作品タイトル不明
マルコのアトリエへ
朝の王都は、まだ眠そうに動いていた。
露店の屋根が立ち上がり、馬車の蹄が石畳を打ち、パン屋の窓から焼きたての匂いが流れてくる。
「でも、あなたって本当に一人しかいないの? まるで分身でもいるみたい」
エレナが横で言った。
「どういうこと?」
「だって、遠いブレンナールに行ったかと思ったら、もう王都に戻ってきてるんだもの」
「うふふ。私、せっかちなのかもしれないわね」
私は笑った。
「でも、やるべきことがあるときは、全力で動きたいの」
マルコのアトリエの前に立った。
「マルコ、来たわよ!」
エレナが扉を叩いた。
──またもじゃもじゃの髪で出てくるのかしら。
扉が開く音がした。
「ど、どうも」
意外にも、整った姿のマルコが立っていた。
「あら、今日は綺麗にしてるじゃない」
エレナが目を丸くした。
「エ、エレナさんが、その方が良いって言ってくれたから……」
エレナはそれを華麗に無視して、すたすたと部屋に入っていった。
「あっ、ガブリエル、これが原画よ!」
「……」
マルコが少し寂しげに後を追ってきた。
私は看板の原画を受け取った。
「これが欲しかったの」
紙の上で、絵が呼吸している。マルコの線は迷いがなく、それでいて柔らかい。私のためにこれを描いてくれた、という事実が、改めて胸に染みた。
「マルコ、この図柄を、布に小さくたくさん印刷することはできないかしら?」
マルコが原画を見つめた。
「……方法はいくつか考えられますが、どうしてですか?」
私はエレナとマルコを順に見た。
「私たちの商品が、私たちの店の正規品である事を証明するために——」
「全ての商品にその布を、小さく縫い付けたいのよ」
これが、この世界に初めて生まれたブランドタグの概念であった。
三人でテーブルを囲んだ。
「確かに、それなら競合店が似たような商品を低価格で作っていても、ガブリエルさんの商品は独自の価値を持つことになりますね」
マルコが頷いた。
「ええ。お客様は、ガブリエル商店の本物の帽子や靴を求めてくれるはずよ」
私は身を乗り出した。
「それが、パージやミシェルの技術と心が詰まった、本物の商品の証明になると思うの」
「相変わらず、毎回色々思いつくわね」
エレナが感心したように笑った。
「そういえば」
マルコが思い出したように言った。
「昔の職人ギルドでは、自分たちの商品にマークを付けて品質を保証していたんですよね。それと同じことかもしれません」
「でも、具体的にはどうやって印刷するの?」
「リトグラフという技法を使うのはどうでしょうか?」
マルコの声に、芸術家の自信が戻ってきた。
「グラナス帝国で生まれた石版印刷の技術で、最近、芸術家たちの間で流行っているんです」
「リトグラフ?」
私とエレナの声が揃った。
「はい。この石板に油性のインクでデザインを描き、水と油の反発を利用して布に転写するんです。細かいデザインも、そのまま再現できますよ」
マルコが作業台の前に立ち、石板を取り出した。
「試しに一つ、描いてみましょう」
ペンを取り、慎重にデザインを描き始める。
「小さいサイズだから、細部に気をつけて転写して……」
私とエレナは、その手元をじっと見つめた。
しばらく後。
「石板にインクを塗って、布に転写すると……」
布が、マルコの手の下から引き出された。
その上に、ガブリエルのロゴが、美しく浮かび上がっていた。
「すごい! 綺麗に印刷されているわ!」
「やるじゃない、マルコ!」
エレナが彼の肩に手を置いた。マルコが照れたように顔を伏せる。
「凹凸のない石板で印刷するから、布を痛めずに綺麗に印刷できるんです」
「これよ! 想像以上だわ! もっとたくさん作れるかしら?」
「はい。ただ、もっと大きな石板にたくさん描く必要があります。それに、布も大量に必要ですね」
私は鞄から布を取り出した。
「一応、これを用意してきたの」
マルコが、その布を目にした瞬間、固まった。
「こ、これはシルクじゃないですか! 東洋からの輸入でしか手に入らない高級品……!」
「商品に使うには高価すぎるけど」
私は指でチョキを作って、布の幅を示した。
「小さく切って使う分には、それほどコストはかからないわ」
「わ、わかりました」
マルコが顔を上げた。
「じゃあ、すぐに取り掛かりましょう。みなさん手伝ってください」
「はーい!」
マルコは石板に、同じマークを描き続けた。一つ、また一つ、丁寧に。エレナが薬液を使って石板を処理した。私はインクを塗り、布に転写する作業を担当した。
夜が更けた。
朝が来た。
「で、できました」
マルコの声が、疲労と達成感で揺れていた。
私とエレナは、覗き込んだ。
「こ、これは——」