作品タイトル不明
クレシェントホープ
「クレシェントホープ!?」
朝の店内に、私の声が響いた。
「ええ。クレシェント夫人が運営する孤児院よ」
エレナが商品棚に布を並べながら答えた。
「立派な人じゃない」
「表向きはね」
エレナの手が、止まった。
「でも、そこにいる孤児たちは、養育費を夫人から貸し付けられているのよ。その借金で縛り付けて、生涯言うことを聞かせているらしいわ」
「言うことを聞かせるって……何をさせてるの?」
「なんでも。表向きの商売から、裏の商売まで、って噂よ」
「裏の商売?」
エレナが、少し声を低くした。
「なんでもよ。人攫いや詐欺、殺人依頼まで……」
「まあ、なんて恐ろしい事!」
私が真顔で驚いたので、エレナの方が少し慌てた。
「も、もちろん、噂だけどね。そんな事してたら、貴族社会にいられないだろうし」
「そ、そうよね」
「でも、一瞬噂を信じちゃうくらい、迫力があったわね」
「う、うん」
昨日のクレシェント夫人の顔が、目の裏に浮かんだ。サングラスを外した瞬間、片目で煌めいたダイヤ。後ろに控えていた少年と少女の、感情の読めない目。
──でも、ちょっと怖いわ。アンネリーゼに聞いてみようかしら。
その時、店のドアが開いた。
チリンチリン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ……」
振り向いた瞬間、声が止まった。
立っていたのは、ロザリーだった。気まずそうに俯いている。
「ロザリー……?」
「ロザリーって、まさか?」
エレナが私を見た。
「ええ、前の夫と結婚した……」
「!!」
エレナの目が、ゆっくり険しくなった。
──この人、ガブリエルの夫を奪って、店も乗っ取って、詐欺をしようとしたとんでもない人じゃない。
私は深く息を吸った。怒りも驚きも、まずは飲み込む。
「お久しぶりね、ロザリーさん。先日、妹のマリアさんとお会いしたわ」
ロザリーが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「突然お邪魔してごめんなさい。少しお話しできないかしら」
「……わかったわ。こちらへ」
エレナが私の腕に手をかけた。
「ガブリエル、本気なの?」
「大丈夫よ。話を聞くだけだから」
応接室に通すと、ロザリーは緊張した面持ちでソファに座った。手が膝の上で組まれ、その指がほんの少し震えているのが見えた。
私は静かに椅子に腰を下ろした。
「それで、話というのは?」
ロザリーが、深呼吸した。
それから、意を決したように顔を上げた。
「……私に、一〇〇万R貸していただけないでしょうか」
部屋の空気が、止まった。
「は?」
「一〇〇万Rですって?」
「どうしても必要なの。助けてほしい」
──え? どういうこと? なんでこの人が私に頼むの? 何を考えてるの?
「私があなたにこんな事を頼むなんて、筋違いなのは分かってる。でも──あなたしか頼める相手がいないの」
「いやいやいやいや、おかしいでしょ。私があなたにお金を貸すはずないじゃない」
「そこをなんとか!」
頭の中を、嫌な可能性が一つよぎった。
──まさか、ジャック。
「離縁した後も、私にたかるつもり!?」
「違うんです。いや──それでもいい」
「ど、どういうことよ?」
ロザリーは答えなかった。
ただ、ソファから離れた。
そしてその場で、床に膝をついた。
「!」
私は息を呑んだ。
ロザリーは両手を膝の前に揃え、額が床につくほど深く頭を下げた。豪奢なドレスの裾が、応接室の絨毯の上に広がる。
「お願いします」
声が、押し殺されていた。
「理由は……言えません。ただ、お願いします」
私はその姿を、しばらく見ていた。
──理由は言えない。
その一言で、わかった気がした。この人は、私に説明することを許されていない。誰かに、言ってはならないと命じられている。
そして、こうして頭を下げているのは、おそらく彼女自身の意志ですらない。
──誰かに、試されている。
ロザリーの肩が、わずかに震えていた。プライドの高い女が、一番頭を下げたくない相手の前で、無言で土下座をしている。それがどれほどの屈辱か、想像はつく。
私は静かに息を吐いた。
応接室を出ると、エレナが廊下で待っていた。
「どうなったの?」
「……少し考えるわ」
「考える?」
エレナが眉を上げた。
「あんな女に貸すつもり!?」
「貸すかどうかは、まだわからない」
私はもう一度、応接室の扉を見た。
「でも、あの人の後ろに、誰がいるかは知っておきたい」
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
クレシェント夫人の邸宅で、夫人はパイプの煙を吐きながら、窓の外を眺めていた。
「あの子、どこまでやれるかしらね」
少女が、夫人の足元で湯を取り替えていた。
「自尊心ってのはね、捨てるって決めても捨てきれないものなのよ。ましてやロザリーは、見栄で生きてきた女だ」
夫人が口の端を上げた。
「私はね、ただ金が欲しいんじゃないの。あの子が本当に変われるかどうか、見たいだけなのよ」
煙が、ゆっくり天井に上っていった。