作品タイトル不明
もう流されない
連合商務調整局の朝は、静かに始まる。
執務棟の高い窓から差し込む光は、時間帯ごとに角度を変え、
廊下に落ちる影が、今日が昨日と違う一日であることを告げていた。
エルフリーデは、執務室の机に向かい、
積み上げられた書類に順番をつけていた。
内容は、どれも対外案件だ。
航路の再編。
関税率の調整。
式典後に生じた非公式な問い合わせ。
国名も、立場も、ばらばらだが、
いずれも一つの宛先に集約されている。
――対外調整監。
それが、今の彼女の肩書きだった。
この役職が設けられたのは、式典の直後だ。
雲漢との折衝。
ヴァルディス記録院の引き下がり。
アルディア王国への対応。
それらが一夜で決着したわけではない。
だが、あの場で「誰が立っていたか」は、確実に記録された。
連合は、それを見逃さなかった。
対外調整監という役職は、
誰かを引き上げるために作られたものではない。
必要だから、置かれた。
それだけだ。
エルフリーデは、書類の一枚に目を通し、
訂正用のインクで短く修正を入れる。
文面は丁寧だが、曖昧さが残る。
相手国が、判断をこちらに委ねようとしているのが分かる。
彼女は、迷わず一文を足した。
責任の所在。
次回協議の条件。
期限。
どれも、感情を挟まない、事務的な言葉だ。
だが、それで十分だった。
部屋の外では、足音が止まり、
一瞬だけ、誰かが様子を窺ってから立ち去る気配がする。
もはや、
「どう扱えばいいか分からない人物」ではない。
判断を仰ぐ相手。
それが、今の立ち位置だった。
昼前、控えめなノックが響く。
「どうぞ」
扉を開けたのは、ルーカスだった。
式典の夜とは違い、
今日は連合商務調整局の人間としての装いだ。
肩書きも、立場も、すでに説明はいらない。
「時間、少しいい?」
「はい」
エルフリーデは、手を止める。
「雲漢から、正式文書が来た」
「想定内ですね」
即答だった。
「内容も?」
「おそらく、静かな協調の確認です」
ルーカスは、小さく息を吐いた。
「正解」
それだけだった。
二人の間に、余計な言葉はない。
もう、説明も確認も必要ない段階に入っている。
「忙しくなるな」
何気ない調子で、そう言う。
エルフリーデは、視線を戻しながら答えた。
「ええ」
一拍も置かず、続ける。
「ですが――慣れています」
それは、誇りでも、虚勢でもない。
ただの事実だった。
ルーカスは、それ以上何も言わず、
短く頷いて部屋を出ていく。
扉が閉まり、
執務室には再び静けさが戻る。
エルフリーデは、次の書類に手を伸ばした。
かつて、
彼女は守られる側だった。
追放され、
利用され、
選択肢を奪われてきた。
だが今は違う。
ここでは、
誰も彼女の過去を問題にしない。
必要なのは、
判断と責任だけだ。
それを、彼女は持っている。
窓の外では、連合の旗が静かに揺れていた。
世界は、まだ忙しい。
争いも、交渉も、終わりはしない。
だが――
エルフリーデ・フォン・シュトラールは、
もう、流される場所にはいなかった。
自分で立ち、
自分で決める位置にいる。
それで、十分だった。