作品タイトル不明
第84話 私のすべて
side:ハヤテ
転移の光がぱっと弾けて、視界が塔最上階のリビングへ切り替わる。
腕の中の重みが、さっきよりずっと重い気がする。
自分はご主人を絨毯の上に、できるだけ静かにそれでも急いで横たえた。
「ご主人、ご主人っ……!」
返事がない。
喉の裂け目から、絨毯の奥にまで赤いものが滲んでいく。
肩を叩いても、呼びかけても、瞼は固く閉じたまま。
息は、ある。けれど浅い。
「ユキ先輩――――ッ!」
文字通りの、裂帛の声を塔最上階全体に走らせた。
ユキ先輩はコアの小部屋だ、今ので聞こえただろう。
「あらら――何これ。」
先に来たのはシノさんだった。
猫又を腕に抱えたままだったのを、そっと床に下ろす。
口元から、いつもの飄々とした感じがすっと消えていた。
「シノさん、ご主人が、ご主人がっ……!」
「落ち着いて。」
シノさんが膝をついて、ご主人の胸元に手をかざす。
眉根の動きで、自分にも分かった。これはまずい、と。
そして、銀色の魔法陣が、リビングのど真ん中に音もなく開いた。
「ハヤテ、一体何事ですか――っ。ご主人様!」
転移の光が消えるよりも早く、ユキ先輩がご主人の傍らに膝をついていた。
白銀の長い髪が、勢いをまとったまま遅れて落ちる。
普段は凪いでいる蒼い瞳が、ぐらりと、波打っていた。
「……っ、ご主人様、ご主人様。」
細い指が、ご主人の喉元に伸びる。指先がはっきりと震えている。
震えながらも、傷の縁を割らないように、繊細に押さえた。
蒼い光が、指先から喉へと流れ込む。
先輩の癒しの魔法だ。
裂けた皮膚が、内側からじりじりと寄ってくる――が、顔色は悪いまま、むしろ苦し気に呻いている。
「血を、流しすぎています。それに、これは、毒……。」
ユキ先輩の声が、低くなった。
「毒っすか!?」
「はい。私の魔力では、傷の表面を縫うだけで精一杯です。解毒を終えるまでご主人様が持つとは、とても――。」
「ど、どうにかならないんすか!」
ユキ先輩は、唇を噛みしめた。
噛みしめてから、ふっと息を吐いた。
「……ご主人様の許可は、仰げませんが。」
蒼い瞳が、まっすぐシノさんを見た。
「エリクサーを使います。」
シノさんは、すぐに頷いた。
「うん。それしかないね。」
ユキ先輩は、もう一度ご主人の頬に指の背を当てた。
冷たくなっていく頬の上で、指がほんの一拍止まった。
「どれほどお叱りを受けようと、構いません。ご主人様は、私のすべてです。」
その横顔は、覚悟を決めた顔だった。
「ユキちゃん。」
シノさんが、いつもの軽さの抜けた、それでも穏やかな声で言った。
「ユキちゃんのご主人様は、そんなことで怒る人かな?うちが知ってる限り、絶対そういう人じゃないよ。ユキちゃんも、ほんとはわかってるでしょ~?」
ユキ先輩の長い睫毛が、一度だけ伏せられた。
細く、息を吐く。
「……そうですね。少し、動転しているみたいです。」
「当然だよね。さ、急いで準備しよ。」
シノさんが、リビングの管理端末を操作する。
壁面のモニタにエリクサーが映り、即座にコストを支払い交換。
光の粒が、シノさんの手のひらに集まる。
集まって、形を取った。
細長い、琥珀色の小瓶。中で液体が、ゆらり、と揺れる。
「お預かりします。」
ユキ先輩が、両手で受け取る。
左手でご主人の喉を支え、右手でゆっくり、瓶の口を唇に当てる。
口の端からこぼれないように、ゆっくりと。
トロリと、琥珀色の液体が喉の奥へ落ちていく。
ご主人の喉仏が、反射でこくりと動いた。
喉の傷がふさがり――皮膚の色が、戻っていく。
さっきまでの、土気色の唇に、ほんの少しずつ、赤が戻る。
呼吸が深くなった。
「あ……。」
ご主人の眉間の皺が、一度だけ寄って、ふっと解ける。
「心拍も呼吸も整いました。」
ユキ先輩が、長く息を吐いた。
吐いてから、左手の指でそっとご主人の前髪を払った。
「もう大丈夫。意識が戻るまで、安静にね。」
シノさんが、横から低く言って、絨毯の上に膝を畳んだ。
ユキ先輩は、もう一度ご主人の頬に手を当てた。
「シノさん、ハヤテ。ご主人様を、お願いします。」
聞いたことのない低い声。
ユキ先輩は幽鬼のようにふらりと立ち上がった。
「ユキ先輩……?」
自分の喉から、自分でも変な声が漏れた。
「ヒエッ。」
能面みたいに表情が抜け落ちていた。
「私のご主人様を傷付けておいて。」
「あわわ……。」
「逃げおおせると思わないことです。」
ユキ先輩の足元に、銀色の魔法陣が輝く。
光が一度だけ瞬いて――ユキ先輩は、その場から消えた。
リビングが、しん、とする。
「……ねぇ、ハヤテちゃん。」
シノさんが、ぽつりと言った。
「リンちゃんよりも、ユキちゃんのほうがよっぽど、やっちゃいそうな顔してたね~……。」
「こ、こ、こわかったっす~!」
自分は思わず、翼で身体を覆った。
「シノさん、ご主人、ベッドに寝かせてくるっす!」
「うん、そうしてあげて。絨毯も替えないとね~。」
そっとご主人を腕に抱え直す。
side:ユキ
火山エリアの熱気が、私の頬を撫でる。
私はその場で目を閉じ、魔力の残滓を追う。
――どこへ。
ここにはいない。森エリアの植物もその行方は知らない。
「――ダンジョンの、外ですね。」
ダンジョンの境界を越え、人気のない山道の上へ飛ぶ。
夕暮れの空が、橙と紫に滲んでいた。
ここは自然に満ちている。即座に周囲の草花を支配し、痕跡を追う。
ダンジョンを抜け、公共交通は使わず、森に身を隠しましたか。
悪手。
転移。
「見つけました。」
「――!」
フードの陰で、息を呑む音がした。
「逃がしません。」
「【縮地】――」
「遅いですね。」
私は宙に踏み込んで、彼女の真上を取った。
眼下のフードが、跳ね上がる。
その内側で、青と金の瞳が、こちらを見上げる。
「喉の傷と同じ魔力を感じます。あなたが、ご主人様を、傷付けたのですね。」
「……。」
答えはない。しかし、疑う余地は皆無。
私の指先から、無数の氷柱が、彼女の足元の岩肌から突き上げる。
逃げ場を塞ぎ、追い立てる。
彼女は跳ね、転がり、双剣で氷柱を砕きながら距離を取ろうとする。
「無駄です。」
私の足の下から、蒼い光の膜が広がり、空間そのものを覆う。
彼女の空間跳躍が、私の世界の中で収束する。
「な……っ。」
「森も、土も、空も、私の味方です。あなたの逃げ道は、もうありません。」
私は、小さく呼吸を整えた。
胸の奥で、何かが煮え立っていた。
「私のご主人様の、喉を、斬りましたね。」
「……そう。私がやった。」
私の眼前で、無数の光の鎖が、空間ごとを巻き込んで彼女を包む。
「――く、っ。」
剣が、鎖の重みに耐えきれず、片方が手から滑り落ちた。
もう片方も、私の指先から伸びた光の刃が、根本から断つ。
両手が空になり、彼女は膝をつく。
フードがめくれて、プラチナブロンドの髪が夕風に泳いだ。
私は、彼女の目の前に立った。
左手で、彼女の細い首を持ち上げる。
ヘテロクロミアの瞳が、私を見上げる。
諦めたような視線。抗う力は、もう残っていない。
私の右手に、蒼い光の刃が、すっ、と生まれた。
刃の先を、彼女の喉元に、添える。
私のご主人様が受けたのと、同じ場所に。
「……。」
彼女は、目を閉じた。
刃を押し込めば、一息で終わらせられる。
そう、思った瞬間――。
『俺のダンジョンは、攻略者を殺さない。』
ご主人様の声が、ふっと、私の耳の奥に蘇った。
私は、刃を、止めた。
止めたまま、何度か、深く呼吸をした。
ご主人様。
ご主人様は、こんな相手にも、その方針を変えたりは、しないのでしょうね。
私は、目を閉じた。
閉じてから、ゆっくり、開けた。
蒼い刃を、ふっ、と消す。
代わりに、右手を強く握り、鳩尾に叩き込んだ。
無防備な相手の意識を断ち切るには十分。
「……あなたを殺さないのは、私の意志ではありません。ご主人様の方針です。」
私は、光の鎖で彼女の手足と口を、ぐるぐるに縛った。
「行きましょう。」
私は、彼女の襟元を片手で掴んで、宙に浮かんだ。
夕焼けが、私の白銀の髪を、橙に染めていた。
私は、彼女を肩に担いだまま、塔最上階へ戻った。
「あ、おかえり、ユキちゃん。」
戻った先のリビングは、ちょっとした惨状になっていた。
5人の男女が意識を失ったまま、ロープでぐるぐる巻きにされ、転がされている。
ソファには、人の姿に戻ったリンドヴルムが既に帰還し、そんな5人を監視しているようだった。
シノさんの目が、私の肩に担がれた荷物を一瞥した。
「……どうする、この子ら?」
「そうですね。小部屋でも作って、放り込んでおきましょう。」
私は、ぽつりと答えた。
「そだね。」
そのとき、リビングの奥の廊下から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「お、お疲れさまっす~……!」
ハヤテだった。
ご主人様を寝室に運び終えて、こちらの様子を見に来てくれたらしい。
リビングの扉からこちらを窺うように覗いている。
「ま、まだ怒ってるっすか……?」
「……ごめんなさい、もう、大丈夫ですよ。」
ご主人様が無事なことが全てです。
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貯金残高:12,450,000円 / ダンジョン蓄積魔力:2,530
スキル:【剣術】Lv.5 / 【身体強化】Lv.5 / 【戦闘機動】Lv.3 / 【危機感知】Lv.3 / 【状態異常耐性】Lv.2 / 【魔力操作】Lv.2 / 【マナバースト】Lv.3
眷属:ユキ(エルダーエルフ)/ ハヤテ(鷹獣人)/ リンドヴルム(祖竜)/ シノ(九尾)/ 猫又(下位妖獣)/ コムギ(土精)/ メフィス(契約の悪魔)/ リヴァイアサン
【ダンジョン構成】
入口 → 温泉街エリア(補給/工房/宿泊/食堂/湯治/神社)→ 森エリア / 火山・大空洞エリア / 海洋エリア&バベルの塔 → 居住エリア(塔最上階)→ コアの小部屋
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