作品タイトル不明
母のような存在
ブレンナールの郊外に、大きな家があった。
派手ではないが、手入れの行き届いた庭と、白く塗られた窓枠。ナタリーの実家だった。
「これ、私が焼いたクッキーです。カトリーヌ夫人のお口に合うかしら?」
ナタリーの母がカゴを差し出した。私は両手で受け取った。
「ありがとうございます! 宿泊場所を提供していただいた上に、お菓子まで」
「母はお菓子作りが趣味なんです。それに、この家は王都に引っ越した叔母の家で、空き家ですし」
ナタリーが横で照れている。
「ブレンナール滞在中はぜひ、ここを使ってくださいませ」
「ありがとうございます」
母娘に挨拶をして、玄関を出た。
「素敵なお母さんね」
「はい。優しくて、自慢の母です」
ナタリーが少し誇らしげに言った。
「さーて、どうする?」
パージが伸びをした。
「荷物を置いたら、工事中の店を見に行くかい?」
「いえ、私は先にカトリーヌ夫人のところにお見舞いに行くわ。後でお店で合流しましょう」
日傘を差し、クッキーのカゴを抱えてブレンナールの道を歩いた。
──いい天気ね。やっぱり、私、この街が好きだわ。
街路樹の葉が風に揺れ、石畳の上に光の模様を作っている。海の方角から、潮の匂いが微かに届く。半年離れていた街は、それでも記憶のままだった。
カトリーヌ夫人の屋敷の前に、見覚えのある自動車が止まっていた。
──あら、あの車は……。
屋敷のドアが開いて、ニッキーが出てきた。
「ニッキーさん!」
ニッキーが振り返った。表情が、一瞬で曇った。
「ガブリエルさん! 大変です!」
胸の中で、何かが冷たく落ちた。
「カトリーヌ夫人が……!」
◇ ◇ ◇
玄関ホールは広く、天井近くに巨大な天使像があった。
その下で、ボリボリと音がしていた。
「あら、本当に美味しいわ〜。このクッキー!」
カトリーヌ夫人が、私のカゴから出したクッキーを齧っていた。
「お、お元気そうですね」
「そうなのよ。病気が治ったらお腹が減ってお腹が減って」
夫人が、嬉しそうに次の一枚に手を伸ばす。
「食べて元気を取り戻さなきゃね」
「そ、そうですか?」
私はニッキーに小声で言った。
「もう! ニッキーさん、驚かさないでください!」
「? 何がですか?」
ニッキーが、けろりと首を傾けた。
「なんと、カトリーヌ夫人が店のセレモニーパーティーを主催してくれることになったんです!」
「え! そうなんですか!」
「ええ! だって、あなた方の店がブレンナールに帰ってくるじゃない。だったら、一番のお客だった私が、出来る精一杯をやってあげたいの」
胸の中が、温かくなった。
「奥様……!」
「私のお友達を片っ端から呼ぶわよ。王都のパーティに負けないくらい、大きな会を開いてみせるわ」
「カトリーヌ夫人が元気になって味方してくれるなら、店の成功間違いなしですね、ガブリエルさん!」
「はい!」
「では、僕は先にお店に行ってきます」
ニッキーが立ち上がった。
「はい。私はもう少し夫人とお話していくので」
ニッキーが部屋を出ていった。お茶を一口含もうとした時、夫人が口を開いた。
「で、あなた達、まだくっつかないの?」
「!」
私はカップを机に戻しかけて、危うく取り落とすところだった。
「ニッキーもだらしないわね」
夫人がため息をついた。
「と、突然何を言い出すんですか!?」
「あらいいじゃない」
夫人の目が、いたずらっぽく細くなった。
「あなたはまだ若いんだから、もっと恋愛するべきよ」
「奥様、私、もうそんなに若くないですよ」
苦笑しながら答えた。
夫人がそっと手を伸ばし、私の頭の上に乗せた。
「いいえ、私から見たら、あなたは——」
掌が、少し冷たかった。それでも、その重みは確かだった。
「娘みたいなものよ」
「……」
「だから私を、お母さんみたいに思っていいのよ」
私は何も言えなかった。
私は、自分の母のことをあまり知らない。
私の記憶の中の母は、いつも父に怯え、ただ従うだけの女だった。そしてそのまま、私が子供のうちに亡くなった。
だから、もし私にとって母のような存在があるとすれば——
それは間違いなく、カトリーヌさんだった。