作品タイトル不明
最後の接触
会場に入ってから、しばらくの時間が過ぎていた。
祝賀の音楽は続いているが、広間の空気は次第に落ち着きを帯びている。
最初の挨拶回りが一段落し、各国の使節たちは、
改めて「誰と、どの距離で話すか」を選び始めていた。
エルフリーデとルーカスも、
いくつかの国の代表と短い会話を交わし終えたところだった。
どれも、表面的には穏やかだ。
通商の話題。
航路の安全。
形式的な祝意。
だが、言葉の裏にある探りは、互いに理解している。
最後の挨拶を終え、
二人がわずかに立ち位置を変えた、その時だった。
「……少し、よろしいでしょうか」
背後から、静かな声がかかる。
振り返る前から、
その一団が誰であるかは、察しがついた。
動きに無駄がない。
距離の詰め方が、あまりにも自然すぎる。
エルフリーデが先に向き直る。
そこにいたのは、黒に近い濃色の衣を纏った数名。
装飾は控えめだが、徽章だけは明確だ。
ヴァルディス記録院。
歴史を管理し、記録を握り、
「人材」を資源として扱う独裁国家の中枢。
先頭に立つ男が、穏やかに一礼する。
「ヴァルディス記録院、外務記録官の一人です」
名は名乗らない。
それ自体が、この組織の流儀だった。
「先ほどのご対応、拝見しておりました」
称賛とも、観察報告とも取れる言い方。
その声を聞いた瞬間、
ルーカスの中で、わずかな警戒が走る。
――来る必要のない相手だ。
すでに雲漢から、はっきりと釘を刺されている。
それでも――
目の前に「本人」がいれば、話は別になる。
ルーカスが、半歩だけ位置をずらす。
庇うでも、前に出るでもない。
ただ、並びを崩さない。
エルフリーデは、落ち着いたまま応じた。
「それは、どうも」
礼は、簡潔。
だが、曖昧さはない。
記録官は、彼女を真正面から見た。
探る視線。
計測する目。
「貴女の経歴については、いくつか記録を拝見しております」
遠回しな言い方だった。
「異例の経路。
異例の復帰。
そして、異例の現在地」
一つひとつ、評価ではなく事実として並べる。
「我が国では、そのような経歴の方を高く評価します」
それは勧誘ではない。
もっと正確に言えば――最終確認だった。
エルフリーデは、微動だにしなかった。
「評価されるために、ここに立っているわけではありません」
即答だった。
言葉に、迷いがない。
記録官の眉が、ほんのわずかに動く。
「……なるほど」
それでも、もう一歩だけ踏み込む。
「ですが、貴女ほどの能力を、個人の選択に委ねておくのは――」
「選択しています」
エルフリーデは、被せるように言った。
声は低く、静か。
だが、遮る意志は明確だった。
「今も、この場に立つことも、
どの立場で話すかも」
記録官を、まっすぐに見る。
「すべて、自分で選んでいます」
その言葉に、
ヴァルディス側の随行者の一人が、わずかに息を呑んだ。
記録官は、視線を逸らさない。
「それは、長く続くものではありません」
脅しではない。
経験則を述べる声だった。
「選択とは、やがて――」
「奪われるものですか?」
エルフリーデが、静かに問い返す。
記録官が、初めて言葉を止めた。
「あなた方は、人を集めます」
続けて言う。
「ですが、私は“集められる側”にはなりません」
感情はない。
だが、立場は揺るがない。
「必要なら、協力はします。
対等な立場で」
「ですが」
一切の間を置かず、続ける。
「管理される気はありません」
沈黙が落ちる。
短いが、決定的な沈黙。
――この人物は、従属しない。
記録官は、ゆっくりと息を吐いた。
「……理解しました」
初めて、はっきりとした結論が出る。
「貴女は、我々の枠には収まらない」
敗北宣言に近い言葉だった。
だが、声色は変わらない。
それが、ヴァルディスの礼儀だ。
「本日のところは、これ以上の接触は控えましょう」
簡潔に一礼する。
「判断を誤らずに済みました」
それが、最大限の賛辞だった。
ヴァルディス記録院の一団は、
来た時と同じ速度で、静かにその場を離れていった。
――最後の接触だった。
それを、ルーカスは理解していた。
エルフリーデも、同じ結論に辿り着いている。
「……今の方々」
小さく、確かめるように言う。
ルーカスは、視線を前に向けたまま答えた。
「懲りてはいる」
短く。
「だが、確かめずにはいられなかったんだろう」
エルフリーデは、静かに頷いた。
「それなら」
小さく言う。
「もう、大丈夫ですね」
ルーカスは、ほんのわずかに口元を緩める。
「そうだね」
それ以上は、付け加えない。
この夜、
ヴァルディス記録院は完全に理解した。
――エルフリーデ・フォン・シュトラールに、二度と手を出すべきではない。
それは雲漢の圧力だけではない。
目の前の人物自身が、そうさせない存在だと知ったからだ。
そしてそれは、エルフリーデがこの舞踏会で得た、最も静かで、最も重い成果の一つだった。