
「私には、十年かかった」
その声には、少しだけ笑みが混じっていた。私は何も言えなかった。言葉を失うのは、これで何度目だろう。ただ、その沈黙の中で、彼の古い傷が利用されることだけは許したくないと思った。誤訳で失われた名を、もう一度誤った文の材料にしてはいけない。