作品タイトル不明
ワイン会
「マルコ! まだ?」
エレナが玄関の扉に向かって声を張った。
「マルコの準備は終わったの?」
錠が外れる音がして、扉が開いた。
見違えた。
髭を剃り、スーツを着ている。骨格がいい。目の利く人間なら、どこを切り取っても絵になると気づくはずだった。
「見違えたわね」
「全く、あんたいい男なんだから普段から綺麗にしときなさいよ」
「シャワーが嫌いなんです」
「は?」
三人で家を出た。夜の空気が頬を冷やす。
「シャワーを浴びると、創作のアイデアが一緒に流れていくような気がして」
「そんなはずないでしょ」
エレナが呆れた顔をした。私は笑いをこらえた。
「私たちは辻馬車で行くわ。ガブリエルは?」
「ニッキーが迎えに来てくれるはずだけど……」
遠くから、低いエンジン音が近づいてきた。
「何あれ?」
「じ、自動車?」
T型フォードが通りに滑り込み、店の前で止まった。扉が開いて、足が降りてくる。
「こんばんは、ガブリエル」
ニッキーだった。夜会仕様の装いで、いつもより少し改まって見える。
「ニッキー……これは?」
「今後、自動車が流行りそうだからね。一台買ってみたんです」
助手席の扉を開け、手を差し出した。
「じゃあ、行きましょうか」
「は、はい」
エレナとマルコが辻馬車を拾うのを見送りながら、私は自動車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
高級住宅地の奥に、大きな邸宅が建っていた。
窓という窓に光が溢れ、馬車が列をなして玄関前に並んでいる。扉を抜けると、ワインのグラスを手にした紳士淑女が広間を満たしていた。笑い声と食器の音と、どこかから流れてくる弦楽の音が混ざり合う。
「なにあの変な服」
「喪服なのかしら」
「でも……」
囁きが、私たちの後を追いかけてくる。
──緊張するわ。それに、さっきから。
周囲の視線が、肌に刺さる。値踏みとも興味とも判断のつかない目が、あちこちから飛んでくる。
「やあ、マルコ! 珍しく来てくれたね」
人波をかき分けるように、恰幅のいい男が近づいてきた。
「ご、ご無沙汰しています侯爵」
「早く新作の絵を見せてくれ」
侯爵がニッキーに目を向けた。
「しかし、君たちが知り合いだったとは」
「今日、偶然知り合ったのです」
「先日は商談の機会をありがとうございました」
ニッキーが会釈する。侯爵の目が、私たちのドレスへ動いた。
「しかしお二人とも、変わった格好をした女性を連れているね」
「ガブリエルと申します」
「侯爵、私の顔を忘れましたか?」
エレナが静かに前へ出た。
侯爵が目を見開いた。
「なんとヴォーン夫人だったのか。喪は明けたのか?」
「はい。そして今は仕事を始めましたのよ」
「仕事?」
エレナがスカートの裾をつまんだ。
「この服の販売業ですわ」
ミンチェスター侯爵は、親切な方だった。
私たちの服の説明を熱心に聞いてくださり、ニッキーの事業にも興味を示してくださった。そして何より、マルコの存在が大きかった。侯爵はマルコの絵の熱心なファンで、その言葉には重みがある。
ソファのテーブルを囲み、四人でしばらく話した。
「黒というのは本来、一番明るい色なんです」
マルコが言った。
「暗いではなく?」
「赤、青、黄色の三原色を混ぜた色が黒です。なので、全ての色が重なった場所に生まれる——それが黒」
侯爵が身を乗り出す。
「だから、彼女たちのドレスは何よりも輝いているのです」
「な、なるほど。確かに……」
侯爵が私たちを改めて見た。その目が、さっきとは違っていた。
人が、少しずつ集まってきていた。
私は取り巻いて聞いている婦人たちに目を向けた。
「お近づきの印に——良ければみなさんに一着ずつ、プレゼントさせてください」
「え、いいんですか?」
「はい、もちろん。後ほど送らせていただきます」
人の輪が広がっていく。名前を聞かれ、住所を書き取り、笑顔を交わす。エレナが隣で静かに動いてくれている。
「やったわね」
エレナが低く言った。
「とにかく着てくれる人を増やしていきましょう」
人の声が重なり、グラスが揺れ、夜が深くなっていく。
「もしかして、あなた」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、若い夫人が立っていた。
見た瞬間、心臓が止まりかけた。
「ガブリエル姉さんなの?」